EP:2
境界線
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小さく揺れる炎を見つめていると、過去の過ちを思い起こすことが多くなる。だから人は、祈る時に目を閉じるのかもしれないと、源泉は思う。
あまり熱心な信者ではなかったが、元はクリスチャンであった彼は、今祈る姿勢をしているものの、洗礼名を授かった神を信じる術は忘れてしまった。愛しくて仕方ないほど愛していた子も、その子を産んでくれた伴侶も、神への敬虔な祈りの効果もないまま儚く、あまりにあっけなくこの世の者ではなくなったからだ。
いつか、この何に向けるでもない祈りが、彼らの痛々しい死の仇を討ってくれるだろうか。
それともそもそも、人命というものに祈りは効力を示さないものなのかもしれない。
トシマの夜は静かだった。それこそ間近で騒ぎでも起きない限りは、以前源泉がCFCで住んでいた界隈よりも、ずっと静かだ。
こうして姿形もないものへ、あてもなく祈るには相応しい。
何にも邪魔されず、己の過去の所業を恨み、仇を討つ決意を新たにする。それでこそ、この行為は無ではない。
ふと物騒な発想に至って、源泉は静寂に包まれた空気が、わずかに動くのを感じた。猫の子が息を潜め、尾を振る程度のそれに気付いたのは、ほんの偶然だったのかもしれない。
振り向いた通路に立った青年は、源泉にはなじみのある顔だった。
「おま……なんで、ここに」
相手もこちらの存在に驚いていたのか、薄く唇が開き、意外そうな視線がこちらに注がれる。
若若しい長い腕を両脇に垂らしているが、そこには僅かに警戒も感じられた。
「いつ入ってきたんだ?」
「…今さっき」
「見たのか」
「何が?」
「見たんだよな」
無言は肯定でもあり、源泉は舌打ちしたい気持ちを押さえた。
この街では真実の姿を他人に見せることは、大きな弱みを晒すに等しい。
だが一方で青年からはあからさまな攻撃性は感じられず、源泉はすぐに肩の力を抜いた。
青年はよく見れば、骨格や筋肉の付き方に比べて、首が細く、顔立ちも幼さを残すところがあった。アキラと幼なじみだというケイスケの方が一見弱々しい印象だが、彼の腕や首は労働者のもので、眉の辺りなどは大人の男の匂いが強い。アキラの場合は、酷く大人びた顔つきをするのに、観察しているとその唇の繊細さや首筋のなめらかさは女子供のようだ。
源泉は、だからこそアキラを見ると、懐かしい家族を思い出すのだろうか。
源泉の妻は気が弱くかなりの心配性だったが、長く伸ばした黒髪は近所でも評判になるほど美しく、少女のような一面を残す愛らしい女だった。まだ小さかった息子は、幸いにも母親に似てなかなかの美形だった。いや、そうなるはずだった。
愛した女と、彼女に瓜二つの息子を、源泉は溺愛していた。
その二人を失って暫く、源泉は抜け殻のようになっていた。『彼らの仇を討つ』という名目を見出さなければ、息子に続いて、窶れ死んでいった妻の後を源泉も追っていたに違いない。
息子の面影を見るこの青年に、弱みを目撃されるのは抵抗があった。
同時にこの町の無情さに打ちのめされていく青年を見るたびに、その身をきつく抱きしめて守ってやりたい衝動に駆られる。
だからこそ源泉は、青年が幼なじみの探索に出かけようとするのを止めた。その理由は真実だったし、誰が聞いても納得するものだったろう。
初めて身を寄せ合って眠りについた時、源泉は久々に感じる人肌の温かさに思わず呟いた。
「うちのも生きてたら、こんな感じだったのかねえ」
単に亡き者の面影をアキラに追い求めているのではなく、息子への罪滅ぼしとすり替えてしまうエゴの現れなのだと、源泉は自嘲の笑みを漏らした。
そう思っていた。
その時までは。
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アキラがケイスケを探してうろついていることは知っていた。ケイスケの異変についても聞き、それがほかならぬラインによるものだということも察しがついた。
いずれ、こうなることは予測がつくことだったかもしれない。
雨の中で、まるで打ち捨てられた犬猫のように、濡れそぼり、傷ついたアキラを見つけたとき、源泉は過去の後悔を鮮烈に呼び起こされた。
これまでの飄々と振舞って来た態度も忘れ、掻き抱くように、すがりつくように濡れた身体を起こした。
揺さぶると青い顔は瞼をおっくうそうに上げ、源泉を見て、寒さに震える唇で源泉を呼んだ。
なぜもっと早くに本気で対処しなかったのか。かつて愛しい息子を無くしたときも、こんな風にすでに息絶えた亡骸を抱き上げはしなかったか。後手後手に回った己の行動が、すべてを壊し、全てを失わせた。
