エリジウムの乙女 |
明け方の空気が随分と和らいできた。もう春なのだと脳裏に言葉を浮かべたものの、包まれる暖かな感触にもう一度眠りに落ちそうになる。
毛布の乾いた肌触りではなく、もっとしっとりとしたものに包まれている。
腕が胸の前を抱え、背は広く堅い胸と密着し、首筋には長い髪がかかっていて、毛布に隠れた下肢も、足が絡み、どれが自分の足なのか分からない。
自分が寝ぼけているのだと自覚しながら、この体勢は尋常じゃないと思い至り、背後の猫が誰なのかわかった瞬間、頭の方へと全身の血が逆流した。
耳から尾の先まで、身体中の毛が逆立つ。
二人とも全裸で、一つの寝台に、しかも手や脚が絡んだ状態では寝返り一つ打てないのに、コノエは酷く安定感をもって爆睡していたのだ。
昨晩、いつものようにライはコノエの毛づくろいを始めた。そうなると『あの』行為になだれ込まないようにと、コノエは正気を保つことに始終する羽目になる。
だが毛づくろいされるのが嫌いかというと、そうではない。
互いに毛づくろいすることは親愛を示す行為であるし、その暖かさも、触れ合うことで感じる優しさも離し難い。
うとうとと眠りに入りかけたところで、だがライはそれを許しはしなかった。
毛づくろいを理由に夜着も剥ぎ取られ、目的が愛撫に変わって、そのままもつれこんだ行為に結局コノエも溺れていった。
ライの掌は簡単にコノエから正気を奪う。
日頃すげない態度のライから、苦しいほどの思いを感じる瞬間でもありながら、コノエ自身の雄の性(さが)を否定されるような気持ちが抜けない。
「もう……こんなの、ばっかりだ」
思わず小さく漏れた愚痴を聞かれていやしないかと、コノエは恐る恐る肩越しに背後を窺った。
隻眼の闘牙は目を閉じ、屋根の下で眠る時は眼帯を外すようになった右目の傷をさらしたまま、小さく寝息を漏らしているようだ。
そのまま間近の顔に見入り、コノエはライの寝顔を観察し始めた。
彫りの深い目元と鼻筋や顎の輪郭は鋭利で、男らしい顔つきをしている。瞼の上に走る傷跡が野性的な印象を添える。子供の頃から顔つきのあまり変わっていないコノエにとって、彼の目鼻立ちは理想のものだった。
明るい色の睫毛は思ったよりも長い。きつい印象のある目は、今は閉じて瞳の色が見えないからか、幾分やわらかな表情に見える。そんな目元を見れば美女とも見紛う、整った顔だ。
そういえば、こうしてコノエが先に目覚めるのも珍しい。いつもであればコノエの遥か先にライが起床する日のが多かった。
いつも前髪に隠れた額は、髪が乱れて剥き出しになっている。髪を直そうと指を伸ばしたところで、ふいにライが目を開いた。
途端に射すくめる視線がコノエを捉える。
指を途中で止めた姿勢のまま、唾液を音を立てて飲み込んだ。
「いつ、起きて」
「お前の独り言で」
ライは寝起きの気配すら感じさせない明瞭な声で告げ、至近距離からコノエを見据えていた。
肩越しに覗き込んでいた顔を慌てて元に戻すが、血が上る首筋に感じる吐息に、身体は強張る。
「お前」
コノエが逃げるのを見越してか、ライは抱き締める腕の力を強めて、静かに口を開いた。
「なぜそんなに触れられることを嫌がる」
突然問われた言葉にコノエはライを振り返った。
以前からそんなことを問うライに、コノエは度々否定してきたのだが。
「そんなこと、ない」
「では、オレに触れられるのは嬉しいという意味か?」
ライは至って真面目な顔つきである。
「だから……!」
「からかってる訳じゃない」
ではなんだというのか。
熱い頬をごまかそうと、牙を剥いて低く唸ってみせると、ライは少しだけ表情を緩ませて、鼻を鳴らした。
「散々恥らって、今度はそれを隠すために怒り出す。子供だな」
図星を突かれた。
一層頬が熱く火照り、頭の血が沸騰する。
絡み付く腕を跳ね除け、近くにあった服を掴むと、追いすがろうと腰へ伸ばされたライの手の中で暴れた。彼の胴へ足を伸ばして蹴り退け、裸のまま部屋の外に飛び出した。
「おい!」
ライの叫びの語尾は閉った扉の向こうでくぐもり、コノエは足を止めずに階段を駆け下りた。
途中で慌ててズボンを履き、階段の下で上着を着る。
手荒に閉められた扉と、慌しく駆け下りる階段の音に気付いたバルドが、受付から驚いた顔で覗いていた。
「なんだ、またケンカか?」
知られた恥ずかしさよりも、怒りが勝っていた。
コノエの不機嫌な視線で睨み返されたバルドは「怖い、怖い」と呟きながら奥へ引っ込む。
そしてすぐ後に、
「朝飯食うか?」
バルドの声だけが奥から聞こえた。
「……うん」
宿の主の寛大な反応にしおれて、耳と一緒に項垂れる。
バルドは、今度は受付口の隣の扉から姿を見せ、仕方ないものを見る目で苦笑した。
「ケンカもいいが、物を壊すなよ」
「わかってる。ごめん」
「それと、そういう格好で公衆の面前に出ると、変なのにかどわかされっぞ」
慌てて履いたズボンは下がり気味で、足は裸足だ。着かけの上着は開けっ放しの胸が全開だった。
先程とは違う恥ずかしさで俯いたまま、上着の紐を結んで、ズボンをきっちり上げて整えた。
「まあ……仲のいい証拠だろうが、飯食ってる間に頭冷えたら、後で仲直りしろよな」
バルドの声は至って真面目で、長い間仲たがいしたままのライとの関係を気にしているのだと知れる。それでも最近は少ないながら言葉も交わすし、バルドの作った食事も、少しは手をつけるようになったのだが。
「うん」
