トリックマッチボックス
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自分が所属する会社の本社ビルとはいえ、普段基地と兵舎、もしくは任務で向かう市街を行き来するだけの兵士には、殆ど用事のない場所だ。
仰向く高さのコンクリートの壁を見上げ、ヘルメットと髪の隙間から流れ落ちる汗を指先で拭う。革のグローブは濡れた場所だけ色を変える。もう晩秋といっても差し障りのない月だというのに、冷えにくいコンクリートやアスファルトが発する熱気は、ミッドガル中を夏と遜色ない気温に保ち続けていた。
正面エントランスの三つ並んだ自動ドアのうち、端のひとつをくぐる。二重のガラスドアの間には、空気の流れが外と内の空間を断絶して、見えない壁を作っていた。
そしてビル内へ一歩足を踏み込んだ途端、シャツと制服を濡らす汗が瞬時に乾くような、ひんやりした冷房の空気に、クラウドは微かに肩を震わせた。
「寒っ」
行き交う男達は外の気温などおかまいなしに、きっちりとスーツを着込んでいる訳である。
過剰な冷気に満たされた、巨大なホールのシャンデリアは、まるでつららのように見えた。
受付嬢の元へ真っ直ぐに進んだクラウドは、敬礼して姿勢を正してから、手にした書類ケースから出した一枚の書類と、自分のIDカードを差し出した。
「おはようございます」
受付嬢は張り付いた笑みを崩さないまま、決められた角度に頭を垂れた。そして上げた視線は一瞬クラウドの制服に止まり、その後、顔とヘルメットから覗く金髪に釘付けになった。
神羅軍の公募は十四歳から行われているとはいえ、ウータイとの戦争が終結して以来、募集数は減る傾向にあり、しかもクラウドのように十代半ばで一等兵の認識票を着けている者は珍しい。現在十六歳になっているクラウドだったが、受付嬢からしてみれば、まだほんの子供の年齢だ。丁寧な化粧を施された、にこやかな美しい顔は、そんなクラウドへの好奇と嘲りに満ちていた。
そして差し出した書類に添付されたICチップをスキャンで読み取った受付嬢は、端末の画面に映し出された情報とクラウドの顔を幾度も見比べている。自分の目が間違っていないことを確認してから、受付嬢は書類とクラウドのID、そしてゲスト用のセキュリティカードを一枚差し出した。
「こちらのセキュリティカードをお使いになって、正面エレベーターで該当階までお進みください」
防犯上の理由からか、神羅ビルにおいてはより重要度・機密度の高い設備や要人の執務室になるほど、フロアが上がる。ゲストが渡されるセキュリティカードには、その中でも行き来できる階が厳しく決められている。
それでも今クラウドが手にしたカードは、殆どのフロアに出入りできる許可が与えられていることだろう。
目指す階はソルジャーフロアの更に上の階なのである。
ひんやりとした空気は変わらないが、エントランスホールほど過剰な寒さになっていない廊下は、階下の喧噪とはかけ離れた静かな空間だった。
中央通路の両脇には、観葉植物やソファが設えてあり、所々、地上を見下ろせる大きな窓からは、眩しいくらいの陽光でリノリウムの床を照らしている。
過去にも二、三度進んだ記憶のあるルートを辿り、クラウドは真っ直ぐ目的の部屋へ向かった。
どの部屋もぴっちりと扉が閉め切られて、余り人の気配も感じない。
だが静かな廊下を進むと、小会議室らしき部屋の中からは雑談するような声も聞こえてきた。
同じ意匠の扉を幾つか通りすぎて、目的の部屋の扉は一番奥の左側にあった。両開きの自動扉はノブがあるわけもない。緊急時用のへこみはあるが、無理矢理こじ開けたらどこからともなくセキュリティが飛んでくるに違いない。
思わず想像に笑みを浮かべたクラウドは、表情を正してからドアの横についたインターフォンを押した。
