欲望の行方 |
もう母は帰って来ない。
遠い場所、ティーダの小さな手が届きようもない場所に行ってしまった。
最期まで父の名を呼び続け、ひたすら帰りを待った願いは叶えられず、失望の中で正気を失い、父が失踪してから丁度一年ほど後の昨日、母は死んだ。
寝たきりになってしまった最後の半年、近隣の老婆や母の友人たちは、幼いティーダにこう告げて励まそうとしていた。『あなただけがお母さんの支えなのだ』と。
だが、母が埋葬された墓石を眺めながら、ティーダは自分が母の為に一体何をできたのか、彼らに問い質したかった。
母は自分を必要とはしていなかった。
生気を日に日に失くしていく母の目には、父の姿があるだけだった。
そこまで一人の人間に執着できるという事実を目の当たりにして、ティーダは恐怖に似た感情を覚えた。
そうやって、愛しい者の姿だけを追い続けて死ぬことは、幸せなのだろうか。
だがティーダは唯一の身内で支えだった愛する母に倣って、死にたいとは思わない。死ぬほど寂しくても、死ぬことはやはり怖い。
母の膝の温かさと、墓標の立ち並ぶ墓場の寒々しさは対照的だった。
ここは死の匂いが満ちている。目の前には広大な海が広がる丘の上だというのに、漂うのは潮の香りではなく、死臭だった。
恐らく母の遺体の匂いを覚えているからだと、ティーダは冷静に思った。
母の遺体は怖くなかったけれど、他人のそれは怖い。
僅かに小さな身を震わせ、己を肩を抱いたが寒さは去らなかった。
母の手が恋しい。そしてこの寂しさに、これからもずっと耐えていかなければならないのだろう。
「ティーダ」
男の声が呼び、ティーダは丘の上へ顔を向けた。ティーダが母の墓石の前に来たときから、彼はそこにずっと立っていた。
そうやって少し離れて距離を置いた場所で、ティーダの反応を待つ様子は見慣れたものだったが、彼の顔は恐ろしくて、いつも直視することが出来なかった。
「風邪をひく。コートを着ろ」
父の友人だと名乗った彼は父と最後に会った人間だという。父が海で失踪した半年ほど後に、そう言ってティーダと母の元に現れた。
父の友人を騙る者は多く、年中見知らぬ人間が自宅に押しかけて来た。それが殆ど治まった今でも、彼はティーダの元にやってくる。
離れた場所で動かずにいた彼が、小道を下ってティーダの傍に近寄った。
彼が手にした上着はティーダの愛用する青いダッフルコートである。竦めた肩に乗せられたコートの重みと、それに移った男の体温に、ティーダの胸は苦しくなった。
「泣きたければ、泣いてしまえ」
低く、逞しい大人の男の、父を思わせる声に反感が湧くのもいつものことである。
「泣きたくなんてないよ」
「我慢をすると苦しいだろう」
「我慢なんてしてないって!」
強固に反論するティーダの肩を、大きな手が抱き寄せた。
「お前はまだ7歳だ。我慢しなくても誰も怒ったりしない」
「……もう八歳になったんだけど」
「そうか」
冷たく切り捨てるようなティーダの返事にも、彼は父のように怒ったそぶりも、からかう笑いも浮かべずに、ただ静かに応対する。
暖かい腕や手の温度と、大きな胸を震わせて響く音声が、今は限りない安堵を孤独なティーダに与えた。
「我慢してないし」
「そうか」
言いながらその胸に抱き寄せられ、両腕で抱き上げられた。あやすように軽く背中を叩かれて、ティーダは目を閉じた。
彼は宣言したとおり、ティーダが堪えきれずに漏らした嗚咽を聞いても、何も言わなかった。聴かないふりをして、冷たい風の吹く小道を、黙々と家に向かって進んでいる。
父と同じ大人の男ではあるけれど、多分頼れる大人はもう彼しかいないのだと、幼いティーダは悟りながら、彼の腕の中で涙を流し続けた。
それが失ったものへの未練だったのか、それともまだ自分を抱く腕があることが嬉しかったのか、今となってはもう分からない。
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プライマリスクール(小学)を卒業間近に、ティーダはブリッツボールに力を入れている私立のジュニアハイスクールに推薦された。
中高一貫のその学校の高等部は、在学中もプロ入りを許可している数少ない学校だった。いずれはプロ入りしたい人間にとって、例え二軍三軍でもプロの仲間入りを早いうちに果たせば、それだけ一軍に籍を置くチャンスに恵まれる。
早速飛びついたものの、学業の傍らプロ入りするには保護者の同意と協力が必要であるとされ、親との同居が義務付けられていた。
ティーダに両親はいない。父は幼い時分に海で行方不明になり、母もその後を追うように死んだ。
ティーダにとって唯一保護者と言えるのは、父の友人であり、父の頼みを受けたアーロンという男だけだった。
この男、素性が知れないと最初は警戒していたのだが、どうやら下心もないようだと判断してからは、ティーダの親代わりか、兄のような存在になった。
彼の浅く焼けた顔には、当時25歳だと言った年齢以上に深い皺が刻まれていた。黒い、悲しみを携えた瞳は一つ、もう片方は額から頬にかけて走る傷に塞がれている。白いものが混じった黒髪は長く、後ろに一つで束ねてあり、機敏な立ち振る舞いと強靭な肉体は、ティーダの父親と同等かそれ以上だった。
これまでは時折ティーダを訪ねてくるだけで、普段何をして暮らしているのか、ティーダからはろくに知らせもしなかった男は、ティーダが同居してほしい旨を伝えるとあっさり了解した。
引越しとは言えないような、僅かな手荷物で現れた男を自宅に迎え入れてから、ティーダは彼にどう接すればいいのか悩み始めた。
余りに男のことを知らない自分に気付いたからだ。
たった一人の保護者と思っていながら、己の都合のいい時だけ相談する大人としてしか、彼を扱っていなかった。
深入りしすぎれば、母のように失った時の反動が怖くもあった。両親二人共と間を置かずに失うには、当時ティーダは余りに幼く、臆病であったのだ。
知ろうとしない人間が理解出来ることなど多くはない。
一方、男の方はそれほど戸惑う様子も見せず、ティーダの保護者としての責務を果たすつもりらしい。
そして奇妙な同居が始まって一週間ほどが過ぎた。
入学の手続きを済ませたものの、始業はまだ先で、ティーダは彼が同居人となった日とと同様に在宅していた。
学年の上がる9月まで、どこの学校でも長いバカンスがあり、他の長期休暇と違って課題もない。勿論ブリッツの少年チームが行う合宿などには、毎年参加している。だがそれも最初の二週間ほどの話だ。友人たちは皆家族と旅行に出かけたり、不在のものが多かった。
だから、ティーダはバカンスが嫌いだった。