バルドの台詞を借りるなら、多分親密すぎて発生する問題なのだ。だがバルドの言葉はこうやって素直に聞く気になることを、コノエ自身が気付いていない。
裸足のまま食堂のテーブルにつき、朝食を待つ間、コノエはテーブルに飾られた鉢植えの葉を見つめて考え始めた。
どうすればあの不毛な諍いがなくなるのか。
暫く経って、バルドが食事の器を運んで来ても、コノエは微動だにしない姿勢で固まっていた。
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稀代の魔術師がこの世から去って、赤い月が沈んだあの日から、早くも四度月が回った。
藍閃の街は短い間にもずいぶんと復興し、ほぼ元の通りの状態に戻っている。各地の森から『虚ろ』が消えた為か、外から移住してくる民も多かった。
賑わう街の様子とは裏腹に、それぞれ抱えるものを持ったコノエとライは、決して気楽な明るい生活という訳にはいかない。
それでもライの賛牙として、彼と共に賞金稼ぎを生業とすることを心に決め、コノエはコノエなりに生き方を模索しており、ようやく落ち着いたというところだろうか。
毎日のように見ていた悪夢が日を置くようになり、肩や首の毛先に残る緊張も次第に解けた。やっと普通の猫のように生活できると信じ始めていた。
ライが以前からやっていたように、各地の情報屋から賞金首の活動域や噂を聞き出し、行動範囲のあたりをつけて張り込み、時には動き回る。不安定な上、何の確証のない毎日だというのに、コノエは火楼の村にいた頃よりも充実した毎日を送っていた。
父から受け継いだ『声』と『歌』は、そうした生活の武器になり、支えでもあった。
あくまでも歌はコノエ自身が自分の声で歌うものだが、本格的に賛牙の場数を踏み、生活の中に歌が根付いてくると、それが剣のような便利な道具とは違い、様々な影響を引き起こすということがわかった。
見たこともない武器を扱う巨漢の賞金首を目の前にしても、コノエの心は平静だった。
幾匹もの猫を惨殺しているという残忍な賞金首の前でも、コノエの心に浮かんだのは、むなしい猫への悲しみと哀れみで、恐怖に我を見失うことはなかった。
また、リークスの記憶に悩まされ、悪夢に飛び起きた夜、口をついて出るのはその悪しき記憶をなだめるような、優しい歌だった。
いつ容量を超えてはじけ飛ぶかもわからない『器』の運命を、己の内から湧き出る、父から継いだ声と歌が守り、支えようとしている。
食事を終えたコノエは、そのままライのいる部屋に戻るのは業腹で、宿の屋根に上り、朝の空気を吸いながら、仕事場に出かけて行く通りの猫たちを眺めていた。
抱えた膝に顎を置き、思わず開いた口からこぼれたのは、やはり歌だ。
自分は今幸せで、ただライとあんな諍いが起こってしまう理由はわからなくて。
それでも彼の手を嫌っているわけじゃない。
ただ、どうしていいのか分からなくなる。
それが不安なのだ。そして不安でも、不幸ではない。
無防備に開かれてしまう本心の歌を、他人に聞かれたくなくて声を更に小さくする。膝を抱える力を強めて、屋根のスレートの上で一層うずくまる。
繰り返し頭に浮かぶ澱を吐き出すように、歌い終えて目を開けた。
快晴の空が視界いっぱいに広がっている。
遠く低い位置に浮かぶ二つの雲が、のんびりと移動していく姿は、穏やかだ。
暖かな陽射しは街中の木々の新芽を芽吹かせ、空気まで華やいで見えた。
ふと、屋根が振動した。
膝に顎を乗せたまま、視線だけを音の方へ動かすと、なだらかな傾斜のスレートに見慣れたブーツがあった。いつもの倍の時間をかけて、そのブーツはコノエに近寄る。ブーツの主は、腹に蹴りを入れ、盛大に扉を閉めて出ていったコノエに対して、怒っている顔ではない。
密着するほどではない隣まで歩み寄ったライは、静かにコノエの左側に腰を下ろした。
見晴らしのいい屋根の上からの景色を一通り眺め、それから小さく吐息をついた。
「歌が聞こえた」
極々小さな声だったはずなのに、何故聞こえたのだろうか。
「お前の歌は、かなり離れていてもオレには聞こえる。無意識なのか」
コノエは驚きを隠せず目を見開き、それから首を縦に振った。
「不安か?」
突然見透かされたような問いに、コノエは暫く考えた後、小さく頷いた。
「オレにどうして欲しいんだ?」
それは聞いてほしくなかった。
解決方法はコノエが一番知りたいからだ。
「ライは……」
つい口をついた問いがなんなのか、コノエは言い出しながら迷った。
コノエの問いの続きを待つライは、至って真剣な表情だ。
だが、こんな風に聞いたところで、ライは取り合ってくれるだろうか。
「ライは不安になったりしないのか?」
「―――お前がそうやって沈んでいると、不安になる」
「なんで?」
まっすぐに見つめるコノエの視線から、ライは一つだけの眼を外す。
「オレが近くにいると気が滅入るのか、と」
「そんなこと、あるわけないだろ」
膝に顎を乗せた姿勢に戻り、ライの返事を否定する。
「あんたの近くが、一番安心する」
「だが触れるのは嫌なんだろう」
コノエは激しく首を振った。
だが互いの顔を見てしまっては、今のように素直に返答できない気がして、彼を見るのが恐ろしい。
「あんたが触ると、オレがオレじゃなくなっちゃいそうなんだ」
そう言葉にして、コノエはやっと自分の気持ちを理解できた気がした。
ライの近くは安心する。猫の本性を忘れる。
