EP:4
血の枷【前編】
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暗闇の中、手探りの作業も我ながらもう手馴れたものだ。
最初にパトローネの上部をペンチで壊す。最初は「おっかなびくリやるな」などと言われていたのが嘘のように、手早くフィルムを引き出す。リールにフィルムの端を引っ掛けて、後は巻き取るだけ。フィルムの表面には触れないように注意深く。巻き終わったらはさみでパトローネから切り離し、リールを現像タンクに入れて、蓋をきっちり閉める。
3個目の現像タンクを作り終えて、アキラは漸く壁に手を這わせて電灯のスイッチを探した。
数度またたいてついた天井の蛍光灯はまぶしく、視界がハレーションを起こしている。それも暫くすれば慣れてくる。
白い光に照らし出された2畳ほどしかない部屋は、源泉が作った暗室だった。
ステンレスのシンクと、その横に作業スペースがあるが、どうやっても一般家庭のキッチンにしか見えない。もともと粗大ゴミとして捨てられていた古いキッチンシンクを、源泉が修理してここに設置したのだ。つまり作業台は、もともとまな板を置いたりする調理台だったという訳である。シンクの上の手作りの棚には、現像液や定着液のボトルのほか、買い揃えたプリントのための器具一式が雑然と置いてあった。
いかにも素人が作った暗室だが、それでもきちんとしたモノクロ写真を焼くまでのものが一通り揃っていた。
アキラは現像タンクの中に、あらかじめ作っておいた現像液を流し込み、教えられた手順どおりに現像作業を進めていった。
3本のフィルムのうち、2本はアキラ自身が撮影したものだ。元々は源泉が、彼の仕事のために作った暗室だったが、彼のカメラを一台譲り受けて以来、アキラの方がこの部屋にいる時間が長いと言っていい。
これまでに何度かアキラが撮影し、現像からプリントまでした写真を、源泉は数枚新聞社に持っていき、コンテストに採用されたこともある。すでに趣味の域を越えていた。
これが今のアキラの、源泉以外の生きる理由のひとつだった。
トシマから日興連に移民して、二年近くが過ぎようとしている。アキラの心を塞いでいた重く辛い記憶も、年月をかけて漸く彼を解放しようとしていた。
多くのものを失い、忘れたくても忘れられない事件だったが、そこから連れ出した源泉にもトシマに行かねば会えなかったと思うと、アキラは決してそれが無意味だったとは思えない。それだけ彼の存在は大きく、そして通常それを意識することはないくらい、傍らに源泉がいることは、アキラにとって極々自然なことになっていた。
彼がアキラにカメラを薦めたのは、厳しい思い出とこれから立ち向かう困難からの逃げ場としてだったのだろう。自宅を空けることの多い源泉が、自分の存在の代わりに与えた、アキラの寂しさを紛らわす玩具というわけだ。
だが、源泉自身が近くにいてもカメラに夢中になっているアキラに、彼は文句のひとつも漏らさない。
そのかわり、あまりに源泉を無視していると、無言でカメラは取り上げられ、強引にベッドまで運ばれて、そのまま朝まで離そうとしない。
妙に子供っぽいその抗議に笑ってしまうこともあるが、一方でそうされればアキラもまた、あくまでカメラは彼の代わりにしか過ぎないのだと自覚する羽目になる。
本当は片時も離れたくないなどと、今更小娘のようなことは口にしないが、隣に彼がいれば、口付けや肌でその気持ちを伝える術があった。その無言の訴えが伝わっていると思えば、アキラの些細な感傷は立ち消える。
それもこれも、すべての手段は源泉に教えられたことだ。
彼もまた同じ気持ちなのだと、アキラはこの二年という時間で理解することができた。
心身共に大人になるとは、多分そういうことなのだろう。