今年はそれでもイベントが多い方だ。同居の話し合いでアーロンに会うことも多く、その彼も今はこの家にいる。
そして一緒に暮らし始めて、その風貌からは想像できないくらい、アーロンは細やかにティーダに世話を焼いた。
元々ティーダの母は、母親としては余り出来が良かったとは云えない。彼女は父の妻ではあったが、ティーダの親としての責任は半ば放棄していたのだ。
その母が死んでからは、たった一人でこの家に住み、食事などは隣家の老女や福祉施設の人間が通いで面倒を見てくれたが、十歳も過ぎれば殆ど自分ひとりで己のことは出来るようになっていた。
アーロンはそのティーダが手を出す暇もないほど手際よく、家事雑事のあらゆることをこなしている。
「アーロンはさ、なんでそんなにいろんなことできるんだ?」
いつも言葉少なな男は、隻眼を細めてティーダを見下ろした。
この一週間で、その気迫のある雰囲気にも大分慣れた。
「ジェクトはやらなかったのか」
「あいつ、家になんか殆ど居なかったもん」
「そうか。オレが色々手を出しては迷惑か」
「え、そ、そんな訳ない。アーロンのご飯はおいしいし」
ティーダは目の前で両手を振りながら、慌てて答えた。
「お前の好きなものがあれば教えてくれ。余り種類が作れないからな。これから増やそう」
「うん」
母にも言われたことがないような言葉に頷き、彼はそれを見て笑った。
多分、彼が笑った顔を見たのは、それが初めてだった。
恐ろしい傷跡がまったく気にならずにその顔を見つめたのも、ティーダは初めてだったかもしれない。
彼の傷跡は、その片頬に残るものだけではない。額や反対側の頬、それに肩やシャツの隙間から覗く胸元にも。
ブリッツボールの選手だったティーダの父も、あちこち傷だらけで、年中入院するような怪我もしていた。ブリッツは端から見た優雅さとは裏腹に、年中負傷者が出るような危険なスポーツなのだ。
だが、この男の傷はそれとは種類が違う。
深さも形も、刃物で斬られたような、獣の牙や爪で抉ったような、命に関わる傷跡だった。
「アーロンってさ、何してる人?」
「何、とは」
「そんなに一杯傷跡あってさ、どんな仕事してるのかってこと」
いつも真っ直ぐにティーダを見つめる視線が、ふっと反れたような気がした。
「ろくでもない、用心棒みたいなことをしている」
「……もしかして、訊いちゃいけないことだった?」
「いや。この傷が恐ろしいか」
彼は己の掌で左頬の傷を覆うように隠し、残った目でティーダを静かに見下ろす。
「ううん。前は怖かったけど、今は、どっちかっていると痛そうに見えるんだ」
「もうずっと以前の傷だから、痛みはないぞ」
「いや、そういうことじゃなくってさ」
傷を覆ったままの手の甲にそっと指を触れる。
びっくりしたように彼は小さく身体を震わせた。
「なんかさ、辛いこと一杯乗り越えてきたって感じだ」
彼は驚いた表情のまま、ティーダをじっと見つめてくる。
夕闇の色の瞳は、吸い込まれそうな深さと引力があった。
「お前は、幼いのに随分と大人びたことを言うな」
そういって、また薄く微笑んだ。
「オレ、もうすぐ13歳だよ。子供じゃないって」
「そうか。そうだな。人の痛みを理解できるのは、大人の証拠だな」
他人から見れば間違いなく子供だろうが、彼が時々寂しげな顔をする気持ちは、なんとなく理解できる。
アーロンという男が、自分の持っているような疵を持ち、それを共有できるのならば、ティーダがこれまで歩んできた平坦でない道も無駄ではない。むしろ喜ぶべきなのかもしれないとティーダは思った。
「なあ、せっかく休みなんだし、どっか行こうよ。まだアーロンとはどこにも出かけてないだろ? もう暇で暇でしょうがないんだ」
アーロンは少々遠い目になってからティーダへ問い返して来た。
「どこへ? オレはこの辺を余りよく知らないんだが」
「ルナパークとか」
ルナパークは先月オープンしたばかりの夜間営業の遊園地だ。大人が同伴でないと出入りできないため、ティーダはまだ行ったことがない。
控えめな声に反して、逆さに座った椅子から身を乗り出していたティーダを見て、アーロンは今度は声を立てて笑った。
「撤回する。お前はまだ子供だ」
笑う声も初めて聞いた。
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* * *
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学校が始まって、ティーダは日中自宅にはいない。
その間、アーロンが何をしているのかは知らないが、どうやら最初の頃に彼自身が言ったように、警備の仕事か何かをしているらしく、何日か帰ってこない夜があった。
ティーダもまた、夜までブリッツの練習があり、帰宅は九時ごろになる。
彼と同居する以前は、ティーダは家があっても待つ人間のいない毎日を送っていた。
福祉施設の役人は夕食の支度や生活の世話はしてくれたが、夜には帰ってしまい、顔をあわせるのは面談日に指定された休日の昼のみ。近所の老婆は夜が早く、必然的にティーダは学校から帰れば独りで過ごさねばならない。
だから、独りには慣れていたはずだった。
しかし彼が住むようになってから、今日はいるかもしれないと期待をするからこそ、寂しさは余計に募った。
それでもアーロンが用意しておいた食事を摂って、いつも見るスフィアテレビ番組を眺めていれば時間は経つ。
その日、そろそろ眠ろうかと時計を見上げた頃のことだった。
突然玄関のベルが鳴り、ティーダはインターフォンを見やった。防犯カメラの映像は夜は不鮮明で顔立ちまでは分からないが、少なくともアーロンやよく来る人間でないことは分かる。
玄関前でインターフォンに向かって腕組している人間は、ドレススーツの若い女性に見えた。不審に思いながらもティーダはインターフォンに応答した。
「どちらさまですか」
先程見上げた時計はもう十一時を回っており、セールスが来る時間帯ではない。強盗にしては華美だし、仲間のいる様子もない。
『アーロン?』
予想出来る事でありながら、ティーダは驚いた。
どうやらアーロンを訪ねて来た客らしい。
「違います。今、いませんけど」
『多分もう直ぐ帰ってくるから、待たせて貰えないかしら』
アーロンの名前が出たとはいえ、見知らぬ人間が来ても家に入れないというのは、幼稚園児でも知っていることだ。
『もう外かなり冷えるのよね。凍えちゃうわ』
限りなく胡散臭いと思うのに、玄関ドアの鍵を解除したのは好奇心からだ。ひと月たってもろくに知らない男の一面を、きっとその女性が知っているに違いないとティーダは思った。