ほどなく、プツンと電気的な処理をされた接続音がインターフォンのスピーカーから流れた。室内の人間が応じた印でもあるのに、誰かと問う声は聞こえなかった。そもそもインターフォンと通路の上部に取り付けられた監視カメラで、こちらの姿は間違いなく見えているのである。
「第一師団第一大隊、クラウド・ストライフ一等兵です」
インターフォンへ向けて敬礼して見せたクラウドを、しばらく見つめているような間が開いた。
そしてスピーカーからふっと堪えきれないかった笑いが、溜息のように漏れる。聞き慣れた、押し殺したような笑い声と、続けて低い耳に心地よい声が応じた。
『入れ』
ほぼ同時に両側へ開いた扉を抜け、白い壁と床の短い通路を進む。
すぐにひらけた広い室内の中央には、窓を背に事務的な両袖机があり、そこにこちらを向いて、男は悠然と座っていた。
「ご指定の書類をお持ちしました。サー・セフィロス」
姿勢を正し、敬礼してみせたクラウドへ、セフィロスは明らかに笑みを浮かべて見せた。
「書類をもらおうか」
彼も事務処理でもしていたのか、いつも黒い革のグローブに包まれている大きな手は、今は素手だ。一歩進み出て、ケースごとその手に書類を渡し、再び一歩下がったクラウドは直立の姿勢に戻った。
「楽にしていい」
指示された通りに休めの姿勢になり、書類ケースを開けて中を確認する上官に注視する。
五枚程度の紙を束ねたそれを、軽く目を通す程度に読み終えてから、再びクラウドを見上げた。
「何か言いたそうだな」
「そんな書類、紙にしてオレが運ばなくても、共有サーバで管理すればいい」
「機密かもしれないぞ」
「表紙に機密なんて印はなかったし、ほんとに機密だったら一兵卒が単身で運ぶなんて、危ないことする訳ないじゃないか」
不服そうに呟いたクラウドを、明らかに面白がって見上げている。
「その一兵卒の方に用があった」
ケースに戻した書類を、幾枚かの書類がのった机の上へ放り出したセフィロスは、悪びれもせず肩肘をついた手に顎を乗せ、意地の悪い笑みに一層唇を歪めて見せた。
戦場にいなければ、まるで優雅にも見える端正な男の頬にかかるまっすぐな髪が、肩先から机に広がった書類に銀色の弧を描いていた。
「セフィロス。これって明らかに職権乱用だぞ」
「知っている」
「オレ、訓練さぼることになったんだからな」
「さぼりじゃない。上官のオレが命じたことだ」
「周りはそうは思わないかもしれないじゃないか」
ここ最近、セフィロスの様子がおかしいことには気付いていた。
何よりも任務が第一になってしまうのはいざ知らず、セフィロスがどこか感情表現に欠けた人物であるのは、ほんの少し彼を知っている者なら誰でも気付くことだった。クラウドが彼に出会った時も、一緒に過ごすようになってからも、それは変わらなかった。
クラウドだけでなく、近くにいる人間が驚きを隠せないほど、セフィロスが感情的になり、公私の境が明瞭でなくなったのは、ほんのここ数ヶ月のことだ。
二ヶ月ほど前にジュノンで起こったウータイ兵の残党によるテロ事件で、セフィロスが負傷して以降のことだった。傷は一週間ほどで完治していた。だがあれ以来、セフィロスは異常なほどクラウドを気遣い、傍近くに置き、何かと理由をつけて呼び寄せるのである。
「あんた、本当に大丈夫?」
決して機嫌の悪くない表情で書類に視線を落とし、内容を確認しながら卓上に据えた書類入れに分けていくセフィロスの顔を、クラウドは屈むように覗き込んだ。
手早く書類を片付け、机に片手をついて首をかしげたクラウドへ、セフィロスが視線だけを戻して口を開いた。
「職権乱用など、どこの誰でもしていることだろう」
「あんたらしくないって言ってんの」
少し苛ついた声になったクラウドは、机についた手を握り締めた。