ライに触れられると心地よくて、愛撫は次第に動悸を乱して、頭の芯を熱く沸騰させ、正気を失わせる。
ただでさえ、自分以外のものを抱えて、コノエは普通ではなくなっているのだ。あの悪魔たちでさえ、食べる気がしなくなると言い出すほど、不純なものに変化しているはずだった。
「おかしくなったオレでも、あんたは平気なのか?」
「お前はおかしくなんてない」
「おかしいよ。きっとあんたは嫌になる」
「コノエ」
「絶対嫌になる」
自分がこれほど理解出来ていなかったのだから、ライに分かるはずもない。
そんな風に名前を呼ばれるだけで、こんなに心臓が騒ぐ。
この猫にだけは絶対、嫌われたくない。
「オレのこれと同じだ」
突然苦笑と共に呟かれた言葉に、コノエは視線を上げた。
隣に座るライは顔をこちらに向け、右目を覆う黒い眼帯を手で覆い隠す。
「これは、オレにとっては下着と同意だ」
「下、着?」
「だからこの下はオレの弱点……いや急所だな」
自分で吐いた言葉に笑い声を漏らして、ライは二三度撫でた眼帯を外した。
眠る時に外すことはあったが、屋外では初めてのことだったに違いない。以前は、外した姿を見たこともなかったのである。
見慣れつつあるライの右顔。
端正なつくりの瞼を無残に走る傷跡が、頬の上まで走っている。引き攣れた傷口が当時の傷の深さを思わせ、痛々しい。
「醜い傷だろう。そしてオレにとっては、己の醜さの象徴でもあるな」
皮肉で寂しげな笑顔で見下ろされ、コノエは激しく頭を振った。
「醜くなんてない」
「血の誘惑に惑わされ、あの悪魔にくれてやることになった目だ。取り返しもつかん」
コノエはもう一度自嘲するライを見上げて、きっぱりと否定した。
「違う」
衝動的に腕を伸ばして、ライの首の後ろへ回した。
強くはない力で引き寄せて、髪の間をかきわけた唇で、ライの右の頬に触れる。
静かに唇をずらして、慎重に傷の上に這わせ、奥の傷を癒すように舐めた。
「あんたはそれに打ち勝っただろ。どこも、醜くなんてないよ」
真剣な顔で見上げるライの顔が、ふっと皮肉さを消す。
「その言葉を、そのままお前に返す」
ライの指先がコノエの唇に触れる。中指の腹でじっくり時間をかけて、輪郭を辿り、そこをじっと見つめて来た。
「お前のどこも、おかしくなんてない」
いつものと変わらない無表情でありながら、薄い水色の瞳は酷く優しく、コノエの覆うもの全てを見透かしているようだった。
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生い茂る緑は、春の穏やかさというよりは、凶暴な様相だった。
かろうじて切り開いた道は、二人が並んで歩けるほどの幅を保っていたが、道端の下草や低い木々からは、鮮やかな緑の新芽が道行く猫を引き止めるようにせり出している。
すねや腰を撫でていく枝からは、青い森の匂いがした。
コノエはいつものように、少し前で揺れる太く白い尾に目を据えたまま、ただ黙々と足を運んでいた。昼前にライが新たな情報を仕入れて来たため、かねてより目をつけていた賞金首を追う目算がついたのである。
この数ヶ月で慣れた旅支度をして出かけ、藍閃から北側の森へ踏み込んだ。
ライとコノエが賞金目当てに追う賞金首たちには、二種類いる。
誰か個人の不利益を生んだ猫を捕らえるために、個人が賞金を賭ける場合。そして多くの猫たちに害を及ぼすような無法猫、街から手配された犯罪者だ。
今回コノエらが追う猫は後者、無差別に通りすがりの猫を何匹も殺した凶悪犯というわけである。
藍閃の長が自ら賞金を出して手配する犯罪者は、どれも凶悪な猫ばかりだった。
街を荒らして回り、このまま放置すれば藍閃のためにならないと烙印を押された猫たちは、街の外へ逃げ、最初の内は街近くの森に潜み、追手が迫るにつれて次第に遠くへ遠くへと、その足を伸ばしていくことになる。つまり、多くの追手に負われる大物ほど、藍閃から離れた場所に逃げ隠れていることが多い。
情報屋から仕入れた話では、標的の猫は『人形遣い』のあだ名を持っているという。
犯罪を犯したといっても、あだ名がつくほど注目される猫はそういない。
「『人形遣い』って、どういう意味だろう」
コノエはライの尾を見つめながら、ふと思いついた疑問を口にした。
「さあな。そいつに遭遇した猫はどいつも死んでる。聞き出しようがない。……いずれにしても」
ライは正面を見据えたままで、ただその背に嘲笑の気配があった。
「『人形遣い』とは、ずいぶん陳腐なあだ名だ」
「でも名前がついたくらいなら、普通の猫とは違うってことなんだろ?」
「そうだな」
『人形遣い』がつがいであるという話は、大体どこの情報屋でも掴んでいるようだ。ただその名の謂れが分からない。彼らに遭遇した追手は、どれも返り討ちにあい、全滅しているのである。
特殊な武器でも使うのか、それとも変わった歌でも操るのだろうか。
「もしかして、歌……で?」
「たぶんそうだろう」
ライは一瞬肩越しにコノエを振り返り、少し広がっていた二人の距離を縮めた。
「歌で猫を操ることをは可能か?」
歩みの速度は落とさずにライを追いかけながら、コノエも首をかしげた。
「どうなんだろう。リークスが操ったのは、死んだ猫の亡霊たちだったし……」
「死んだ猫を操れるなら、生きた猫でも、ということか。リークスでなくても、一匹に幻覚を見せることくらいはできるんじゃないか?」
「うん。きっと、できると思う」