開けたドアから顔を覗かせた女性は亡き母より少し若いくらい。ブリッツのスーパースターの妻にしては地味だった母より、ずっと派手な化粧と、ぴったりとしたスーツが身体のラインを際立たせて艶めかしい。
彼女がホールに足を踏み入れた途端に、香水の甘い香りが漂って来た。
ティーダはその匂いを知っていた。アーロンが遅くに帰宅した時、一度感じた移り香と同じ匂いだ。
「ジョアンよ。あなたは?」
彼女は爪を鮮やかなベージュに塗った、白く美しい手を差し出して言った。
「ティーダ」
「よろしく、ティーダ」
冷たい掌を握り返しながら、本当に外がかなり寒かったことを知る。ザナルカンドはかなり寒いがまだ十月だというのに。
「何か、飲む?」
お茶を出す必要のある相手かどうか図りかねる。
だがもし大事な客だったら、迷惑するのはアーロンである。
―――もし、彼の恋人だったら。
「ありがとう。でもいいわ。座ってもいいかしら?」
ティーダが頷くと、ジョアンは小さな尻をリビングの真中に据えられたソファに下ろした。そこは何となくアーロンの指定位置になっていた場所だった。
「あのさ、いいんだけど、座るならこっちにしてくれる?」
「あら、あなたの席だった?」
「うん」
ティーダの本当の指定位置は、アーロンが座る場所の目の前の、ラグマットの床に置いたクッションの上である。
なぜそう答えたのか、ティーダは自身を不審に思いながら、ジョアンが立った席に座る。
「遅いわね。いつもなら帰っているころじゃないの?」
ジョアンが腕に填めた金のブレスウォッチを眺めながら言った。
何故この女性がそんなことを知っているかという以前に、一体アーロンとどんな関係にあるのかがわかっていない。
「アーロンと、どういう関係? 恋人?」
「アーロンからは何も訊いていないの?」
問い返されてティーダは首を傾げた。
恋人どころか友人がいるのかどうかも知らない。どんな場所で仕事をして、どんな人間と関わっているのかも。
そもそも彼はどこから来たのか、ここに現れた五年前に、彼は自分が父ジェクトの友人であるということしか話さなかった。父から自分を頼むと言付かったといい、時折様子を見に来ていただけの関係だ。
この女性がアーロンの恋人ならば、ティーダよりもずっと彼の素性や生活に詳しいだろうと思ったのだ。
「仕事で知り合ったの。つきあいはもう半年になるかしら」
「ボディガードかなんか?」
「まあ、そんなとこね」
子供相手と思っているからなのか、彼女もまた知っている事実を濁す答えだった。
ティーダは膨れ上がってきた怒りを露に、ソファを立ってキッチンへ向かった。既に彼女の会話に付き合うことは酷く苦痛だ。
冷蔵庫から出したジュースを、グラスに注いで一気に飲み干す。そしてもう一度満たしたグラスを見た。
今やこのジュースですら、ティーダの好みに合わせて彼が買って来た物だというのに、ティーダの方は、彼を本当に何も知らない。
「あら、あなた、もしかして、ジェクト選手の息子さん?」
暫く黙って部屋を見回していたジョアンは、壁際に並べられたトロフィを眺めながら言った。
「……そうだよ」
「私ね、昔彼のファンだったのよ。よくスタジアムに通ったわ」
「そう」
「いいわね、自慢のお父さんで」
ティーダは懐かしげにトロフィを眺める彼女から目を反らし、床を見つめた。
誰にでもよく言われる言葉のはずなのに、今は唇を噛み締めなければ喚いてしまいそうな気分だった。
「ジェクトがお父さんで、アーロンが育ての親? いい男に囲まれて凄いわね、あなた」
「自慢なんかじゃない」
ティーダは耐え切れなくなって、乱暴にグラスをカウンターに置いた。
静かなリビングにその音は大きく響き、彼女は小さく身を竦ませる。
「あんな親父と、アーロンを並べるなよ。迷惑だ」
「あんな親父って……ザナルカンドのスターじゃないの」
「あんたに何がわかるって? アーロンを待つっていうなら、静かに待ってろよ」
口調はすっかり喧嘩の態勢だった。
殴りかかったりしないのは、彼女がアーロンの知人だからだ。恋人ならば余計だが、彼女がアーロンの特別な存在であるということは、本能が否定し始めていた。
彼女は、アーロンには相応しくない。
「嫌な子。アーロンもよくあんたみたいなガキに付き合ってるわね」
せせら笑う、余裕の表情だった。
彼女は女であることの強みを知っている。その身体と笑みで、多くの権力が手に入ることを知っている。
父と同列の人間だと、ティーダは思った。
グラスを持って彼女へ歩み寄り、ティーダはその中身を彼女に向かってぶちまけた。
小さく悲鳴を上げて飛び退いた彼女の肩から膝にかけて、オレンジ色の液体が染みを作った。
「何するのよ!」
「あんたこそ、他人のうちに来てるなら礼儀をわきまえろってんだ! ここはオレの家だ!」
空になったグラスも投げつけそうになり、それを思いとどまったティーダがそれを床に叩き付けた時だった。
「何をしている」
リビングに繋がるホールに、アーロンが立っていた。
出掛ける時に着けている、傷を隠すためのサングラスのせいで、表情は全く分からない。
「アーロン!」
ジョアンはびしょぬれになった姿のまま、玄関ホールへの低い階段を上り、彼に駆け寄った。
「酷いのよ! 彼、私に飲み物掛けたのよ!」
「殴られなかっただけ良かったと思えよ!」
「殴られるようなことは言ってないじゃない! 勝手に怒って、客になんてことするのよ!」
「客がオレをガキっていうのか! 勝手に他人の生活に踏み込んで来て、ぶつくさ言うあんたが悪いんだろ!」
ティーダは言い放って、手を握り締めて二人を睨み付けた。
空のグラスがごろごろと音を立てて床を転がり、ティーダの足に当たって止まった。
アーロンは言い合う二人を交互に眺めていたが、静かになったその一瞬に、口を開いた。
「君は、なぜここに居る。ジョアン」
「……あなたを訪ねて来たのよ。もう帰っていると思ったから」
「ここには来るなと言ったはずだ」
ティーダを置いて会話を続ける二人を見やって、ティーダはより一層湧き上がってくる怒りに奥歯に力を入れる。
大人だからか。
自分が子供で、対等に扱われるべき対象ではないからか。
彼は、父とティーダを守ると約束をし、それを実行すべくここに居るといったのに、所詮は自分の欲望を晴らす方が大事なのだ。
「帰れ。迷惑だ」
だがアーロンは、ティーダが訊いたことのないような冷たい口調で彼女に言った。
彼女はやはり彼の恋人ではないのだろうか。
「じゃあ、何故電話しても無視するのよ! だからここに来たんじゃない!」
「この家の家主はティーダで、オレはここに間借りしている身だ。招かれざる客が横暴な態度を取って、水掛けられたくらいで泣きつくな」