幸いアキラは致命傷ではなく、すぐに意識を取り戻したが、友人を追おうと取り乱すさまを見て、今度は息子を失った妻の姿を重ねた。押さえる源泉の腕を振り払い、まともに立てもしない足でケイスケを探そうとするアキラの視線を引き戻し、逆上を隠さず怒鳴りつけた。
アキラは息子でも妻でもない。このトシマで出会った、数多いイグラの参加者のひとりでしかない。
だが他の誰よりも、アキラを気にかけ、大事に思う気持ちは偽りなかった。
「これ以上、守りきれずに失うのは、御免だ」
本音の呟きはアキラを正気に返したが、続けた言葉は恐らくアキラにとって最も過酷な事実だったに違いない。
「ケイスケは…恐らく…もう」
打ちのめされたアキラの牙城が崩れた。
雨は容赦なく降り注ぎ、滝のようにアキラの頬を流れる。それでもしゃくりあげる音は鮮明だった。冷たい雨に洗い流される涙を隠すように、源泉はアキラの頭を肩口に抱きしめ、その背を撫でた。
彼の口から『取引』という言葉を聞いた瞬間から、その時は訪れた。
源泉は、アキラがこのトシマに現れイグラに参加した理由を端から信用しきっていた訳ではないし、源泉自身も真の目的は隠し通し、彼を『罪滅ぼし』に利用していたことを思えば、怒りをぶつけられこそすれ、こちらが怒る理由はないはずだった。
だが、源泉が僅かに怒りに似た感情を覚えたのは確かだった。
それがすぐに違う感情に変化していくのも、源泉は自覚し、それを冷静に分析しようと、己の心の行く先を客観的に観察していた。
自分は落胆しているのだ。遥かに年下の、なんの絆もない相手に信用を得られていなかったことを。
息子のように思い、気にかかる相手といえばリンなども同じだったが、リンは源泉とは常に一線を引いて付き合っていたし、それ以上の繋がりを源泉から求めることもなかった。
失うものは全て無くし、信じるものも全て放棄して以来、必要以上に期待をかけることも、求めることもなかった。そうして、このトシマでも生き抜いてきた。
それなのにアキラは。アキラには。
これほどの執着を感じていたのだと、源泉は初めて気付かされることになった。
誰にも話すつもりのなかった真の目的をアキラに話し、そしてそれを素直に信じようとするアキラに、源泉は安堵していた。彼が非ニコルの保菌者であると確定した後も、その気持ちには変わりなかった。
「このまま、握りつぶせばいい」
それなりの戦闘を経験してきたはずの繊細な指先が、源泉の腕を掴んで、その首筋にからめさせる。真剣な眼差し、だが死に執着なく投げ捨ててくる無謀さが、彼の必死を物語っていた。
一瞬、彼の促すままに力を込める誘惑に駆られた。
これまでの目的が達成されるという期待。無表情を装い、だが燃え滾る激情と精神を内に秘めた青年の、生死を己の手の内におさめているという優越。
だが これまでに生きる支えとしての口実を復讐に求めてきた源泉には、青年の一途さは眩しすぎた。
打ち砕かれる。
揺るぎなく見つめてくる目に。
亡き家族の仇を討つためには、保菌者全てが対象だったはずなのに、彼が源泉の目的を否定し、文字通り命をかけて理解を得、それを共有しようとする様を見て困惑しながらも、嬉しさすら感じていた。
ざわざわと胸を騒がせ、アキラのめまぐるしく変わる表情に目を釘付けにし、伏し目がちになる彼のこめかみに手を伸ばしたくなる。
そこに触れたところで何になるのか。
これまでの、まるで息子に対するように宥めたり、抱きしめたくなる衝動とは違う、もっと即物的な欲求だった。
決して他人には触れさせたくなくなるような──。
出会った当初から警戒心もあらわな視線を向けてきたアキラが、今わずかにそのアンテナを狂わせ、己の張ろうとする罠に落ちようとしている。男の真実を聞き、和解を得、アキラが警戒を解いた瞬間を、源泉は見逃さなかった。
青年の肩をそつなく押して、奥の部屋へ招き入れ、後ろ手に扉を閉めた瞬間、源泉は自身がアキラに抱く感情と欲望を正確に理解し、大人ゆえのずるがしこい手管と言動を後悔し始めていた。
抗う者をねじ伏せて、奪い取る欲望は男の性だろう。
昔、妻となった女にもそんな感情を覚えたことはあった。それを目的とした映像などを見れば、身体が自然に反応することも、男子であればごくまともなことだろう。
だがそれを、歳は息子ほども離れた、しかも同じ男を相手に感じることは、源泉の中でも決してまともとは云えない。
源泉が悪ふざけをしている振りでアキラへ手を伸ばした時、彼は最初本気で抵抗した。至極まっとうな反応だろうし、だが一方で彼はあくまで過ぎた悪ふざけとしか受け取っていなかったようだった。
それでも源泉を振り払い、その腕から抜け出そうとアキラが暴れた瞬間、火が点いたように源泉は本気の力でアキラを組み伏せた。