リークスがしたように、複数の遺体を操るような真似はできずとも、生きた猫一匹を錯乱させることができれば、十分に脅威である。
そして、もし敵に惑わされたり、操られてしまうのが賛牙、つまりコノエだとしたら、ライが一匹で対抗するのは難しいだろう。闘牙であるライが封じられたとしてもまた、つがいは意味を成さなくなる。
「不安そうな顔をしているな」
思案に浸っている間に、ライはコノエの横に並んでいた。覗き込まれて俯けていた顔を上げると、思わぬ柔らかな表情のライが、見下ろして来た。
「あんたは、不安になったりしないのか?」
「お前、その質問は今日二度目だ」
そういって苦々しい笑いを洩らした。
笑ったライの顔などそうそう見る事はない。
思わず見入って、開きっ放しになっていた唇を指差された。
「オレは、お前がいれば負ける気がしない」
慌てて口を閉じ、焦るコノエにやりと笑いかけ、ライはまた一歩前を歩く。
心地よい距離感だと改めて確認し、それだけで不思議と不安が潮の引くように薄れていくのを、コノエは感じ取っていた。
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賞金首の足取りを追って森に踏み込んでから三日目の夕刻、『虚ろ』が存在した時分からよく使われていた裏道を進んでいたコノエたちは、脇の草むらへと入りこんで行く二匹分の足跡を発見した。
草むらは奥へ行くほど深く、歩くのに難儀するだろうほどなのに、慌てて掻き分けた下草の様子まで、明瞭に残っている。
「もしかすると、感づかれたかもしれんな」
「オレたちが追ってるってことを?」
「ああ」
太陽は既に傾き始めて、深い森の中では余計に暮れるのが早い。木々の影が長く伸び、あらゆるものを遮り、幾ら猫の視力をもってしても半時もすれば陰の月か、星明かりを頼りに進むしかなくなる。
藍閃の周囲などの慣れた森ならともかく、遠く離れたこの場所に夜間迷い込むのは無謀だった。
普通の猫ならこんな場所には入り込まない。しかも下草を踏んだ跡は新しく、程なく日も暮れる時間にあえて入りこむのは如何にも怪しい。
足跡の先は間違いなく標的の賞金首だろう。
「仕方ない、今日はこの辺りで野宿だな」
無言で頷いて、身を横たえられるような場所を探しながら、足跡を追う。
裏道が望める程度に少し進んだ場所に、若干木々の間隔が拓けた草地を見つけた。
背負った小さな荷を下ろして、踏み分けた草の上に座り、革の水筒に入れた水を少し飲んだ。
いつものようにマントで身体を包んでしゃがみ込み、そのままいつでも眠れる体勢になる。
多くの場合は先にコノエが休み、夜半に一度不寝番をライと交替する。眠るには早い時間だったが、うずくまるのはコノエの癖になりつつあった。
コノエの隣に腰を下ろしたライは、自分のマントを脱ぎ、それをコノエの肩に掛けた。
無言で遠慮の意味をこめた視線で見上げるが、ライも黙って横に首を振る。
―――心地よい無音の会話。
マントから香るライの匂いに、コノエは肩の力を抜いて、ごくごく小さな声で礼の言葉を口にした。
どのくらいの間眠っていたのか、コノエは寝入った時と同じ姿勢のまま目を覚ました。
だが周囲の森はすっかり暗くなり、遠くにふくろうの鳴く声などが聞こえている。
隣にいるつがいの気配を探ると、恐らく前を見据えたままじっとしているのだろう、ライの息遣いを感じることも出来た。
いつもであれば、目を覚ましたコノエが声を掛けるか、それともライに起こされるか……それから不寝番を交替するという訳である。
膝の上に伏せていた顔を上げ、ライの方へそれを向けた。
ライはすぐに気付いてこちらを向き、一瞬で表情を変えた。
「どうした?」
コノエは首をかしげた。
ライの問いの意味が分からなかったのである。
「どうも、しないよ」
答えた自分の声が奇妙なほどゆっくり、どこか甘えた響きに聞こえた。
それが酷くおかしいことのように思えて、コノエは唇に笑みを刻んだ。ライが少なからず驚いているのも楽しい事のように思えた。
この楽しさは歌い出したくなるような、そんな楽しさだ。事実身体の奥からは、何かの歌が湧き上がってくる。
一人で楽しむものでもない。これは傍らにいるつがいのライと、共有すべきものに違いない。
見上げた端正な顔は、暗がりの中でもよく見える。
つんと持ち上がった上唇の中央に、目を据えた。
「ライ……」
ライは明らかに隻眼を見開き、地面に手をついてにじり寄るコノエを見下ろしている。
表情は変わらずとも分かる。彼は驚き、躊躇している。
顔を傾けて、逃げる暇も与えずライの唇に吸い付いた。
思いのほか柔らかい、薄い唇だった。
舌で口角や縁を辿り、唇の間からそっと歯に触れる。コノエの舌が動く度に、ライはそれを真似る動きでコノエを探っていった。
「欲しい」
触れ合わせた唇の隙間に呟く。
濡れた唇を軽く擦り合わせるだけで、背筋に心地よい旋律が生まれる。
雄の本性とは矛盾する、所有されたい欲求が襲う。いつしか掴まれた両肩の、力強い膂力に眩暈を誘われる。
それが、隠しようもないコノエの本心なのだろうか。
疑問はあるのに、何故か今それが行動と伴わない。
見上げるライの隻眼の奥に、普段の鋭さや冷静さとは異なる炎を見た。
薄水色の瞳は濡れ、凶暴な光を放っている。
「ライ」
「どうした……? 操られて、いるのか」
熱っぽい吐息に乱れていながら、ライの言葉は酷く冷静に聞こえた。
―――『操られる』?