「私の言葉より、あの子の言葉を信じるっていうの」
縋りつき、背の高いアーロンを見上げる顔を、彼はごく冷静に見つめ返した。
「ティーダは嘘は言わない。君は嘘ばかり言う」
アーロンの腕に掴まっていた手を押し退けられ、ジョアンは握ったその手をわなわなと震わせた。丁寧に化粧された美しい顔も強張り、まるで仮面のようだった。
平手打ちをしようと振り上げた手はアーロンに容易く止められた。
「最低ねっ」
腕を取り返し、ハイヒールを鳴らしてソファに置いたバッグを取り上げ、必死で叫んだ捨て台詞を残して玄関ドアに向かう。
彼女の後姿を見て、ティーダは今更身体が震えた。
アーロンがティーダの言葉を訊かず、信じても貰えなかったら、そうやって彼に背を向けていたのはティーダの方だったかもしれない。その想像が恐ろしかったのだ。
乱暴にドアが閉められ、荒々しいヒールの音が遠ざかった。
「ティーダ」
アーロンは上着を脱ぎながら、立ち尽くすティーダに歩み寄る。
床に転がるグラスを広い上げてテーブルに置き、上着をソファに放った。
間近に来ると仰向くほど長身の彼は、ただそうしているだけで威圧感があった。
怒られるかもしれないと、首をすくめたティーダの肩を、彼は思いも寄らない優しさで抱き締めた。
「何を言われたか知らないが、そんな顔で、泣くな」
知らずに湧き上がっていた涙がぼろりと頬に落ちた。
暖かい肩口に鼻を押し当て、ティーダは立ち尽くした姿勢のまま、息を殺して泣いた。
シャツが涙で濡れるのに頓着もせず、アーロンはいつまでもそうしていた。
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「あの人、あんたの何?」
床に零れたジュースを二人で屈みこんで掃除しながら、ティーダはずっとつぐんでいた口を開き、一番訊きたかった問いを彼に告げた。
「以前、彼女の父親の仕事を受けた」
「それだけ?」
「いや、何度か個人的に会ったことはあるが、深入りされそうだったから、ここに住み始めた頃に離れた」
「それってさ、フッたの? 彼女を?」
「……まあな」
ティーダは口元に意地の悪い笑みを浮かべた。
しかし、そのつきあいが現在進行形であったなら、きっと笑うことは出来なかったに違いない。
「あんたでも、そんなことあるんだ」
「オレも人間だからな。人恋しくなることもある」
床を拭いた雑巾をバケツに投げ入れながら、アーロンは表情も変えずにそう答えた。
彼の気持ちは、その顔からは非常に量りにくい。
それでも、普通の男となんら変わらないと彼が言うなら、ティーダもまた彼との付き合い方を見つけられるような気もした。
「オレ、あんたのこと何も知らないから、あの人から何か聞けるかな、って思った」
濡れた雑巾を、彼に真似てバケツに投げる。
「何にも訊き出せなかったけど」
「だからあれを家に上げたのか。訊きたいことがあるなら、オレに直接訊けばいい。答えられることは答える」
「ホント?」
「ああ」
「じゃあさ」
床に屈み込んだまま、ティーダは膝を抱えて上目遣いに彼を見やった。
「なんでさ、あんた、ここにいるの」
彼の答えを恐れていては、何も進まない。
何年も前に知り合っていながら、ひと月同じ屋根の下で暮らしていながら彼を知らないのは、ティーダ自身が彼の内面に踏み込むことを恐れていたからに他ならない。
ジョアンのような横暴さが多少なければ、他人を知ることなど出来ないのだ。その観点からすれば、多分彼女の方が勇気がある。
無表情だったアーロンはティーダと同じ姿勢のまま、微かに笑みを浮かべて見返して来た。
「お前の傍に居ることが、オレが生きている理由だからだ」
謎掛けのような言葉だった。
だが、それが彼の答えだというなら、ティーダは時間が掛かってもその意味を知りたいと思う。それを知る頃には、きっとティーダも彼へ恩も返せる歳になっているに違いない。
その夜、ティーダは初めてアーロンのベッドに潜り込んだ。
「十三にもなって。子供か、お前は」
「子供だよ」
ティーダは人の温もりのあるベッドの中で、これまでにないほど安らかな眠りを得た。
他人と眠ったのは、まだ健在の母親とが最後だったはずだ。母が懐かしくもあったが、寂しさはない。
そして明け方近く、久しぶりに父親の夢を見た。
恐らく父と同じアーロンの煙草の匂いが見せた、数少ない優しい父の記憶だった。
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* * *
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大人になるとはこういうことかと、バスルームの鏡に映る自分の姿を眺めながらティーダは思う。
背はさほど高くはないが、それでも最近はひと月の間にも身長が変わっているし、手足の節も太くなってきた。ただ縦にばかり伸びて、以前よりもひょろりとした印象になってしまったのが不本意ではある。
先日十五になったばかり。学年が上がって三年のブリッツチームのスタートメンバーにも無事選ばれた。
一緒に暮らすアーロンとも三年目に突入し、これ以上にないくらい上手くやっている。
順風満帆に思えるが、ただ一つ、このところティーダの心を塞ぐ事があった。
同じ学園の高等部に籍を置く、女子ブリッツチームの選手に誘われて、所謂初体験というものを迎えてしまったのだ。
それ自体はティーダにとっても喜ばしいことだった。このザナルカンドには性の知識を与えるものは溢れているが、無意識の内に肉体も異性を意識するようになって久しい。
興味もあり、実際に刺激を求める身体に引導を渡してくれたのは高等部の三つ年上の、少女というよりは既に女性だった。
それほど容姿端麗とはいえないものの、かなり苛酷なスポーツと言われるブリッツ選手の彼女は、鍛え上げられた美しいプロポーションで、浅く焼けた肌は滑らかだった。男勝りな表情がセクシーな女の顔になる瞬間も、子供のように沸き立つ気持ちで、動悸を高鳴らせながら目にした。何の不足もない。
だが行為に至って、ティーダは気付いた。
触れる他人の温もりに別のものを見出していたことを。それがティーダの保護者であり養父である男の腕や胸だったなどと、一体誰に相談すべきなのか検討がつかなかった。
これまでも、プライベートな悩みをティーダは彼――アーロンにだけは打ち明けて来た。学校での友人関係から、身体の悩みまで、隠すことなどなかった。だが悩みそのものに彼本人が関わっているとなれば、話は別だ。
ましてや初体験の最中に、相談すべき相手の腕の温かさや力強さを思い出したなどどうして言えようか。