現像が終わり、字のごとくフィルムはやっと陽の目に晒される。定着が済んだフィルムは、もう明かりの下に出しても問題ない。
フィルムに残った定着液の酸味のある匂いが狭い暗室に立ち込める。水道から水を出して定着液を洗い流しながら、映り具合を確かめていく。
アキラも源泉も、主にポジフィルムも使っていた。ネガの方が耐久年数が長いと言われるが、ポジであれば印画紙に焼く前に、一目で確かめることができるから、あらゆる面で節約にもなるのである。
洗い終えたフィルムは、暗室内に張ったロープに洗濯バサミでつるして乾かし、それが終われば現像は終了である。
蛍光灯に透かして見える像は、アキラが思ったとおりの出来になっているようだった。
思わず笑みを浮かべながら、どれを印画紙に焼くか選定する。ただシャッターを切るだけでなく、この時間が『写真』の大きな醍醐味だ。
二本分のフィルムはアキラが先日撮影に行った、牧場の風景だった。主に馬やそこで働く人々が映っている。
もう一本は源泉が撮影したものだ。
現像待ちのフィルムを置く箱に、彼が撮影した『源』のマジックペンの印がついたパトローネがあったのだ。暗黙の了解で、頼まれなくともそれらはいつもアキラが現像していた。
コンクリート建ての、工場か事務所のようなものが写っていた。建物の全景、正面らしき門と看板、それに望遠で撮った窓。
暫くそれらを眺めていたアキラは、ふと不安になった。記憶の端に染み付いた何かが、嫌悪感を呼び覚ます風景である。
源泉は普段風景を撮ることも多いが、それは自然界のものが殆どで、大抵人物を入れ込んだアングルだった。だがこれは明らかに建物を撮っている。しかも何の変哲も、面白みもないビルだ。
ちらほらと伺える人物は、似通った制服か何かを着ている。
目を凝らして、小さなフィルムに刻まれたそれらに見入って、アキラはびくりと身体を強張らせた。
慌てて引伸機のコンセントを入れた。
引伸機とは、ポジやネガを拡大し、印画紙に投影させてプリントする機械のことである。操作や設定の方法によっては、フィルムの好みの部分をトリミングしたり、極端に拡大して焼き付けることもできた。
目的のポジはまだ余り乾いていなかったが、そのまま引伸機にセッティングする。
棚の横板に取り付けた、クリップ式のセーフライトをつけ、天井の蛍光灯を消した。
セーフライトのぼんやりしたオレンジ色の光を頼りに、引伸機のスイッチを入れ、ポジの一部分を拡大させる。焦る気持ちを押さえて、ピントを調節し、露光時間を設定する。あとは印画紙を置いて露光させるだけで、写真が出来上がるのだ。
本来ならば目的の濃さに焼くためにテストを行うが、その時アキラはそんなことも忘れていた。
印画紙をイーゼルに挟み、セーフライトを消して、露光スイッチを入れる。ほんの3,4秒程度である。
あわただしく再びセーフライトをつけ、まだ真っ白のままの印画紙を取り出し、現像液を張ったトレイへ放り込んだ。
ピンセットで現像液の中に沈め、暫く揺らしてから裏返すと、すでに映像が現れ始めていた。
白っぽい壁に、四角くあいた窓が一つ。その窓辺に横顔を晒す男が一人、写っていた。
印画紙を揺らしているうちに、その姿は更に鮮明になっていく。
現像は一定時間現像液に浸した後に、定着液に写さねばならない。だがアキラは硬直したように、その写真の男を見つめていた。
忘れもしない。忘れられる訳がない。
緩いくせ毛の髪、壁と同じくらい白い頬には記憶のとおり、一切の感情が覗えない。
それは、肉親ではないものの、アキラと血のつながりを持った唯一の人間だった。
「ナノ」
アキラはピンセットを持つ手の力を失った。