そういえば、追っていた賞金首のつがいは『人形遣い』と呼ばれて、猫を操る術を持っていたのではなかったか。
だがそう思い至っても、コノエは首を激しく横に振った。
無意識に流れ落ちた涙が周囲に散り、何度も首を振るたびに踏みしめた草や、ライのコートにパラパラと落ちる。
何が起きていて、自分があからさまに欲情を示すのかは分からない。
でもこの気持ちは何ひとつ嘘じゃない。
ずっとその言葉を口に出来なかっただけだ。それが恥ずかしい、みっともないと思っていただけだ。
再び見上げたコノエに、ライは突然眼を細め、静かな視線を注いだ。
非難など欠片も感じない、ただ、ただ静かな眼だ。
「オレが欲しいのか」
否定するのも無意味なほど、今も吐息と共に体内から響き出る歌声は、問いを肯定し、歓喜していた。
背で握り締めていた腕をライに捕られる。逆らわず従い、目の前に引き出されたコノエの右手には、使い慣れた剣の柄が握られていた。
コノエはやっと自分がおかしいことに気付いた。
自分は『これ』でライに何をしようとしていたのか。
ライは怒りもせず、ただ見つめているというのに、コノエの歯の根は震え始めた。
「持っていけ。お前のものだ」
隻眼を見上げたまま、剣を握る手から力が抜ける。
地面に剣先が突き刺さるのも放置して、ライはコノエの両腕ごと強く抱き締める。瞬時に霧が晴れたように正常に戻った五感で、ライの腕の熱さと力強さを感じ取り、コノエは小さく喘ぐ。
そして、体内に湧き上がる歌が途切れ、同時に不協和音のように悪意に満ちた他の歌が、辺りを漂っていることに気付いた。
この歌が、コノエの奥深くに眠る欲望を増幅させ、理性を奪い、奇行に走らせている。
これが『人形遣い』の力なのか。
悪いものだと分かってなお、胸の奥をむりやり開いていくような力を感じる。
もう一度見上げたライも、眉間を寄せ、牙を剥き出して周囲を警戒していた。
「だいじょうぶか?」
横目で窺われ、コノエは逃げ出したくなるような恥ずかしさに、頬を熱くした。
ライの隻眼がどんな風に自分を見ているのか、知りたくない。
だが俯いているコノエの頭に、吐息と一緒に笑みを含んだ声が振った。
「お前の本心が見えたことは、オレにはそう悪い話じゃない」
ちらりと見上げたライは微笑んで、敵が潜んでいるだろう森に眼を据えたまま唇の端をわずかに上げた。
「後で幾らでもお前の望むようにしてやる」
「……! いらない!」
「素直になれ」
囁くように諭すライを睨み付けるが、いつものからかう笑いはなく、ただ自信と余裕に裏付けられた、穏やかな微笑を浮かべていた。
地面にあるコートを拾って肩に着け、己の剣の柄に手を掛ける雄猫は、再び暗い森の繁みに目を向けた。
「だが、お前の心に無断で踏み込んだ奴らだ。許しておけるか?」
ライの言葉にコノエは目を見開いた。
そうだ。相手はそうやって多くの猫を殺めており、賞金首である。
それ以上にコノエの心を無理矢理暴いたことは、屈辱だった。
「いやだ」
コノエは短く答えて、地面に突き刺さっていた己の剣を抜き、逆手に構えてライと同じように暗闇を見据えた。
心を踏みにじられる痛みを、無差別の他人を簡単に殺める彼らに分かれと言うのが無謀なのか。だが、僅かにでも良心があれば、他を愛する心を知っていれば、直前で踏み止まれるものではないのか。
コノエの奥から、新たな歌が湧き上がった。
旋律の波は、森の入り組んだ木々の間も容易にすり抜けて行く。
姿は見えない標的でも、この悪意に満ちた歌の源を捕らえるまで、そう時間はかからなかった。
「いる」
標的を絡め取ったコノエの歌は、相手の歌ごと押し包み、一瞬で深夜の森に満ちていった。
『お前の心には何がある』
問いかけるコノエの歌が、標的の心の奥に入り込む。
多くの猫を殺した賞金首が、両親を殺された幼い猫の身の上話に涙することもある。多くを危めた猫だからこそ、どこかに押し殺した後悔があるはずだった。
「きゃあああ!」
数十歩離れた繁みの中から悲鳴が上がった。
草を掻き分けて逃げ出そうと足掻いた猫は、その場に倒れ込み、頭を抱えてもがいている。
駆けつけたコノエたちの足元で、灰色の毛を短く切った賞金首の賛牙は、目を不自然に見開き、短い悲鳴を立て続けに上げていた。
よく見れば珍しい雌の猫だった。胸のふくらみが判別できないほど痩せた身体は、少女のようにも見える。
「何を聴かせたんだ?」
ライは周囲の様子と、倒れた賛牙へ交互に目を光らせながら訊ねた。
「この猫が手を掛けた猫全部の声を、思い出させた」
「オレには聞かせないでくれ」
苦笑したライは剣を抜き、僅かに気配を発していたらしい更に先の繁みへ走った。
近くの大木の幹の影に身を潜めていた賞金首の闘牙は、弾かれた勢いで逃げ出した。賛牙を倒され、単身でつがいに挑むのは無謀であると知っているからだ。闘牙の長い黒髪が、闇になびく。
コノエもライに続いて闘牙を追い、程なく足の速いライに追いつかれた闘牙は、振り上げた武器でライを迎え撃った。
長い柄に幅広の穂先がついた薙刀だ。しかも間合いが狭くとも、柄の長さを意識させない俊敏さも兼ね備え、ライにも引けを取らない腕前だった。
ライの背後から数歩下がって間合いを広げ、コノエは深呼吸してから歌い始めた。
父から受け継いだ慈愛の歌。
ライへの素直な気持ちを込めることができ、それが闘牙の戦闘力を高める結果にもなる。
先程、賛牙を絡め取った歌とは異なり、人を攻撃する類のものではない。あの攻撃性を秘めた己の声は、リークスに由来するものだと気付いてはいる。
だがあの歌も、あの歌声もまた、今はコノエの一部には違いないのだ。
ライは見慣れた背をコノエに預け、疑いもなく眼前の賞金首にだけ注意を注いでいる。
かつては巨悪と言われたリークスを、内面に隠し持ったコノエを、全て受け入れてくれる。
ライは揺れる白い尾を緊張に毛を立たせて、目が追えないほどの速度で二本の剣を切り返し、賞金首の強力な一撃をかわし、同時に攻めた。
コノエは逆手に構えていた剣を降ろし、全身で歌に集中する。
この雄猫を守る歌を。
己の身を盾とする代わりに、鋼鉄よりも強固な守りとなる歌を。
新たな旋律は、父の形見の歌に調和し、新しい和声となって響き渡った。