「もう、帰る」
一応敬礼をしてから踵を返し、扉へと向かったクラウドは、突然音もなく近寄った男に腕を取られて飛び上がった。
「なんだよ!」
動きに気配を感じさせない、しかも素早い行動は彼らしくもあるが、扉に片腕を押さえつけられ、見下ろしてくるセフィロスの真剣な視線に、クラウドは柄にもなく全身を硬直させた。
「誰が帰っていいと許可した。書類ではなくお前に、用があると言っただろう」
長身に窓からの灯りを遮られ、少し薄暗い扉の前で視界は一層暗くなった。
仰向くほどの身長差に歯噛みする思いもあるが、この至近距離はどう考えても上官と部下の『職務』の距離ではない。
無意識に唾液を飲み込んだクラウドの喉元を見て、セフィロスの唇がふっと緩んだ。
──笑われた。
「お前と、少し話をするだけのつもりだったんだが」
当て所のないもう一方の手も捕らえられ、扉に押し付けるように、そのまま抱きすくめられた。
「気が変わった」
密着して漸く感じる薄い体臭が、頬に降り注ぐ髪から香る。
セフィロスの自宅のバスルームにある石鹸と、時折口にする紙巻と、戦闘服の革の匂いに、不思議とクラウドの脳裏に浮かんだのは、二人で潜り込む寝台の中だった。
いっそ無邪気にも見える表情は満面の笑みではなく、それでもセフィロスをよく知るクラウドにとって、かつてないほど機嫌のいい彼を無理矢理跳ね除け、拒むことはできなかった。
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往路と逆の方向へ通路を歩き、眩暈のする長い長いエレベーターを降り、クラウドが再びエントランスに戻った時、外は既に薄暗く、街灯が灯り始めている頃合だった。
受付嬢はクラウドの顔を覚えていたようで、セキュリティカードを返却し敬礼をした少年兵へ、サービス以上の満面の笑顔でご苦労様です、と声を掛けて来た。
無言で立ち去るクラウドは、頬が奇妙に歪みそうになるのを必死で堪えていた。自動ドアを抜け、むっとする外気の夜の町へ出たところで、噛み締めていた奥歯の力を解き、ひとつ溜息を吐いた。
吸い込んだ息に混じる、クラウドの髪に移った匂いは自分のものではない。
頬に血が上るのを周囲の通行人に気付かれないよう、俯き加減で足を進める。足を動かす度に、他人に身体の奥をまさぐられていた感覚が思い出されて、歩幅が狭くなった。
ソルジャーたちが何人も出入りする、限りなく機能的で事務的な執務室の机の上で、必要な場所だけ制服をはだけられ、クラウドはほんの三十分ほど前までセフィロスと繋がっていたのだ。
自宅の寝室ならともかくも、そんな公的な、誰が来ないとも限らない場所であることは、不思議と互いを興奮させた。長い指が制服の下を這う感触に、徐々に敏感になる肌を粟立たせ、乱れる息を堪えながら、壁の向こうの通路を通りすぎる人の気配に耳を側立たせる。
「ここはオレの仕事場だ。多少大声を上げたところで、外には聞こえない」
まるで密談の内容を知られる心配はないというように、仕事口調で告げた唇で、セフィロスは捲り上げた胸の先を覆った。
簡単に身体を裏返され、指先が強引に狭間を開き、幾分急いた様子で挿入されそうになるのを痛いと拒めば、舌先が直接触れて、腿に滴るほど唾液に濡らされた。背後の様子はクラウドには見えなかったが、この行為だけはどうしても屈辱感が拭えない。同時に、あの秀麗と賞するに相応しい顔で、セフィロスがそこに唇を当てている姿は、想像だけでクラウドを昂ぶらせるのも事実だった。
燃える熱さの頬に、机の天板が冷たく感じた。
散々慣らされ、もう痛いと拒むこともできない場所に侵入する合図のように、セフィロスの髪が背に降りかかってくる感触に、クラウドは低く喘いだ。
そうして行為の間、指先で執拗に弄ばれた乳首が今もひりひりと痛みを伴って、制服の下に着けたシャツの布地に擦れる。