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日興経済新聞社の社屋はその細長いビルの壁を中心街に晒している。この日興連でも大手3紙のひとつというだけあって、売上はもちろん、戦前からのライターやカメラマンも出入りして活気があった。
源泉は以前CFCに住居を置いていたころに、研究所に取材のため出入りしていた記者と懇意にしており、彼は今、日興経済新聞の社会部チーフになっていた。その伝で写真や取材記事を持ち込むようになって、もう丸1年が過ぎた。
源泉は社会派と言われるような写真は撮らないが、社内でもなかなか好評だということで、日曜版の芸術面や娯楽面などに特集さたことも一度ではない。報酬は微々たるものだったが、これまで異なる業種でしか働いたことのなかった源泉にすれば、破格の扱いだった。
その源泉が今いる場所は、この社屋でもあまり人の立ち入らない、資料室の一角である。20世紀からの各種資料を詰め込んだ場所は、独特のかび臭い匂いが立ち込めていた。
もちろん許可を貰って出入りしているが、これでは無断で入ったところで何の咎めも受けないだろう。現に丸一日篭っていても、誰一人通る者もない。源泉は邪魔が入らないのをいいことに、書棚と、隣に設置された端末室を行き来して、ひたすら調べ物に没頭していた。
「何をそんなに熱心に調べてるんだ?」
突然話し掛けられて、源泉は寄りかかっている事務椅子から飛び上がるほどに驚いた。
端末室の戸口に寄りかかって立っていたのは、社会部チーフの近藤だった。
「なんだ。あんたか。びっくりさせるなよ」
頭を掻きながら笑うと、近藤は源泉の口元を指差して言った。
「資料室は禁煙だぞ。大事な資料燃やす気かい、お前は」
慌てて持ち込んだ灰皿に煙草を押し付ける源泉を横目に、彼は隣の席に座った。
近藤は、源泉より5つほど年上だが、見かけは十は離れて見える。白髪交じりの短く刈った頭は、まさに胡麻塩とついた仇名に相応しい。浅く焼けた顔で、りっぱな鼻と厚い唇が、一度見たら忘れられない印象を残す。
昔研究所に出入りしていた頃、髪が黒かったが、世話好きで温厚な性格はあまり変わらない。
「何調べてるんだ?」
「いや……ちょっとね。気になることがあって」
開いていたデータベースを閉じても、持ち込んだ書面の資料は山積みになっている。その山を一通り眺めた近藤は微かに眉をひそめて源泉を見た。
「やめとけ。お前んとこのガキから監視が取れたの、ついこの間じゃなかったか?」
「ああ」
近藤がいうガキとはアキラのことで、監視というのは、アキラに張り付いていた尾行のことだ。
この日興連に逃げ込み、移民の申請をする際、源泉はアキラを自分の養子として登録した。元々CFCでは赤の他人を家族にさせる奇妙な制度があったのを逆手に取って、アキラの出生を隠そうとするのが主な理由だった。
だが、アキラはCFCで生活していた頃、殺人の容疑を掛けられた前科があった。さすがにCFCを敵視する日興連でもそれを見逃しはしなかった。当時はまだアキラが未成年だったこともあって、日興連の保安警察は刑事事件とはしなかったが、アキラは何度も家庭裁判所に呼ばれ、その度に厳しく事情聴取された。
元々、殺人容疑は軍に所属していたエマが仕組んだものだ。源泉がアキラの容疑を晴らそうと奔走する間に、保安警察や検事の独自の調査で、殺人容疑が冤罪であることはすぐに発覚した。
それでも、源泉の元に戻ってきたアキラには尾行がついていた。
恐らく冤罪を掛けられ、アキラが処罰から逃れるために、日興連にスパイとして潜入させられたのだと誤解したらしい。その誤解は源泉にも飛び火した。
半年ほど尾行は二人に張り付いたままだった。
それがおとなしくなったのは、内戦が勃発して半年ほど経った頃のことだ。