コノエの周囲には、マントや上着の裾をひるがえす風が生まれ、それがライを包んでいく様が見えた。
瞬間、賞金首の闘牙の刃先は動きが鈍り、ライの喉や胸を狙う度、まるで恐れをなしたように、闘牙の顔に怯えが広がった。ぎりぎり互角を保っていた剣の戦いは、あっという間に決着がついた。
賞金首の懐に潜り込むように身をかがめたライは、敵の刃先を器用に避けて、その胸に剣の半ばまでを押し込んでいた。
賞金首の闘牙の死を確認して、賛牙の倒れていた場所に戻ると、先程まで苦しんで倒れていたはずの雌の賛牙は、己のナイフで喉を突いて自害していた。小さく細い身体には不似合いな量の血液が、夜の草地を黒々と染めている。
コノエの歌に触発された良心に耐え切れず、命を断ったのか。それとも闘牙に見捨てられ、更にその闘牙自身も倒されたことに、絶望したのかもしれない。
こうした哀れな姿からは、あの心臓を裏返されるような歌が想像できなかった。
「どちらにしろ、倒すことが条件だった。お前が悔やむなよ」
僅かでも沈んだ表情を見られていたのか、ライは賛牙の躯に目をやったまま強い口調で言った。
「一緒に葬ってやろう」
賛牙の倒れていた場所近くに穴を掘り、その雌猫と、黒髪の闘牙を二匹を並べて葬ってやる。
こういった賞金首を倒した時は、彼らの身元を示すようなものがあれば、証拠として持ち帰った。証拠になるようなものが無ければ、耳や尾を削いでいくこともある。この二匹の場合は、彼らが殺めた猫から盗んだ財布などを所持していたので、それを証拠として持ち帰る事にした。
躯を埋めた土の上には、墓標がわりに大きめの石を置いた。
印があったところで、彼らの墓を訪ねる猫などいない。墓の存在も、彼らを討ち取った証になることがあるからだ。
むき出しの土に、不似合いな石の塊を見つめながら、コノエは思う。
これは自分たちの明日の姿かもしれない。
それでも、こうしてつがいの二匹が一緒に葬られるなら、寂しくない気もする。
「オレも、いつかあんたとこうして墓に入るのかな」
隣に立つライを見上げて、思わず呟いた。
唐突な発想を彼は笑うか怒るかと思われたが、一瞬目を見開き、ふっと自嘲の笑みを浮かべて見せた。
「いつか、な」
リビカに祈る言葉を口の中で唱え、コノエたちはその場を後に、藍閃への帰途についた。
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来た道を戻る作業は、いつも気楽な旅になる。
追いかける標的に返り討ちにあう心配も、必要がないからだ。
数日前に通った場所を逆に歩き、予定通りならば三日かからず藍閃に辿り着くはずだった。だが、帰途について二日目の午後、突然木々の隙間に見える空が、まるで夕刻のように真っ黒に曇り、そうこうしている内に、大粒の雨が降り始めた。
コノエもライも水が苦手ではないが、豪雨は土の地面を泡立たせ、道には小川のような水溜りが出来、足元がすべる。視界もままならない。
「雨宿りできる場所を探す」
マントのフードでなんとか雨を凌いでいたコノエに、ライは顔を近寄せて叫ぶように言った。
そうしなければ、雨と風の音で声さえ聞き取りにくいのだ。
裏道の脇の緩やかな傾斜を少し上った場所に、十歩ほどの高さの岩の崖が続いている。その辺りなら身を隠せるくぼみくらいはありそうだと、崖沿いに進んだ。風や雨が崖で遮られ、少しだけ歩くのも楽になる。
ぬかるみに足を捕られそうになると、すかさずライがコノエの腕を掴んだ。本来、片目しか利かないライの方が、視界が狭く難儀するはずなのに、ライはコノエの手を離そうとしなかった。
半時ほど進んで、崖が途切れようかという少し手前に、おあつらえ向きの洞穴を見つけた。
入り口は少し高くなっており、地面も乾いている。
覗き込んだ様子では獣が住み着いていた痕跡があり、もしかすると熊などの巣だったのかもしれない。屈んで進むのがやっとの狭さで、奥までは十歩もないが、雨を凌ぐには十分だった。
「獣が帰ってきたらどうしよう」
雨と風から逃れた途端、コノエはつい笑みを浮かべて呟いた。
ほっとして腰を下ろしたところで、家主が帰ってきたら笑い事ではない。
「大丈夫だ。今ここを巣にしているなら、これほど埃は積もっていないだろう」
確かに奥まった場所に積もる枯葉の上には、厚く砂埃がかぶっていた。獣の匂いも感じない。
「濡れた服を脱いで、身体を拭え」
コノエを先に入れて、ライは洞穴の入り口から手を伸ばして、いつも荷物に入れている金属製の皿に雨水をためている。
狭い入り口から見える外は、豪雨と呼ぶのに相応しい、横殴りの雨風になっていた。
身をかがめてコノエに続いたライは、水のたまった器に道しるべの葉を差した。蒼い光が周囲を照らし、薄暗い洞穴は少し広く感じられるようになる。
「早く拭え。風邪をひくぞ」
やっとマントを脱いだコノエを横目で眺めながら、灯りを地面に置き、ライも着衣を解いた。地面に突き立てた剣にマントを掛けて、上着も脱いで上半身を晒したところで、その様子を眺めていたコノエを振り返った。
「どうした」
何かに気付いたように片方の眉を上げて見せ、ライは腕の毛づくろいを始める。
太く長い、張りのある腕の上をすべる舌から、目が離せない。いつもはその舌が、コノエの腕や背を愛撫するように毛づくろいし、更に深いところを探って溺れさせていくのだ。
はたと、ライに見下ろされていることに気付いて、コノエは瞬時に頬に血が昇るのを自覚した。
淫らな想像を見透かされているようで、自分の服さえ脱げなくなった。
「何をしている」
肩をつかまれ、背けた顔を覗き込まれて、コノエは思わず挙げた両腕で熱い顔を隠した。
この雄猫は、恐らくコノエが望めばそのとおりに、コノエを略奪していくだろう。ただその一言がどうしても口にできないのだ。
あの『人形遣い』の歌に惑わされた時は、迷いもせずに言葉にしたのに、理性の最後の砦は、自分自身でも想像できないくらい強固だった。
顔を反らそうと抗うコノエから、ライは静かに力を抜いた。
強引にされなければ、コノエの腕からも次第に力が解ける。やっと降ろし掛けた腕ごと、今度は正面から抱きしめられた。
優しく、包み込む力で。
「ラ、イ」
「毛づくろいしてやる」
