御山下る |
彼の歩んできた道は、険しい道だった。これまでも。
野を走り、海を渡り、最後の最後でこの山を登り、旅の最終目的地である聖地へ辿り付いた。だがその後の出来事に比べれば、旅は彼には楽しくすらあった。希望に満ちた目的があり、苦悩もしたが語り合う友たちがいた。温もりがあった。
最初に異邦人の仲間が命を捧げた。ずっと帰りたがっていたのに関わらず、友が進んでそうした理由を、彼はまだ正確に理解することは出来ていない。
次にナギ平原で最後の一人の仲間が死んだ。彼の敬愛する召喚師は友の魂の宿った召喚獣を降し、力尽きた。残された幼い少女は、父の帰りをきっと心のどこかで望んでいたはずだ。帰らぬとしりながらも、諦められるはずがない。
そして誰よりも諦められなかった彼は、再び聖地へと赴き、古の召喚師にとどめを刺されたのだ。
雪はずっと止むことがない。吹雪ではないが、山頂から吹き下りる冷たい風に舞う雪で視界は悪い。
男の身体から流れ落ちる血潮が、まるでその足跡を彩るように断続的に穢れなき積雪を汚していく。その色を目にする度に、男は自分がまだ生きて、歩いていることを確める。
片腕は根元から切り裂かれ、骨がはみ出していた。利き腕でなかったのがせめてもの救いだった。
右胸から腹に掛けて、袈裟懸けにある傷は浅いが出血が酷い。動くたびに開く傷口が容赦なく落とす血にモンスターたちも誘われてくる。
平時であればものともしない獣達相手に、彼は苦戦していた。左目を潰され、視界がまともにないことがそれを増長していた。
だがここで潰える訳にはいかないのだ。
顎を流れ落ちる血を拭う間もなく、ただ下へ下へと向かって足を進める。意識があるのかないのかも判断がつかない。
脛まで雪に埋まった足を引き抜く。まだ血の跡がない雪へそれを再び埋める。その作業を機械的に繰り返す。立ちはだかるものがあれば斬り捨てる。剣を振る腕も、ただ上下の動きを繰り返すしかない。
彼を駆り立てるのは、友との約束を守ろうという信念。
自分は、彼らの子供達へ思いを託すための使者なのだという責任。
そしてまだ生きたいという、生物としての本能。
何一つ捨てられなかった彼が、今、己の生命を犠牲にしても果たすには、まずこの山を下り、都市部に向かう必要があるからだ。
都市部に置き去りにされた、あの幼い少女を南の島へ。
そしてもう一人の幼子を求め、幻の地ザナルカンドへ。
そこに辿りつく為の方法すら分かっていないというのに、男はかつて自分が口にした『無限の可能性』というものをこの時こそ自ら信じて動いていた。
彼の友人達はあそこで果たせなかったものを彼へ託した。皆、必死だった。自分だけのためでなく、この世界に生きる人間の希望を、彼らは捨てなかった。
そんな彼らの死が、無駄なわけはない。
そんなことを神は許さない。
この世界の神は、この世界に生きる人間を食い物にするかのような傲慢さだったが、人知の及ばぬ神がいるのであれば、こんな不条理を許すはずはないではないか。
だから男は自分が未知の世界へ辿り着くことを、何ひとつ疑っていなかった。
だが無情に雪は降り続ける。
段々と遅くなる足取りにまで降り積もるそれは、彼の運びを一層遅らせる。
漸く麓に辿り付けば、助力を請うことができるだろうと思われたロンゾの民は一人もいなかった。ナギ節の喜びを御山に伝えにでも行ったのか、とにかく彼はついていないと山門の元に腰を下ろした。
手持ちの布やポーションで傷を塞ごうと試みたが、深手を負った腕とわき腹は塞がる気配がない。止血に使った布はたちまち赤く色を変える。
彼は首を振って遠のく意識を戻し、雪の降り積もる山門を見上げた。
視界を放射状に雪が落ちてくる。
彼に向かってくるように見えるそれを、口を開けて受け止める。
咽喉が渇いていることに気付いて、道端の雪を掴んで口に入れた。腕から流れる血液を吸って、その雪は鉄の味がした。
冷たいと感じることができる。まだ自分は歩けると己に言い聞かせた。
長い長い街道を行く。
大きなベベルの町が遠くに見えて来た。
そこに辿り付けば友人の娘に会える。そして陰謀渦巻く都市から連れ去り、静かな暮らしをさせてやれる。
痛みや苦しさは不思議と感じなかった。視界が時折目隠しをされたように暗くなることだけが邪魔だった。
知らぬ内に意識が途切れたのか、気付いて目を開けた間近に土の地面がある。わずかに顔を動かせば、まだ先は長そうな無人の街道が続いている。
突然、その視界に大きな獣の足が現れた。
「大丈夫か」
獣が口をきいた。
倒れた男を見下ろすのはロンゾの青年だった。
獅子のような顔立ちの額、彼らが誇りとする角が半ばで折れている。
「頼みを……聞いてくれ。オレは、もう進めない」
視線を巡らせると草原の草が揺れていた。
美しい緑だった。
「大召喚師の娘を……ビサイド島へ。大召喚師の遺言だ」
「戦士よ、お前はなんだのだ。名は」
ロンゾは男を仰向けにし、手持ちの布でわき腹の出血を押さえてくれたが、恐らくもう身体中の血は流れきっているように彼自身が思う。
「オレはアーロン。召喚師、ブラスカの、ガードだった……」
「私はロンゾ族のキマリ」
「キマリ……ユウナを、守ってやってくれ」
屈み込んだロンゾの青年の顔が視界に映った。
瞼を開けていることも辛く、もう余りよく見えなかった。
「死に行く者の願い、このキマリが必ず果たす」
「ありがたい」
酷く眠い。
安らかな眠りより、彼が欲しいのはもっと違うものだというのに。
ザナルカンドへ。
次に目覚める時は、友の故郷である幻の町であれ。
彼の自慢だった泣き虫の少年の元であれ。
瞼を下ろし、肩を揺さぶるロンゾの声には答えず、満身創痍の男は意識を途切らせた。
暫くして脈も止まった。
ロンゾの青年は肩を落し、溜息を吐いた。
男がどんな状況からここまで来たのかは知らない。
はっきりしているのは、彼が大召喚師のガードであり、その娘を預かるためにその身体をここまで引きずってきたのだろうことだけだ。
男の傷口には誰が施したのか、彼以外の手による治療の跡が見られた。だがこれほどの深手で出歩けば、命を落したとしても不思議ではない。
最後に託された言葉は、故郷を後にし、己の道を見出そうとしていた青年にとって神が与えた試練のように思えた。
ロンゾの青年は瞠目して、男の骸を弔ってやろうと手を掛けた。
その時、光の粒が男の身体を包み込む。
「幻光……」
粒が束となり、つむじ風のように舞い、天空へ立ち昇る。
死に際の言葉の通り、大召喚師の遺言を死しても果たそうとするかのように、男の身体から立ち昇った幻光虫は一所に向かって飛び立ち、消えた。
青年が中空に消えた光から視線を戻した時、地面に横たわっていたはずの男の骸は消えていた。
ただそれが夢でなかったというように、赤い血溜まりが土の上に残っていた。
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御山下る(了)
03.04.20(改稿)
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