それまでの権威が嘘のようにCFCは分断され、今は一部の残党が儚い抵抗を繰り返すだけのゲリラ戦になっている。その情勢には関係なく、ただ静かに生活する源泉とアキラから、保安警察は次第に疑いの目を和らげて行った。もともとアキラが非ニコル因子の所持者であることは、CFCでも最重要事項で、その事実を知っているのは軍部のほんの一部に過ぎない。書面やデータに残す危険を冒していない限り、日興連がそれを掴むのは不可能に近かったはずだ。
尾行の私服捜査員を見かけなくなったのは、丁度、移民が認められ、日興連から旅券と住民票が発行されたころだった。それはスパイ容疑が晴れ、日興連が彼らを受け入れた合図であったのかもしれない。
「じゃあ、なんでそんな資料調べてるんだ」
ここ二年ほどの記憶をつい反芻していた源泉は、近藤の声に我に返った。
彼が指さすデスクの上には、日興連の科学技術庁の資料が山積みになっている。幾度も源泉の書いた記事や写真を採用し、もしくは仲介してきた近藤には、これが取材の一環でないことは明らかだろう。
「この間…なつかしい男に会ってな」
「ふむ?」
「単なる偶然だったんだろうが…そこになぜ彼がいるのか、気になった」
遠くを見つめる源泉に、近藤は眉間のしわを更に深めて見せた。
「誰だよ、そりゃ」
「いや…」
源泉は自嘲気味に笑い、友人を振り返って頭を下げた。
「すまない。こればっかりは、あんたにも言えないんだ」
「オレはなあ、源泉よ。お前が軍の研究所に移ってからのことは知らねえが、ろくな経験じゃなかったってことは知ってる。お前の嫁さんや、坊主が死んだのも、あそこに関わったからだってこともな」
顔を強張らせ、近藤からそれを逸らしても、彼は言葉を続けた。
「お前がこっちにくるまでの数年…お前、嫁さんたちの復讐する気で向こうに残ってたんだろ?」
「…ああ。そういうことだ」
「まだ、その復讐は終わってねえのか」
「いや。オレはもう済んだことだと思ってる」
その言葉に嘘はなかった。『あの男』を見つけたといっても、再び彼を追い、抹殺する気は今はない。
「じゃあ、何なんだ? 今度はあの新しい息子のためか?」
心を見透かされたような言葉に、源泉は怒りをもって友人を睨み付けた。
普段穏やかな源泉の怒りの顔には、大抵の知人も動揺するが、近藤は別だった。まっすぐに年下の知己の顔を見つめ返し、温厚な顔に、だが真剣さを潜ませている。
「お前、随分あの坊に入れ込んでるようじゃないか。丁度死んだ子と同じくらいの年だからか?」
「いや。今は違う。会ったころは、そんな風に見ていた事もあったが」
源泉自身も、なぜ今更『あの男』を見つけたからといって、深入りしようとする自分がいるのか、正直計りかねていた。それが何のためなのか、誰のためなのか分からずに、ただ黙って見過ごすことが出来なかったのである。
きっとアキラは、『あの男』が生きていると知れば、じっとしていられないに違いない。
彼はアキラの肉親ともいえる、唯一の存在なのだ。その繋がりは、源泉が思うよりずっと強いもののはずだった。
『あの男』がトシマでアキラを逃がして以来、アキラの中での彼はより大きなものになっている。同時にそれは、トシマで死んだ友人や知人の記憶と共に、アキラを縛る枷になっていた。
この二年近くのアキラとの生活で、トシマの記憶とその枷は、唯一源泉が介入できないものだったのだ。
彼を解放してやりたい。
ただ時間という獣に躯をついばませ、風化していくのを待つだけでなく、枷を取り除くために源泉が手を貸すこと、それだけが…アキラのために今の源泉に出来ることだった。
「なんだか、オレが口出すことじゃないってことか」
近藤は源泉の思いつめるような顔を見て、何かを察したのだろう。
小さくため息をついて、軽く頭を振ってみせた。
「悪い」
「だがな、お前はもうウチの売れっ子なんだからな。仕事はきっちりしてもらうぜ。そのためにも、お前やお前の大事な息子を傷つけるような面倒ごとには、くれぐれも首をつっこんでくれるな」