ティーダ自身にも、自分の発想が普通と異なること位分かる。この妄想は、父親代わりや保護者への気持ちを超えている。何かが歪んでいる。
きっと自分のこんな気持ちを知ったとしたら、間違いなく彼はティーダを軽蔑するだろう。
時には喧嘩をすることもあるが、本心から彼に罵られることだけは嫌だった。彼に距離を置かれてしまうことだけは、どうしても我慢できなかった。
かと言って、ブリッツ仲間やクラスメイトに相談できる内容でもない。
それくらいに普通と違うことなのだと、理解できる頭はある。
それはティーダが大人になりつつある証拠であり、それを理解出来るようになったのはごく最近だが、その気持ち自体はきっと、彼に出会ったころから芽生え始めていたに違いなかった。
ずっと、彼に近寄りたいと、誰よりも彼の傍にいたいと、確かにティーダは思っていたのだから。
「オレ、アーロンのこと、なんだと思ってるんだろうな」
例え自分自身でも、鏡の中の虚像が答えるはずもない。
この時ティーダはまだ、誰かがその答えを出してくれるように思っていた。
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ジュニアハイスクールでブリッツ三昧の日々を過ごしてきたティーダは、珍しくここ数日独りで自宅にいた。
ハイスクールの受験を間近にして、三年生代表チームが休みに入ったからだ。そしてティーダもまた、他の三年生と同じように勉強に励んでいる。
試験日まで約ひと月。
机上の勉強など好きなはずもないが、そもそも学園の高等部に入ることこそが目的だったティーダには、それを嫌がる理由はなかった。他校から受験するよりも、ティーダのように中等部からの推薦を受けた方がずっと楽な道であるし、ブリッツをやるためならどんな労力も惜しまないのがティーダのポリシーだった。
試験休みが終わって、進学が決まれば夏の長期休暇に入る。そうすればまたブリッツ三昧の日々が送れる。楽しみが多ければやる気も出るだろうと、アーロンは一緒に暮らすようになって初めての旅行まで計画してくれているらしい。
勉強自体は苦痛ではなかったが、普段精根尽き果てるまでブリッツの練習に明け暮れていたティーダには、机に向かい続ける日々はかなりのストレスだった。朝夕のジョギングだけで若い体力と精力が発散できるはずもない。勉強の合間に、洗濯や掃除をして、食事も作った。
今日も自分で作った昼食を摂り、食器を洗っているところで、洗濯機が作業終了のブザーを鳴らす。洗濯機のドラムから乾いたシーツやタオルを引っ張り出しながら、ティーダは普段ならばそれらを全てこなしているアーロンを思った。
アーロンは毎日ではないものの、仕事に出掛けている。
詳細は話そうとしないけれど、警備会社に勤務して、ボディガードやガードマンとして派遣されるらしい。時々夜間勤務で帰って来ない日もある。
それでも彼は仕事の合間をぬって、必ずティーダの夕食を用意し、洗濯や掃除も怠ったことがない。遅くなる時は温めるだけでいいように作り置きすることもあったが、ティーダの生活に合わせて仕事を入れているようにも思えた。
よく出来た養父だと、学校の教師や近隣の住人までが彼を褒める。
だが、その度にティーダは彼らの評価に反感を覚えた。
どうしても『父』という存在にアーロンを当てはめることには抵抗があった。図らずも、ティーダが一番憎んでいる存在が『父』であり、アーロンをそれと同列に置くことが嫌だった。
そして何よりティーダが彼へ、親子とはかけ離れた感情を持ち、アーロンにもそれを求めているからであると今は思う。
ティーダは、以前彼が告げた言葉を必死で曲解しようとしている。
『お前の傍に居ることが、オレが生きている理由だからだ』
その言葉の通り、自分だけの為に彼が生きているのであればいいのに。
ティーダの望む通りに、彼が自分を想ってくれたらいいのに。
この気持ちを言葉にすることを、ティーダはずっと避けて来た。
名前を付けてしまった途端に、恐らくそれが思わぬ方向に動き出してしまうことを、本能が察知していたからだ。
どんなに望んでいても、誰よりも一番、アーロン本人に知られてはならない。 |
洗濯の終わった衣類をきちんと畳み、アーロンの分を彼の部屋へと運ぶ。乾いた洗剤の匂いがするその山を抱えて運び、アーロンのベッドの上に下ろす。
アーロンの部屋はこの家で一つしかないゲストルームだった。両親の部屋を片付けて使うことは、彼が拒否したからだ。部屋の中はアーロンの吸う煙草と、微かに彼の肌の匂いがした。
なんとはなしに目の前のベッドに座り、そのままぱたりと横になる。
きちんとベッドカバーのかかった寝台が、彼の性分を表しているようだ。そこに顔を押し当てれば、昨日替えたばかりのシーツやカバーからも、彼の匂いがする。
同時に胸の奥を、何かにぎゅっと掴まれた。
堪らず目を閉じて息を吸い込めば、生身の彼の体温までが思い出される。
「……アーロン」
独り言でも自ら禁じている言葉を飲み込む。
吐き出してしまいたい。
出来ることならそれを、彼の前で叫んでしまいたい。
ティーダは寝台の上を這いずって、彼の枕に片頬を埋めた。そのまま枕を抱き締め、もう片方の手でジーンズのファスナーを下ろし、下着の上から性器を握る。
熱い。
本当はそれよりもっと熱い手で、そうしてされたい。
最初はティーダの方が彼を抱きたいのかと思ったが、どうやらそうでもないらしいと気付く。多分、彼がこれまで愛した女のように、自分を見て欲しいのだ。
彼の方から、自分を求めて、全てのしがらみを忘れるほど夢中になって欲しかった。
彼はティーダを大事にしてくれているが、それでも足りない。もっと利己的に、欲望に忠実に求めて欲しい。
掴む手を邪魔するジーンズを下着ごと下ろし、ティーダはベッドカバーの上で下肢をさらけ出した。とても他人には見せられない姿が、クローゼットの扉についた鏡に映っている。
夢想するのに実像は邪魔だった。
きつく目を閉じて、視界から自分の姿を排除する。そして手の感触と脳裏にある彼の顔だけに集中する。
彼が幼いティーダの額に口付けた時の唇を、髪を撫でてくれた温かな掌を、そして隣で眠った時の彼の吐息を、愛情をこめてティーダを揶揄する声の記憶を順に掘り起こした。
そうする度に、例えようのない快感と一緒に、ティーダは優しく美しい記憶を、自らの足で踏みにじり、泥を掛けて汚しているような気分を味わった。
こんなことをしなければ、誰にでも誇れる素晴らしい記憶だったのに。
しかし、そうせずには居れない、そうしなければ胸が弾けて壊れてしまいそうだ。
脳裏に描いた顔の、持ち主の名の形に唇を震わせ、ティーダは短く息を吸う。