掴んだ手首は存外に細く、源泉の掌で握り取れてしまった。
わめきながら源泉をなじる唇からもれる吐息が首筋に触れる。
間近に見下ろしたアキラの目は驚きに見開かれ、『どうしようもないオッサン』を見る視線だったが、そこに侮蔑の色はない。
このまま。
このまま口づけてみたら、どんな顔をするのだろうか。
無論本気であることに気づけば、部屋の隅に置いたナイフを取るかもしれない。だが丸腰で、こうして腕力でいえば上の自分が乗り上げている状態であれば、アキラはきっと逃げ出せない。服を剥ぎ取り、まだ若い茎をなぶって動きを封じ、足を割り、誰も触れた試しはないだろう奥深くを暴いてみせたとき、この青年は誇りを捨てて痛みに泣きわめき、未知の快楽に喘ぐのだろうか。
己の想像に源泉は頭の芯と、下肢が熱くなるのを感じた。久しく覚えのない昂揚だった。
そして次の瞬間、想像の中の泣き喚くアキラに、亡き息子の泣き顔がだぶった。己の無力から息子を失い、源泉の非力を責める妻の泣き顔が。
源泉は背中に冷水を浴びせられたような、恐怖に似た震えに我を取り戻していた。
その一瞬のひるみをアキラは見逃さなかった。腕を跳ね上げ、不安定な姿勢で寝台に座っていた源泉に逆に飛びかかる。毛布と一緒にずり落ち、斜めに寝台に寄りかかった状態の源泉の上に、アキラはまるで猛獣を押さえ込むように乗り上げていた。
さして重くもない身体。
腹を挟む股は筋肉質で男のものだったが、そこに続く腰は薄く、女のもののように細かった。かつてBl@sterの常勝者だったとは、にわかに信じがたい。
そんな身体を身勝手に蹂躙しようなど、獣にも劣る行為だ。例えこの衝動が単なる性欲ではなく、紛れもない時季外れな『恋』だったとしても、隠し通してしかるべきだった。
己を信じ、頼ることを覚え始めた純粋さを踏みにじろうとし、人の道を外れようとしていたことへの後悔が怒濤となって源泉を襲った。
「あーあ」
自身の笑い声が白々しい。
「アキラ、どいてくれ」
見上げた青年は男を押さえ込んだまま、乱れた息を呼吸二つで整えた。
そのすんなり長い腕が源泉のシャツの胸元に伸び、指が素肌を這う。
「……アキラ」
硬直したのは三秒ほど。腹のあたりまでボタンが外され、シャツの襟元が引かれた時、源泉は本気で慌てた。
「おいおいおい、アキラ」
少し冷たい掌が胸と腹に押し当てられ、意図を持って下へ撫で下ろされた。
肌が泡立ち、背筋を再び熱いものが這い上がる。下腹部に乗るアキラの内股を、布越しに意識した途端、源泉は己の股間が反応するのが分かった。
知られる。本心を。
「いいかげんにしろって…」
腕で視界を塞ごうとすれば、青年はあえてその腕を退けさせた。好奇心の閃く視線が源泉の顔と身体を見下ろしてきた。
再び己の中の獣がゆらりと頭(こうべ)を上げる。先程は一瞬で押さえ込んだそれは、既に鎖を断ち切ってしまっていることを知っていた。
『恋』であると自覚したのだ。
はからずも大の大人の自分が、この青年に。
他人にしてみれば笑い事のような『恋』を。
まだその本心に気づいていない青年は、無邪気に、自分に仕返しをしようとしているらしい。喉を鳴らし、今こそ襲いかかろうとしている手の付けられない猛獣に、自らを生き餌に与えようとするようなものだ。
押しのけようと掴んだ腰の感触に、身構えていた獣は遂に後ろ足を蹴った。
「この…悪ガキ…!」
反動をつけて起きあがれば、軽い身体が後ろに飛ばされそうな勢いでひっくり返った。掴んだままの腰を引き寄せ、乗っていた身体に逆に乗り上げ、柔らかい上肢を抱き留めた。
理性もなく襲いかかろうとする獣を、源泉は背後に押しやろうと戦いながら、それでも意志は隠さず青年の胸元に顔を押し当てた。息を吸い込めば、アキラの肌の匂いを感じる。ただそれだけで顕著に反応する下肢も、もう隠そうとはしなかった。
「やりすぎだ、バカヤロウ。だから、ガキだっていってんだ。…気付けよ」
腕の中の身体が硬直した。
密着する腰が僅かに引かれ、押し当てられた下肢に驚いていることは瞭然だった。
「男、相手に」
「だから、言っただろ。理屈じゃねえんだよ」
抱き捕らえた腕は放さず、見上げたアキラの顔に驚きはあったが、不思議と嫌悪している様子はない。受け入れられなくとも、拒絶されなければわずかに心が救われるような気がした。
だが同時に、その腕を離すつもりは既に源泉にはなかった。
「お前に、触れたいんだ」
それ以来彼に、亡き息子や妻の面影を見い出すことは二度となかった。
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2005.03.08(了)
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