「わかってるよ」
近藤はもう一度ため息をついて、端末室を出ていった。
源泉は信用を示す友人を裏切ることにならないよう、慎重に行動する決意をせざるを得なかった。
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* * * |
アキラが源泉との住居を構える地域からは、車で二時間ほどの場所、複雑な起伏と渓谷に囲まれ、所々に大小のダムなども見える。濃い緑の中に、初夏の午後の強い陽を反射するのはダムの縁を飾るフェンスだろうか。貯水量を調整するための排水溝から、細く流れ落ちる水がきらきらと光って美しい。
こんな自然と人工物がうまく調和した風景は、ここ最近のアキラにとって、被写体として見逃せない場所だった。無論すっかり習慣になっているのか、カメラは持参している。だが目指すもののことを考えるとケースから取り出す気も起きない。
山の峰と平行に走る舗装された細い道では、一台の自動車にも遭遇せず、アキラは麓のバス停に降りたってから黙々と足を運んでいた。
もう一時間は歩いただろうというころ、少し道が広くなり、深い林の木々の隙間に白い建物を確認することができた。
道は行き止まり、高い鉄製の柵がついた門の奥に消えている。
リュックのポケットから取り出した印画紙と、その門を見比べた。
「ここ…だ」
門の形、看板、門扉の奥に見える白い建物、源泉が映したと思われる場所に間違いない。
門柱についた看板には、ひかえめに『日本復興連合科学技術庁第一区第四研究所』とあった。
こんな山奥の施設だというのに、不似合いなほど高いブロック塀が、左右の視界の限り繋がっている。柵状の門扉は上部に鉄条網、左右の門柱には一台ずつ監視カメラが取り付けられ、一定の速度でその首を振っていた。
騒がしいくらいの野鳥の声、揺れる木漏れ日、そよそよと頬を撫でる風、どれにも不似合いな厳重さで、そう簡単に潜り込めそうにはなかった。
「ロープくらい持ってくればよかったかな」
3メートルはありそうな高いブロック塀を越えるには、それくらいは必要だったが、あいにくと持ってきていない。あるのは、暫く張り込むことになっても大丈夫なようにと、携帯用の毛布、携帯食と水、携帯電話、懐中電灯、カメラ、一脚(足が一本の三脚のようなもの)、フィルム数本。まるで遠足のような有様だ。
携帯電話は電波が来ていなかった。これほど山奥であれば仕方ないかもしれない。
この場所はインターネットで調べることができた。
電話帳や検索ですぐにその名前は見つかるのに、正確な住所や連絡先、その施設の目的はまったくヒットしない。明らかに国家機密を抱える研究所であることは間違いなさそうだと、アキラでも検討がついた。
それらしき施設を見つけたのは、国外で公開されている衛星地図のサイトからだ。周囲の風景や、ここ最近遠出していないはずの源泉が行動した範囲から検討をつけて、衛星地図を延々眺めて場所が判明した。
しばらく高い門扉を見上げていたが、ぼーっとしていると監視カメラの視界に入るかもしれないと思い至り、左右に広がる雑木林に逃げ込んだ。木々は人が歩けるくらいの間隔で、足元の下草も歩くのは可能な程度の高さだった。
源泉が建物の写真を撮ったからには、どこかに外からでも内部が見える撮影ポイントがあるはずで、アキラは写真と衛星地図をプリントしたものを見比べながら、塀沿いに茂みに踏み込む。
地図から察するにほぼ真四角に区切られた敷地は一辺が五、六百メートル程度はあった。延々と続くかと思われる塀を横目に、飛び出てくるバッタと戦いながら草を掻き分けて進み、ようやく塀の角に到達した。
さすがにこの辺りでは敷地外に向いた監視カメラはないようだ。