昨晩ここで眠っていた男の肌の匂いを探す。そして人に与えられる快楽を既に知った若い分身は、思ったよりもあっけなく欲望を吐き出した。
濡れた手の中の感触は、自覚した途端に酷い自己嫌悪をもたらす。
荒くなった吐息を静める努力をしながら、生理と後悔による涙が滲んだ目を開いた。二三度大きく溜息をついて、手を拭うものを探して視線を巡らせる。
その視界にあったものに気付いた時、ぞっと音を立てて血の気が引いた。
薄く開けたままの扉の隙間から、壁に背を預けて寄りかかった男の姿が見えた。こちらを向いては居ないが、部屋の中に気付いて、まるで事が終わるまで待っている、とでもいうような彼の姿が。
手が汚れていることも忘れて、ティーダはシーツを引き寄せて体を隠した。火照っていた顔からは既に血が引いて、言い訳しようにも強張った唇も、顔も、閉じてしまいたかった目すら動かすことは叶わなかった。
男はふっと顔を上げ、外出用のサングラスを着けたままの顔を、扉の隙間から覗かせた。
「別に怒りはしない。だが後始末はしていけよ」
「アーロン……で、出掛けたんじゃ、なかったのかよ」
見られてしまった。知られてしまった。
頭の中にそんな心の声をこだまさせながら、必死で彼の様子を探っている。
ティーダの胸の内を読めるわけではない。彼の名を呼んだことさえ気付かれていなければ、このまま誤魔化せるかもしれない。
それならばただ自慰を見られて恥ずかしいだけだ。
「いや、さっき帰ってきたら盛り上がっていたんでな。終わるまで待っていてやった」
からかう口調で、くすりと小さく笑い声まで漏らした彼の様子に、ティーダは脱力するほど安堵した。
そして次の一瞬で、頬がこれ以上ないほどに熱くなった。
「み、見てんじゃねえよっ」
恥ずかしさで顔を覆いたかったが、それよりも身体を隠すほうが先決だった。
寝台の足元に乗せた洗濯物が落ちるのも構わず、引き寄せたシーツで下半身を覆った。その下で慌ててパンツと下着を引き上げて、汚れた手で掴んでしまったシーツごとベッドから降りる。
よろよろと足取りもおぼつかないティーダを眺めながら、アーロンは戸口から一歩下がり、ティーダの退路を空けた。その隙間を、顔を合わせないように走ってすり抜ける。
「次は自分の部屋でやれよ」
「バッカヤロー!」
捨て台詞を小さな笑い声が追いかけて来たが、そのまま自分の部屋に逃げ込んで、扉を閉めてしまったティーダには、男がすぐに笑いを治めて、小さく溜息をついたことなど、知る由も無かった。
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恥ずかしさはいつまでも後を引いたが、胸に秘めた思いが露見しなかったことでティーダはそれなりに安心していた。
だが同時に、自覚が次第に明瞭になっていくこと、それに同じ失敗を二度繰り返して彼に知れてしまうことを恐れて、ティーダは自然と自慰そのものすらしなくなった。若い身体が排出を欲して、誘惑に負ければ、思い描くのは同居する保護者の顔ばかりである。
彼が、自分と同じ気持ちで、自分を求めてくれれば、と望みは膨らんでいく。
いつか膨張しきった風船が割れるように、限界がやってくるに違いないと、ティーダは日に日に思いつめていくことになった。
一緒に暮らしていれば、全く接触がないということはありえない。
キッチンで、食事の支度を手伝えば指先が触れる。バスルームで歯を磨いていれば、背後を通り過ぎる彼の肩が触れ、リビングで、ティーダの心も知らない彼は不用意に髪を撫でてくる。食料品の買出しなどに付き合えば、自家用車の前の座席に肩を並べて座っていなければならない。
その度に、心臓は胸を突き破るほどに高鳴る。それとも本当に心臓を飛び出させて見せたら、自分がどんなふうに彼を思っているのか、気付いてくれるだろうか。
きっとこのままでは、動悸が激しすぎて早死にしてしまうだろうとティーダは思った。
意識して彼を避けてみたり、逆になんとか彼に触れる口実がないかと悩んでみたり、兎に角ティーダは完全に情緒不安定だ。
そんな養い子の様子に、聡いアーロンが気付かない訳がない。
夕食を終えて、いつものようにリビングで寛いでいるとき、正面から向き合わされた。
険しい顔つきの彼に見つめられ、ティーダは完全に硬直する。眉間にわずかに皺を寄せ、残った右目も眇められ、ティーダを見る視線は厳しい。
怜悧な鼻筋、強固な意志を形にしたような唇、少し伸びた無精ひげ。
出会った頃には恐ろしいと感じていたその顔が、今は好きで好きでたまらない。
ティーダはこの時初めて、自分の彼への気持ちに名前を付けることを認めた。
もう自分を騙すことはできない。
こんなにも自分は彼に夢中で、他の何も目に入らない。年上の憧れの女性でさえ、ティーダをここまで無心にはさせられなかった。言い寄ってくる同級生や上級生は多いが、誰にも目を向けなかった。大好きなブリッツさえ忘れてしまうような、勉強はなぞるようにはやっているが、果たして頭に入っているのかどうかも分からない。
「どうしたんだ。きちんと勉強はしているようだから、何も言わなかったが、近頃のお前は少しおかしいぞ」
「おかしいって……?」
「オレの目を見ない。何か後ろめたいことでもあるのか。それとも何か、お前の気に障るようなことを、オレの方がしたか?」
気に障る、というのとは違う。
だが彼自身がまったく無自覚である以上、例え正直に言えたとしても、何も変わりはしない。彼が普通に生活する一挙一動全てが、ティーダにとって心を乱す要素なのだ。
「とにかく、言ってくれねば分からない。何があったんだ」
「なにもないよ」
「何もないなら、どうして今もオレの顔を見ない」
アーロンは何の疑いもなくティーダを真っ直ぐに見つめる。真剣な眼差しはあまり目にする機会が少ないだけに、いつも以上に動揺を促した。
彼のその黒い瞳に、映る自分の姿は一体どんななのだろうか。ティーダが感じる十分の一、いや百分の一でも、特別な感情がそこにあるといいのにと思う。
だが、今の彼が自分に向けている眼差しには、ティーダが彼に感じるような、疚しさは欠片も含まれていない。
「あんたが心配するようなことは何もないって」
「オレが心配しないことはあるのか。オレでは相談相手にならないか」
この男は、多分ティーダの父代わりである自覚を持っている。実父が果たせなかった責任を、自分が果たそうとしている。
そんな真剣さを向けられてしまったら、血の繋がりなどない二人の間に、違う感情が芽生えてしまうとは思わないのだろうか。
「大したことないって。受験日が近いから、なんてことない事に苛苛するんだ。心配ないって」