応じる前に、耳の根元から舐め上げられた。
毛並みに逆らって舌でほぐしてから、綺麗に整える。髪も、首筋も、慣れた仕草で整えられて、触れられた場所からゆっくりライの体温に包まれていくようだった。
濡れた衣服を緩められたのにも気付かないほど、静かに、しかし手慣れた様子で上着も肌着も奪われ、ライの上着と一緒に剣の柄に掛けられた。
こんな時、コノエが直視したくないのは、過剰に反応を示す己の身体と顔だ。
快楽に耽り、唾液を撒き散らして、自分でさえ直接見たことの無い排泄に使う場所を他人に晒す。そこを嬲られて、雌猫のような声で喘ぎ、それなのに雄であることを証明する性器を固く張り詰めさせて―――全てが急所であり、それらを晒す行為は、猫にはあるまじき野生を失った間抜けさで、醜い姿に違いなかった。
だが藍閃を発つ前、ライは言っていた。
彼にとっては、コノエがこうして下着の中を見られことと、あの眼帯の下は同種のものなのだと。
傷つき、二度と開かれることのないライの右眼は、決して醜くない。鋭い光を放ち、多くの猫を従えるだろう左眼と同じ力がある。
彼はあの傷によって発症した心の病を、自ら克服しようとしている。成果も上がっている。もう少し時間が経てば、ライ自身もそれに気付くに違いない。
そうして悩み苦しみから巣発って行こうとする姿は、コノエにとって美しいものだった。
ライにとって、コノエの身体も、それと同じように思っていてくれるなら。
世間的には醜い姿に違いなくても、ライの眼にはそこそこの姿に見えるのであれば。
思わず期待を込めた眼で、胸の毛づくろいをするライを見下ろす。
赤い舌で几帳面に毛を整え、戯れに乳首の上を撫でてから、上目遣いにコノエの顔を窺った。雨を拭うはずの舌が、意図的に唾液を含ませて、もう一度突起の先を辿る。
息を飲んで体全身を震わせたコノエを見やって、薄い水色の眼を細めた。
鋭い眼光が僅かに和らいで、慈しむ視線になる。眼帯に隠されているもう一方の眼も、きっと開いていれば同じように強く優しい光になったのだろうか。
「ライ」
コノエの呼びかけに対する答えの代わりに、唇が寄せられた。
下から掬い上げるように口付けられ、角度を変えながら深く合わせる。舌先で触れ合う。
「あんたを、見たい」
口内に囁けば、ライは驚いたように眉を上げた。
「見せて」
ともすれば、外の雨風の音に紛れてしまうような小さな声だったが、コノエが伸ばした手をライは避けなかった。
両手を挙げて静かに眼帯を外す。頬を滑り落ちるそれをライは自ら外し、荷物の方へ投げた。
縦に走る傷跡が、瞼を塞いでいる。
首筋を抱いて引き寄せ、静かに唇を寄せた。そっと上から触れれば、そこには暖かい眼球の名残りがある。左眼と同じように長い睫を辿り、頭ごと抱き寄せた。
耳と髪を丁寧に毛づくろいし、いたずらに耳の内側も舐めてくすぐる。こそばゆいのか、両耳が左右対称にぴくりと動く。
ライがコノエを愛撫するとき、コノエ自身が示す反応と変わらない。
何かを発見したような驚きと好奇心、いや探究心だろうか。新たなライの表情、反応に動揺し、同時に歓喜するコノエの気持ちは、ライが常に感じているものなのか。
ライの腕が腰に周り、尻を持ち上げるように抱き締めてくる。触れ合った下腹は、服の上からでも分かるほど、どちらも同じくらい熱く、反応していた。
コノエはライの胸から腹を、筋肉のくぼみを堪能するように静かに撫で下ろし、土の地面に膝をついてライの下衣のいましめを解いた。筋張った下腹部の繁みから、陰茎は半ば立ち上がり顔を覗かせている。
どうしたいのか、コノエの意図は明白だった。
初めて想いを交わし抱き合ったあの夜にも、コノエは衝動的にとった行動である。
この雄猫のすみずみまでも愛しみ、一層昂ぶらせて、冷静で端正なこの表情を崩してしまいたい。
繁みをかきわけるように指を添え、そこを口内に招き入れた。
肌よりも熱いのに、意外なほどさらりと乾いている。唾液を絡ませて限界まで含もうと思っても、唇にひっかかり、なかなかうまくいかない。唇で唾液に濡れた先端を撫でるように愛撫し、もう一度試みると、なんの抵抗もなく口内に滑りこみ、先端が喉の奥に触れた。むせそうになるのを堪えて、幾度も出し入れを繰り返すうちに、含んだ陰茎は顕著に大きく、固く成長する。
一瞬上目遣いに見上げれば、ライは薄く開いた唇から荒く乱れた吐息をつき、欲情に濡れて光る眼で、薄闇からコノエを見下ろしていた。
指先が音もなく動いて、コノエの前髪をかき上げる。
額を撫でるように触れ、そのまま後ろへ髪を撫で付けながら、軽く後頭部に掌を添えられた。前後に頭を動かし続けるコノエを促すように、時折その手が動いた。
ライが感じていることが嬉しくても、成長しきったその陰茎はあまりに大きい。次第に奥まで含めなくなり、先端を銜えることで精一杯になった。繁みに添えていた指をライにとられ、根元を愛撫するように示される。抵抗なく従ったコノエは、自分自身を慰める時と、ライが感じる場所にさして違いがないことに気付いた。
そうして、ライの吐息が少し乱れる度に、僅かに身じろぎする度に、コノエはまるで自分が愛撫されているような錯覚さえ受けた。
触れてもいない下肢は昂ぶり、前立てに締め付けられる。
もどかしさを覚えて身を捩ると、ライはコノエの髪をそっと掴んで引き、口淫を止めさせた。
「もう、いい」
手の甲で濡れた口元を拭うコノエを立たせ、今度はライがコノエの下衣を解き始めた。
「ライ……」
腰布を取り、引き下ろされた脚筒の布の下から取り出されたコノエの陰茎は、明らかに先端が湿って、ライへの口淫でコノエ自身が昂ぶっていたことを証明している。
だが恥らう間もなく、コノエのそこは屈んだライの唇に覆われた。
瞬間漏れた声は、掠れた喘ぎのようでもあり、本能的に発されるただの猫の鳴声にも聞こえた。
いつもは皮肉な言葉しか吐かない端正な唇が、己の欲望の証を覆っていく様子をまざまざと見せ付けられ、コノエは明らかに興奮している。
身体の芯から湧き上がる快感と一緒に、あの賞金首の賛牙に操られていた時にも感じた、歓喜の歌が脳裏に浮かんだ。あの時は、体内にくすぶるように燃え、音声にはならなかった歌だった。