方角的にはこの辺りが撮影ポイントのはずだった。だが相変わらず塀は高くそびえ立ち、むろん親切に裏口があるわけでもない。
ふと、近くにある木に目をとめた。
松のような荒い木肌で半分立ち枯れたようになっているが、かなり大きい。他の杉やイチイと違って水平方向に伸びた枝もあり、よじ登れそうな気がした。
「まさか…オッサン、これに登ったのか?」
つい声に出して呟きながら松の木に近寄ると、木肌の表面に所々削り取ったような跡がある。
アキラは思わず吹き出した。
長く一緒に生活していると、発想も似てくるのかもしれないと、なんとなく思った。
「いい歳して、頑張るなあ」
彼の足腰が決してその年齢通りではないことは、アキラは存分に知っている訳だが。
3メートルの塀を目下にする高さがこれほど恐怖感を感じさせるものなのかと、アキラは緊張しながら木の節に腰掛けた。高所恐怖症ではないが、あまり安定感のよくない木の上で、しかも立ち枯れかけてぎしぎしと不穏な音を発する。
だがごつごつして足がかりも多いため、登るのにさほどの時間は要さなかった。源泉が腰を落ち着けたと思われる場所まで到達し、なんとか両手を空けて望遠レンズをセッティングしたカメラを構えると、まさに源泉が撮影したアングルがフレームの中に広がっていた。
敷地外のうっそうとした林と対照的に、塀の中は芝生が敷かれ、舗装された小道が走り整然としていた。四角く出っ張りのない白い建物は敷地の中央に、同じ形の窓が並んでいて、遠くから見ると模型のようにも見えてくる。アキラの持っているレンズでも、望遠を最大にすると窓が3つ入るくらいまで拡大することができる。
源泉の写真と違い、窓は閉じられ人の気配はなかったが、建物の根本あたりに数台自家用車が駐車してあった。
人が出入りしているのは確かで、根気よく待てば門扉が開くこともあるはずだ。なんとか隙を見て、敷地内に潜り込まなければ、ナノが本当に今もここにいるのか確かめることは出来ない。
ここまでくるのにかなりの時間を要し、陽が傾きかけていた。完全に陽が落ちれば、望遠レンズも意味はないし、門の近辺で張り込む方がよさそうだ。
アキラは数枚シャッターを切ってから、ゆっくりと木を降り始めた。
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さすがに山の夜は冷え込みが厳しい。初夏とはいえ、アキラは薄い綿のニットに黒いジーンズ、季節に関係なく愛用しているデザートブーツという格好で、毛布無しではじっとうずくまっているのは辛い気温だった。
昼間の様子とは一変して、雑木林からは虫の鳴く声しか聞こえない。
研究所も至って静かなもので、相変わらず門を通る人も車も一切なかった。
暗闇で身を潜めるアキラは、ずっと門柱についた監視カメラを見つめていた。左右別々のタイミングで、一定のリズムで視界を移動させるカメラが、一瞬門の正面に死角を生じさせることに気づいた。時間にしたら多分3〜4秒程度だが、門扉が開くまで停車するだろう車の後部に取りついて紛れ込むのは、案外可能なように思えた。
問題はいつその助け船ならぬ車が通るかということだ。国の機関であれば夜間人が出入りする可能性は低く、いつくるかも知れないのでは眠ることもできない。
もし車が来たらすぐに飛び出せるように、リュックを足元に置き、被った毛布をすぐにつっこめるように準備は整っている。
腕時計を見ると22時をまわったところだった。自宅にはそろそろ源泉も帰宅している頃だろう。いつも源泉より早く帰宅しているアキラがいないことに、彼が疑問を感じないはずがない。
心配しているだろうか。
多分、帰ったらこっぴどく叱られるだろう。そういう時、源泉は一番怒る。
アキラは被った毛布の中で、小さく笑いを漏らした。