「別に、自慰していたことなど怒っていないぞ」
彼の口からその言葉が吐き出された瞬間、ティーダは硬直した。
さすがに忘れてくれたとは思っていなかったが、こんなタイミングで、直球な質問をされるとも思わなかった。
「な、なんだよ」
狼狽えて、慌てた口調を隠すこともできない。頬には血が昇り、赤くなっていることに自分自身でも分かる。
「お前くらいの年になれば、当たり前のことだ。もう初体験も済ませたのか。……ああ、もしかしてそれを隠そうとしているのか」
まるで先程食べた夕食の献立について話しているような、冷静な口調でさらりと指摘され、ティーダは狼狽も忘れるほど面食らった。
本当の親だったら、もちろんそんなことを息子に問いはしないだろう。
だが彼は親ではないが、親代わりであると同時に兄のようでもある。兄弟ならば、性の相談をすることもあると学友に聞いたことがある。アーロンもそんなつもりなのか。
兄弟であれば、決して初体験を興味本位で聞くことはあっても、きっと怒りはしないだろう。
ならば、ティーダの本心が知れないように、アーロンの推測を肯定してしまった方がいいかもしれない。
「そ、そうだよ」
「別に隠さんでもいいだろう」
「だ、だってさ、恥ずかしいじゃん」
まさか本当は一年も前に初体験済みです、とは言えず、そのもじもじとした様子が『恥ずかしい』という言葉に信憑性を与えたらしい。アーロンは納得したようで、ティーダへ笑みさえ浮かべて見せた。
「合意の上であれば、後は自分たちの問題だ。だが責任が取れるようになるまでは、きちんと避妊はしろよ。お前、その年で父親になりたい訳はなかろう」
「ま、まさか!」
半ば本気で彼の忠告を聞きながら、ティーダは酷く空しい気分を味わっていた。
自分が女の子とセックスしたことで、アーロンが何か感じるわけもない。しかしティーダの方は、もし現在彼に恋人がいると知ったら正気ではいられないだろう。
昔、アーロンの女を自称する女性が、ティーダの家に現れたことがある。その時も、ただ馬鹿にされたからではなく、自分は彼女に嫉妬していたのだと、随分後になってから気付いた。
その時は、恐らく養い親の彼への独占欲だけだったと思うのだが、今はそれにこの恋慕が追加されている。嫉妬は数十倍数百倍に違いない。
彼の唇を、肌を味わい、彼の掌の感触を知るものが目の前にいたら、きっとティーダはブリッツで鍛えた手で、その女の首を絞めたくなる。
幸いあれ以来、アーロンの身体から移り香を感じたことも、女がいるような気配を感じたこともない。だからこそティーダはまだ犯罪者にならずに済んでいるのだ。
アーロンは忠告だけして、漸くその眼差しからティーダを解放してれた。だが続く提案にティーダは再び驚くことになった。
「付き合っている娘なら、家に連れてくればいいだろう」
「え。うーんと。彼女とは、その後あんまりうまくいってないんだ。もう卒業だし、多分他に恋人みたいな人、いるんじゃないかな」
実際、一年近く前の初体験の彼女とは、結局それきりだった。友人のような付き合いはあれ以来もずっと続いているが、三つも年上の彼女は既に高等部を卒業だし、大学への進学も決まっている。元々気の多い人のようだし、大学に行けば本気で付き合える、彼女よりずっと大人の男がごまんと居る。
恐らく彼女にしてみれば、可愛い後輩の初体験に手を貸したボランティアのようなものだったのだろう。
「そうなのか。……お前たちくらいの世代は、そんなつきあい方をするのか」
「ちゃ、ちゃんと避妊はしてたよ! それにオレも興味半分みたいなもんだったし、お互いそのつもりだって分かっててしたんだし」
「そうか」
恐る恐る見上げたアーロンの顔からは一切感情が見えず、ティーダは戸惑った。
怒っている訳でも、逆に喜んでいるということでもない。どう反応していいか分からず、複雑な心境というのでもない。
ティーダに気持ちを測らせないように、わざと作ったポーカーフェイスだった。
「……怒ってんの?」
「いや。オレの考え方が古いのかもしれないが、性交なんてものは、本当に好いた相手とする方が、自分にとっても相手にとっても、いいような気がする」
言葉の意味を飲み込み、ティーダはがつりと固い重いものに頭を殴られたような気分を味わった。
本当に好きになった相手は、目の前にいる。本人にそう告げられることは、ティーダが汚いものと云われていることと同意だった。
気持ちに気付いてくれさえしないのに、自分を否定するのか。
「大人の都合で言うよな」
低く漏らした呟きを聞いて、アーロンは片方だけの目を見開いた。
「人恋しいとか云って、女と寝てたくせに。あんたがどれだけ綺麗だっていうんだ」
彼にとって好ましくない女性でも、彼の肌を知ることが出来たというのに。
「ティーダ」
「オレが同じことをしたら汚ねえのかよ! オレの望みも知らないくせに!」
声高に叫んでから、ティーダははっと口をつぐんだ。
告げてはならないことを吐き出しそうになった。一瞬で血の気が引いて、自覚できるほど青くなった顔を俯けると、目頭から涙が零れた。
云ってしまいたい。
『そんなことを言うならば、あんたが綺麗だと思うオレの望みをあんたが叶えろ』と。
叫んでしまいたい。
「ティーダ、お前」
恐ろしくて彼の表情を確認することが出来ないまま、ティーダは唇を噛み締めた。
「お前は、本気で好きな人間がいるのか。それを悩んでいるのか」
ティーダは両肩を強張らせ、俯いて隠した唇から声なく溜息を漏らした。
美しい恋愛を理想とする、潔癖な彼にとって、ティーダの欲望はどれだけ汚れたものに見えるのだろうか。
そして彼は、気付き始めてしまったのかもしれない。
これを吐き出して認めてしまえば、きっと叶わなくても楽になれる。彼に嫌われてしまえば、いつか諦められる。この苦しさから逃げ出せるのなら、大事なものを手離してしまった方が―――。
「オレを抱いてよ」
顔を見ないまま、アーロンの正面からその胸にしがみついた。
煙草の匂いのする胸に顔を押し当て、両手を背に廻して大きな身体を抱き締める。
「あんたが好きなんだ。オレはアーロンが欲しいんだ」
「ティーダ」
一歩下がった彼の身体を追いかけて縋り、仰向いて彼を見上げる。
細められた片目は動揺を露にしていた。
「馬鹿なことを言うな。オレもお前も同じ男だ」
「知ってるよ。そんな立派なモンつけた女はいないよ」
「オレは、お前の保護者なんだぞ。父親代わりなんだぞ」
アーロンは驚いてはいるが、ティーダを諭す口調は静かだった。
「ほら。叶いっこないだろ。あんたは逃げるだろ」
望みはないことはわかっている。だが、どうして彼はこんなに冷静なのだろうか。