じわりと肌から染み出てきた新たな歌に、闘牙であるライが気付かない理由はない。
一瞬愛撫を止め、上目遣いにコノエを窺うが、ふっと目を細めてからそのまま行為に戻った。
探られる、まだ知らない自分自身と、掘り出されたことのない深い快楽が、コノエの顎や唇を震わせ、微妙なビブラートとなって歌に吐き出された。舞い上がる髪の毛先がふるふると震え、産毛まで波立たせる。
目の奥が熱く火照り、まるで炎の中に身を置くような熱波に包まれる。
それより、陰茎を包むライの口腔が熱い。
乱れてせわしない吐息と、速度を上げる鼓動が、この行為のクライマックスを飾るパーカッションとなるのか。
歌は途切れ目なく口から、喉から溢れていくのに、体内を響く重々しいその音に一層酩酊する。
肩越しにつがいの隻眼を見つめ、腰を支える腕に曲がった尻尾を絡ませ、引く。
無言で見上げ続けるコノエに、ライは目を細め、唇を近寄せる。
ゆっくり唇を吸い取り、角度を変えて撫でるだけの優しい口付けの後、ライは動きを止めていた身体を大きく揺り動かした。身を切る痛みも僅かに、圧倒的な力で押し入ってくる。
衝撃に眼が見開かれ、目前の青い闇に浸る風景が焼き付いた。
口を大きく開けると、声の代わりに内から巨大な音が響いてくる。体内から喉まで逆流する音の圧迫感に喘ぎ、内臓全てを奪われそうな力で陰茎を引き抜かれて、今度は息を飲む。
一寸動かされる度に断末魔に似た歌声が溢れてくる。
行き場のない唾液が顎を伝って落ちた。
どこか隙間風が吹いているような、孤独感に苛まれてきた日々に、これほど満たされ、安堵する時があっただろうか。
指の先、足のつま先、閉じた瞼の隙間、息を吸い込んだ肺や心臓、全ての空間が歌に満たされている。
膨大な歓喜とは、息苦しいものなのだと酩酊する頭の端で考えながら、乱暴に体内に割り込み、押し上げるライの力に委ねて、コノエは切ないほど張り詰めた前を解き放った。
隙間に満ちていたものが、一斉に放出される。
ただ元の隙間に戻ったのではなく、そこにはライの気配が残っている。
喉から溢れたのは喘ぎでも言葉でもなく、やはり歌だった。溜息と共に漏れた歓喜の歌の締めくくりは、充足と安堵に震えるコノエの心そのものだった。
歌に求められるまま、ライはコノエの奥深くに埋めたまま果てた。
夢心地で肩越しに見るライの顔は、苦悩するように眉根を寄せ、睫と唇を震わせながらコノエの歌に聞き入っていた。
「お前……」
すぐに目を開いたライは、まだ荒い息の下で呟いた。
「お前の歌は十分、他の猫を操れるな」
苦笑に崩れたライの表情に、ようやく恥じらいを思い出したコノエは歌を止めて、土の上で身体を丸め、赤いだろう顔を必死で隠した。
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朝の気配は、洞穴の入り口から静かに忍び寄ってくる。
昨夜の雨は夜半過ぎに止んだようだが、湿気が上がった空気は霧になった。鳥さえまだ目覚めていない森は、朝靄が木々の隙間を滑っていく音さえ聞こえそうだ。
昨日のことを明瞭に覚えていながら、コノエは酷く冷静な気持ちで目を覚まし、目の前にあるつがいの顔を身じろぎもせず、じっと眺めていた。
ライは眼帯を昨夜から外したままで、片方の眼を塞ぐ傷跡を晒している。
彼のこれまでの人生の多くが、この傷跡に集約しているのも事実で、それをコノエの前では隠さずに見せてくれていることが、コノエの誇りでもあり、この猫を愛しいと思う瞬間でもあった。
それならば、ライが彼の眼帯と同じだと言ったコノエの下着の、その中の自分も、晒してしまっていいのではないかと、漸く割り切れた気がする。
「起きてるんだろ」
囁く音量で呟いた声に、ライが静かに目を開いた。
何度も同じ手には乗らない。そんな気持ちで軽く睨みつけたコノエへ、ライは吐息のような笑い声を漏らして、唇の端を吊り上げた。
「二度も同じ手には乗らないか」
コノエも笑い返して、額をライの胸に寄せた。
二人とも何も身に付けていない、完全な全裸だ。身体の下には広げたライのマント、上にはコノエのマントを分け合っているだけである。
昨日からの名残を色濃く残す、寝床の中で、暖かな胸に額を押し付けていても、コノエは恥じらいの余り、身の置き場がなくなるような気持ちにはならなかった。
「大した進歩だ」
ライの声が胸から直接振動となって伝わる。
返答の代わりに、胸元へ吐息を吹き掛けると、ライがほんの少し身じろぎする。
「この、馬鹿猫が。知恵をつけたな」
顔を上げれば、間近で見下ろしてくるライは悔しそうな、同時に意地の悪い笑みを浮かべていた。
「変わっちゃ、ダメなのかな」
目を細めて、機嫌は決して悪くないライの顔を見上げ、コノエは呟いた。
顎を捕らわれ、額に口付けられ、目を閉じる。
「変わらずにいるなど、無理な話だろう」
片方の肘をついて身を起こしたライは、思いがけず真面目な表情に戻っていた。
流れ落ちる純白の髪からは、慣れたライの匂いがした。
「お前はオレで変われ。オレの傍で、変わって、一緒に生きていけ」
完全に昇り始めた朝日が、ライの背後の入り口から差し込んでくる。
彼の言葉と相まって、それが何かの啓示のようにも思えた。
お互いに変化していけばいい。互いが一方を影響し、育て合って、得た変化を受け入れていけばいい。
その時には、コノエは二人で得たものを歌にしていこうと思った。
父があの猫に贈った歌のように、きっと自分の知らないどこか他の場所で、何かを生み出す歌になる。
まだ濃い朝靄が木々の根元をつつましく隠す。
強烈な光を発しはじめた朝日が霧と枝葉の隙間に、強く、放射状に差し込んでいく。
葉にともる露をガラスのように反射して、目を差すのもあと数十分か。
藍閃から一日離れたこの森と二匹の猫にも、同じように朝はやってきた。
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2007.01.10(了)
アイコ<http://www.natriumlamp.com/B1F/>
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※エリジウム=楽土、楽園 |