心配されることが少し嬉しくもあり、同時に胸の奥を締め付けられるような気分になる。
電話をしてみようかと携帯を取り出したが、やはり圏外のままだった。
最近アキラは、自分にとって源泉こそが一番大切なものなのだと自覚がある。感情が希薄だと自ら思っていたアキラだったが、源泉が大きな存在になってからは、あらゆるものの見え方も少しずつ変わってきたと言っていい。
まだ一緒に住み始めたころの源泉の何気ない言葉が、今更昨日のことのように思い出されたりする中で、アキラを縛り続けるトシマでの記憶は、反比例するようにゆっくりと穏やかに変貌していった。
そもそもナノという男とアキラは懇意にしていた訳でもなく、交わした言葉さえ数えるほどだ。だが彼が生きていると事実を突きつけられた途端、脳の引き出し奥深くにしまい込まれていた記憶が、乱雑にぶちまけられたように、アキラは一瞬で忘れていたことも思い出した。
幼いころアキラはナノに出会い、約束したのだ。
アキラの知るナノの姿よりずっと若い、まだ少年と言っていいような頃、その手を取り合って。
CFCにいた時分から持っていたあのナイフは、彼から譲られたものだった。彼は当時からアキラが、己の身体に潜む兵器をうち消すかもしれない唯一の存在であることを、きっと知っていたのだ。
アキラとナノは表裏一体の存在だった。
歳は離れているが、双子や兄弟というのはこんな感じなのかもしれない。事実、二人は血が繋ぐ関係だった。
それをナノも感じているからこそ、アキラをトシマから逃がした。己の命を顧みずに。
彼が今、彼自身が望まない環境にいるのならばアキラが手を貸す番だった。
そして何よりも、ナノに会いたかった。
もう一度、声が聞きたかった。
思案に沈む内、蹲ったまま少しうとうとしていたアキラは、木々の間から漏れる強い光と、低く唸るようなエンジン音に文字通り飛び起きた。
車が近づいて来ている。それもヘッドライトは二台分見える。
アキラは毛布をリュックに押し込んで背負い、木々の影に身を低くして門に近付いた。
車は先頭がセダンタイプの一台、後ろに大型の四輪駆動車が一台。四駆の後部には予備のタイヤが取り付けられており、車高も高く、取り付くにはおあつらえ向きだった。
二台の車は、アキラの目の前でスピードを落として、門扉の前で停車した。すぐにセダンの運転席からスーツ姿の男が一人降りてきた。男は小走りに門柱に近づくと、インターフォンを押して何かを話している。
暫くすると、鉄の門扉のロックが外れる音がした。
男はまた小走りで車に戻り、同時にきしんだ音を立てて門扉が中央から観音開きに開いていった。
アキラは監視カメラを見上げた。
これまで覚え込んだタイミングでカウントを始める。車にとりつく姿が映らないよう、左右のカメラが完全に振られる瞬間を狙って、木の陰から飛び出た。
四駆車の車高が幸いして、通りに身をさらす瞬間はせいぜい2秒程度だった。身を低くして四駆車の背後で息を潜め、発進する時を見計らう。加速する瞬間ならば、アキラの重みにも気づかれないよう取り付けるはずだ。
予備タイヤとそれをささえるフレームに手を掛ける。ゆっくりと体重を乗せていき、発進と同時に道路から足を離した。
少し上り坂になっているスロープを、車はゆっくりと進んだ。
後部にしがみつくアキラは、横目で背後の門を見やった。鉄の門扉は侵入者には気づかなかったようで、徐々に閉まり始めていた。
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2005.04.09(未完)
アイコ<http://www.natriumlamp.com/B1F/>
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