「あんたを父親だなんて思ったことない! だってあんたは、オレの傍にいることが生きてる理由だなんて言ってたじゃんか。オヤジは、オレの傍になんて全然いなかったのにっ」
厚い胸を両の拳で叩くが、逞しく揺るぎもしなかった。
「オヤジの代わりなんて欲しくない。あんただけが欲しかったんだっ」
留めようと掴む掌を払いのけ、ティーダは自室へ駆け戻った。
後ろから呼び止めてくれれば少しは救われた気にもなったろうに、彼はもうティーダの名前も呼びはしなかった。 |
灯りもつけないままでベッドに潜り込み、ブランケットを被ってティーダは声も立てずに泣き続けた。この世に生まれて初めての本気の恋の、最低最悪な結末に、涙が止まらなかった。
どうして、ティーダが欲しいと思ったものは手に入らないのだろうか。
母の愛も、最初の恋も、ティーダからの一方通行で、手に入れるための手段ですら端から望めない。
母は父に夢中だった。父がいなくなってから、母は父の面影しか見なくなり、以前よりもティーダが目に入らなくなった。
そしてアーロンもまた、今後は養い親としての彼より、もっと遠い存在になってしまうことだろう。
やはり告げるべきではなかった。そうすれば息子の立場は守ることが出来た。
だが同時に地獄のような日々もずっと続いたということだ。優しく触れられる度に思いは募り、その歓びの反動で身を切り裂かれるような苦痛に耐えなければならなかっただろうから。
きっともう、人を好きになることなどない。なりたくない。
望めない気持ちを請うことにも疲れてしまった。
ブリッツの技のように、努力しても得ることができないものは望まなければ苦しまなくて済むのだから。
ただ流れ続ける涙をシーツに吸わせて、泣き疲れたティーダはいつのまにか眠っていた。
それは、全てを吐露し、苦しみから逃れた安堵の眠りでもあった。
ふと、暖かい感触を頬に感じて、ティーダは目を開けた。
ベッドサイドの灯りが目に差し込み、その赤い光の眩しさに目を細めた。
涙で頬に張り付いた髪をかき上げられ、額に柔らかく口付けをされている。嗅ぎなれた匂いと無骨な指先の感触はティーダの望んだものでもあり、自分は夢を見ているのだと思った。
それほど簡単に諦められるとは思っていなかったが、これほど欲望に忠実で、リアルな夢は、以前にも見たことがない。もっと早くにこんないい夢を見ることが出来たなら、ティーダはもう少しだけ秘密を守り続けることが出来ただろう。
夢にしてはリアル過ぎるかもしれないと疑いを持って開いた両目に、傷に潰された瞼と、ティーダを見つめる瞳が映った。
優しい光を放つ瞳が、これまで見たことがないような輝きを含ませている。
熱いほどの温度を感じる眼差しだった。
「ティーダ」
「アー、ロン」
「お前だけに、告白させて悪かった」
意味を理解できずにティーダは完全に覚醒した両目を瞬いた。
「なに、が?」
言葉の意味を理解できずに混乱し、ティーダは硬直していた。
それでも、彼のその視線だけで、少なくとも自分は完全に嫌われて捨てられることはないと、瞬時に理解することが出来た。それは救いだった。
「お前に、嫌われたくなかった。オレがこんな暗い欲望を持っていると、知られたくなかった」
「アーロン?」
「分からないか」
「わかんないよ」
「お前に、こうして触れたいと思っていた、ということだ」
薄いシャツの胸元に、ベッドの端に腰掛けたアーロンの大きな手が触れた。
半分ほどしか掛けていなかった残りのボタンを指が解いて、開かれていく前をティーダは見下ろしている。小さな灯りの下では、その一部始終を具に見ることが出来ない。彼がどんな表情でいるのかもよく分からない。
完全に露になった胸から腹を、暖かい掌が何度も撫で下ろす。爪の縁や固い章魚の感触までが鮮明だった。
「お前がオレの部屋にいるのを見て、オレがどんなことを考えていたと思う」
「あんたの考えてることなんて、分からない。一番分かんないよ」
心臓が飛び出しそうなほど早く強く鼓動するのを自覚して、ティーダは目を細める。
今すぐにきちんと説明してくれなければ、本当に破裂してしまいそうだ。
ティーダは死にたくない。彼の気持ちを言葉で聞いてからでなければ、死にきれない。
「知りたくないか」
「知りたい。ずっと知りたかった」
「恐ろしいとは思わないのか」
囁く唇が鼻先をついばみ、首筋に埋められた。
吐息のかかる場所が暖かく湿る。それだけで背筋に震えが駆け上がる。
「なんで、そんな風に、訊いてばっかなんだ」
「お前の気が、変わりはしないかと心配している」
そんなことある訳がない。何せこの気持ちは自覚し始めて数年、ずっと我慢し続け押し殺していたものなのだから。彼よりも、ティーダの気持ちの方が年季が入っているはずなのだ。
否定する言葉の代わりに、両手を男の背に廻し、引き寄せた。
彼のシャツが素肌に触れる。薄い布地を通して熱が伝わる。
ずっと望んでいたものが腕の中にある。
「早く」
それよりも、彼の気が変わらないうちに、彼のものになってしまわなければ。
彼が振り返る前に、彼を共犯者にしてしまわなければ。
「早く」
引き寄せられるまま接近したアーロンの唇が唇に触れた。
今度は子供に与えるそれではなく、深く絡み合い、吸い合う口づけだった。唾液と呼吸を分け合い、夢中で貪る様は水に飢えた遭難者のようで。
口付けの合間に、男の手がジーンズの中に潜り込み、性器を掴む。熱い手は思ったよりも躊躇なくティーダを扱き、確実に高めていった。
「こうしたかったんだ、お前を。オレの手の中で」
「アーロン」
「そうやって、オレを呼んでしてたのか」
素直に頷けば、隻眼を細めて微かに笑んだ彼は、脱がしかけたティーダのジーンズを下着ごと奪い取り、開かせた足の間に顔を埋めた。
数秒前のキスまで知らなかった口内の熱さ。
それが生む、未知の快感。
足首を掴む掌の強さ。
自分の名を囁く声と濡れた音。
「夢、みたいだ」
「……本当に、夢かもしれんぞ」
「それでもいい。あんたと一緒なら」
見下ろした彼の顔が一瞬曇ったように見えたが、続けられる行為に目を閉じずにはいられなくなる。
初めて己の手で掴み取った、初めての欲望を叶えた幸福を感じていられるならば、その夢を見続ける努力を、ティーダは惜しまないだろう。
「夢でもいいよ」
「そうだな。夢でもいい」
一瞬、潮騒の音が大きくなったような気がした。
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欲望の行方(了)
03.10.01
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