青島 |
あれに出会ったのはまだ寒い冬の日のことだった。
特捜本部設置の連絡を受け、庁舎から車に乗って出掛けるころ…既に夕刻近くになっていたと思う。厚地のコートを羽織ったまま本庁の捜査員に挟まれて後部座席に座ったもので、エアコンの効いた車内は酷く暑かった事を覚えている。額に浮いた汗を拭う側から、気を使いすぎの同乗者たちに『暑いですか』と何度も訊かれた。
「大丈夫だ」
意味のない相づちを打っている内に車は「空き地署」のなわばりに入っていた。
熱気で半ば朦朧とした頭のまま車外に出ると、びゅうと吹き抜けた海風らしき冷たい突風で瞬時に目が覚める。寝不足が続いていたせいもあってか、ふわふわと落ち着きのない足取りだったと今になって思う。
湾岸署は比較的新しい建物で、どこも清掃が行き届いていた。殺伐とした空気しかない都心の警察署や本庁とは違う、のんびりとした雰囲気が建物のみならず、立ち働く制服や訪れる一般人からも感じられた。
一方、私は嘗められまいと意気込んでいたのだ。
精一杯胸を張って、背筋を伸ばし、常より無表情で先頭を切って署内を横切っていく。署内の刑事たちは自分らに気付くと一様に敵意と好奇の入り交じった視線を向けた。
叩き上げの年輩の刑事が、きょろきょろ辺りを見回す新人だろう若者に耳打ちしている。
どうせ聞こえたところで好意を含んだ言葉など見いだせる訳がない。
本庁の捜査員の間では生まれることはないだろう仲間意識に妬ましさを感じ、同時に群れる彼らを蔑んでもいた。
当時のその浅はかな感情は己の若さの象徴であり、そして未熟さであるとも云える。
国家公務員上級試験を受けた時、自分自身も、周囲の者たちも、虚飾を忌み嫌い、合理的で人の為になる仕事をと希望を持っていたはずだった。だが一年も経てば、自分を含む全員がまさにその色に染まっていた。
そしてそれにもすっかり慣れたあの頃の私は、まるで子供のように、学歴だの権威だのたった二文字の上に、プライドという虚構の城を築いて籠城していたのだ。
通路に立つ、年輩と新人の二人組と視線が合う。すぐに反らせたが、彼ら二人は私の目に妙に印象的に映っていた。
多くの希望を警察官という仕事に抱き、刑事部屋に上がった新人、そして数十年後の姿がそれだ。
キャリアと呼ばれる、ただひたすら昇進に命を懸ける本庁の人間、その一員である私には縁のない姿であり、一生相容れない本当の人間らしい姿であるとも思った。
本庁に人間らしい者など一人としていない。
飢えて、目先の獲物しか目に入らない肉食獣のようなものだ。
互いに互いの肉を喰らい合い、勝ち残ったものは充足して目は虚ろ、肥満した身体を引きずって、最期には巨体を持て余して死んで行くだけだ。
──せめて野生であれば。たとい途中で飢えてのたれ死のうとも、野生であれば。
そう思うのに、何故自分が上を目指そうとするのか、そんな疑いすら己に見い出せなかった、ほんの少し以前の話である。
あれから数年の年月を経て、私の自ら選び取って進んだ道は険しく、最終目標にはあまり近づいていない。だがその経過で手にした答えは、失ったものや勝ち取れなかったものの数倍の意味を持っていたと自負している。
飢えて乾き、たった一粒の水を求めるように、汗水を流してあがいて手に入れたもの。それが独りの力で手にしたものでないことが、こんなにも愛おしく捨てがたい。
他人との関わり合いの中で生きていく、人としては極自然で、私にとっては未経験の興奮と憤りと喜びが、この先どんな道を築いていくのか。
私は再び己自身に対しても希望を抱いているのだ。
この歳になるまで、そんなことも気づけなかったと自嘲気味に云うと、彼は目を細め、作らない満面の笑みを私に向けた。
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室井 |
あの人に初めて会ったのは、まだ寒い冬の日のことだ。
現場に立ち入る事さえ出来なかった事実に怒って、署に戻ってからも和久さんにぐちぐちとこぼしていた、ちょうどその時のことだ。
がやがやと何だか騒がしいと通路を覗き込むと、スーツの集団がぞろぞろとやってきたのだ。
背の高い、年齢層もバラバラの連中に傅かれるようにして、その人はやってきた。
撫でつけた髪、細い品のいい(実はあの時は軟弱君だと思った)顔、しかめた眉間だけが年相応で、不安になるくらい小さい。
「本店のお出ましだ」
和久さんの皮肉気なあの言葉を理解しようとしつつ、目はその人に釘付けになっていたと思う。
小柄の体が、一身に何かを背負っていると感じた。必死に重さに耐え、だからあんなに眉間に皺が寄っている。食いしばるように結んだへの字の口元、威嚇するような視線。一瞬目が合って、それはすぐに向こうから反れた。
本当はあの時馬鹿なことに、手に持ったアタッシュケースが重いのか?と本気で思ったのだ。
『持ってやれよ。誰か』
馬鹿だったが、その勘は当たっていなくもなかった。
あの人は、確かにその身に余る大きなものを背負っていた。
あれから数年が経って、なんだか自分はあの人を安心させようと、そればかり考えていたように思うのだ。
虚勢を張っている訳じゃない。
そもそも自分とあの人は辿る道筋が余りに違う。ただ目指す先が近いのだろうと、それは最近になって全面的に信じられるようになった。
あの人が、あの人の道を安心して進めるように、不安げに後ろを振り返る事が無いように、自分は頑張っている。
ただ手を差し伸べても同情でしかない。それはきっとあの人の東亰タワーより高いプライドを傷つけるだけだ。だから自分は勝手に頑張っている。(それでも時々はあの人の方が気になる)
「俺がいなくちゃ駄目なんだよ」
あの人がいなくちゃ駄目なのは自分の方だと、最近気付いた。
目標そのものでもなく、同じ場所で戦う同僚でもなく、それでも必要だと感じるのは何故だろうか。
そのまま、その疑問をあの人に振ると、彼は複雑な表情で自分を見た。
また眉間が寄っている。以前よりは少し柔らかくなった視線が合った。そして無言で自分の肩を叩いた。
子供扱いされた気がして、慌てて追いすがってあの人の顔を覗き込む。肩を掴んだ手を慌てて押しのけるようにして、彼は視線を反らして、顔を俯けた。
まだ眉間は寄っている。目元と口元は苦笑という感じに笑っていた。
「そんなに眉間に皺ばっかりつくってると、今にそのまま固まっちゃいますよ」
指を差して忠告すると、咄嗟に手で眉間を隠し、今度は顔全体に笑みを浮かべた。
その表情が、無性に嬉しかった。
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1999.1.15(了)
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