クラウドは必死に兵舎への道を歩きながら、再び唇を噛み締めた。
少なくとも、仕事と称してセフィロスの元へ遣わされた以上、小隊長へ任務完了の報告はしなければならない。
「あんな任務があってたまるか」
唸るように独り言をもらし、クラウドは軍靴の足でアスファルトを踏みつけた。
行為そのものが嫌いな訳ではない。
ただ、セフィロスのように奔放にはなれない。
あの事件以降、どうにもクラウドとの関係を隠そうとしないセフィロスに反して、クラウドは未だに関係をおおっぴらにする勇気は持ち得なかった。
仕事を追われるよりも、異端と批難されることよりも、誰かに引き離されることが怖かった。ソルジャーになる希望を断たれ、故郷に戻ることも出来ないクラウドにとって、セフィロスとの別れは全てを失うことと同意になりつつあった。そうして、極端に何かに依存する自分が恐ろしかった。
失ってしまった時にどうなるのか、想像することを脳が拒んだ。
巡回のバスに乗る気にもなれず、人通りの少ない兵舎への道は、慣れてしまえば歩いても一時間かからない程度の距離だ。気分が悪くなるような想像を避けて、より一層思い起こされる快楽の記憶を反芻しながら、クラウドは黙々と歩き続けた。
道程の半ばほど、周囲に一般の建物はなくなり、だだっ広い基地の演習場を囲う高いフェンスが長く続く。錆びついた赤い色の金網の上部には、鉄条網がこれ見よがしに絡み、所々には監視カメラなども設置されている。
人気はないものの、他人の目が全くない場所ではないのに、思い起こすだけで反応しそうになる己の若い身体を叱りつけた。
「もう、何なんだよ」
吐き出した声は己を嗜めるものであり、同時に知らなかった自分を見せつける男への怒りでもあった。
クラウドは制服のポケットを探って携帯電話を取り出し、コールした。
普段であれば相当な用事がなければ掛けることは殆どない。しかも相手が出たことを瞬間、突然クラウドは話し始めた。
「クラウドだけど」
インターフォンだけでなく携帯の受話口からでも、相手の笑う気配は伝わった。
「今度、今日みたいに呼び出したら、命令無視するからな」
『会議中だ』
いつも仕事中なら受けない。しかも電源を切っていなければ、相手が誰だか必ず表示されるのだ。本当に会議中なのであれば、セフィロスはわざと受話ボタンを押したことになる。
会議中に携帯を受けたセフィロスへ、周囲は聞き耳を立てていることだろう。
「仕事中なら出るなよ!」
『部屋にいろ。今日は早く帰宅する』
明瞭な声で答えたセフィロスの言葉は、明らかに会議の相手への牽制、見せ付けだ。
「いかない!」
大声で怒鳴って受話を切ったクラウドは、端末を持ったまま荒くなった息を吐いた。
頬に血が上って、顔中が真っ赤になっていることがわかる。
「馬鹿みたいだ」
端末をポケットへ乱暴に突っ込み、それだけで飽き足らず近くのフェンスを蹴りつけた。
腹立たしく、八つ当たりしたい一方で、自分を囲い込もうとする男の存在に、口元が緩みそうになるのを自覚し、クラウドは速度を上げた足で荒々しく歩道を踏みしめた。
クラウドが蹴った衝撃で数十メートル先まで揺れている金網の向こうに、訓練中の兵士一人もいない演習場が広がっている。さらに遠く見える兵舎の明かりが、ぽつぽつと灯り始めている。
陽が落ちた途端、気温が急激に下がった。
夏の熱気が冷めないまま秋が終わり、クラウドにとって三度目のミッドガルの冬は、すぐそこまでやって来ていた。
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08.06.20(了)
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