時の囚俘(しゅうふ) |
先程まで耳朶をなぶっていた強い風が、巨大な獣の呻り声のような音を立てている。
まるでそれそのものが意志を持っているかのように、風と稲妻は人間たちの侵入を抑えていたが、突風の回廊を通り抜けた洞穴内部までは、その影響が及んでいない。
冷たく凍えた洞穴の壁は、透き通った魔晄色の結晶で薄く覆われ、殆ど崩れた天井の隙間から差し込んだ弱い陽光を弾いて眩しいほどだ。
天井の態を成していない、僅かに残る岩盤を支えているのは、この空間に落ち込んだ巨木の根だった。白く、化石化した太い幹から、八方へ広げた長い長い根が岩に絡みついて、天井と巨木を互いに支えながら、完全な崩落を止めている。
その根の一つにしゃがみこむように身体を縮こまらせ、膝を抱えた腕の中に顔を埋め、クラウドは大きく息をついた。
呼気に、喉が掠れた音を立てる。
北の果ての冷たい空気に、煙る息の軌跡を視線で追う。
凍てついて、きらきらと振り落ちそうな呼気の流れる先は、巨木の幹の真下。大事なものを抱え込むように、細い根が大きな結晶の塊を携えていた。
ライフストリームが結晶化して、ここまで巨大な塊になるには、核が必要になる。マテリアの場合はそれが古代種や精霊の意志、記憶だと言われている。
だがこれは、マテリアとは異なるものだ。
ライフストリームが『彼』を死した者として受け入れず、異物として排除しようとした証でもある。
クラウドは己の意志とは無関係に、身体を伸ばして立ちあがり、太い根の上に足を進めた。
一歩踏み出すごとに、石のように固く変化した樹皮が剥がれ落ちる。樹皮は遙か下の地面まで落ち、陶器の割れるような澄んだ音を立てて、更に細かく砕けた。
「クラウド! 駄目!」
洞穴の外で唸る風に混じって、幼なじみの何度目かの制止が響く。
微かに顎を上げたクラウドは、懺悔するような気持ちで、彼女の名前を口の中で呟いた。
「オレ、追っていたんじゃない。呼ばれていたんだ」
片手に握りしめた球体は、黒々とした表面から歓喜の声を発している。数千、数万年ぶりにその務めを果たせるからか、それとも主の登場に喜んでいるのか。
「セフィロス、オレ……来ました。黒マテリア、持って来ました」
導かれるように転び寄った幹の下で、クラウドは結晶の塊へ絡みつく根にすがりつき、引き剥がした。片手では飽きたらず、黒マテリアを足下に置いて、網目のように重なった根を両手で解した。
バリバリと幹の割れる乾いた音と共に、結晶の塊は根の隙間から滑り落ち、クラウドの真正面へ姿を現した。
「ああ」
透き通る緑の結晶の奥に、明瞭な人の形が窺える。
「やっと会えた」
両手でしがみついた固い結晶越しに、忘れもしない、端正な若い男の姿があった。
眠っているように穏やかな目元はごく自然に閉じて、全てを従わせる強烈な覇気を宿す両目は、今は見えない。
鍛えられた厚みのある胸と、割れた腹部の窪みから下肢の繁み、恐ろしい膂力を秘めた両腕まで、何一つ変わっていない。その理想的な身体に沿って、銀髪の束が流れている。
だが視線を下ろした先、彼の両足はそこにはなかった。
巨大な怪物に毟り取られたように、千切れた肉と腱、骨が剥き出しになっていた。
「セフィロス!」
彼の意識がないことに焦れて、固い結晶の表面を両手で叩く。だが予想を反して、剣をも弾くはずの結晶は、まるで柔らかな粘土のように、クラウドの両手を受け入れた。
凝視するセフィロスの頬で、長い睫毛が微かに痙攣しているのが見てとれた。
彼の力が、二人の間を阻む結晶を、何かに変化させている。
クラウドは足下から拾い上げた黒マテリアを、結晶の中に埋没させた。
水中で掴んだような感触の身体へ、霊気を発する球体を押し当て、そのまま伸ばした両腕で男を抱きしめる。
何が自分の望みであるかも意図しないまま、しかし触れた男の身体から微かに感じ取った体温が、クラウドの唇を戦慄かせた。
セフィロスを包む結晶を抱え込んでいた根が、生気を得たようにうねる。
張った根は弦を弾くような音を伴って引きちぎれ、支えを失った岩盤が崩れ始めると、破片の降り注ぐ下段に立つティファやバレット、ルーファウスたちが悲鳴を上げて走り去って行った。
クラウドは次第に不安定になる足場を踏みしめ、未だ目覚めることのない男を支えるように両腕に力を込めた。
周囲を包む結晶は遂に溶解し、まるで水が流れるように、岩盤の欠片と一緒に落下して行く。天井の破片は下段の床を砕き、同時に更に下方から吹き上がる地鳴りが、下段の地面に巨大な亀裂を走らせる。
地を割る亀裂は、大空洞の底を走るライフストリーム本流から放たれた強烈な光を漏れさせ、クラウドの頬を鮮やかな緑色に照らした。
光の目映さに目を細めたクラウドは、暗闇に沈んだ記憶の隅を、まるでスポットライトで照らされたように、一瞬脳裏に浮かんだ映像に息を飲んだ。
狂気を瞳に宿した男の背後には、巨大な炉の中央にぱっくりと口を開けた魔晄の淵が広がっていた。クラウドが引き留めるように伸ばした指の間で、男の影は見る間に小さくなり、眩しい緑の光の中へ消えていく。
胸の中心を焼く傷口と、頬を濡らす自身の血液が燃えるように熱い。
一瞬で全てを、そして自分自身をも失おうとしていた恐怖の記憶が、クラウドの唇を喘がせた。
ぐったりともたれかかる男の身体の重みが、今、クラウドを現実に繋ぎ止めている唯一の感覚だった。揺れる根の上に膝をつき、脇から腕を差し入れ、両足のないセフィロスの背を必死に掴む。
「オレを、呼んだのは、何故だ!」
広い肩口に顔を埋めて、震えて強ばる声でクラウドは問うた。
男への問いであると同時に、それは自分自身への問いでもあった。
今、腕の中で意識のない肉体は、五年前は故郷を焼き、母や村人を殺め、現在ではコピーを操りエアリスの命をも奪った男だ。例えクラウドが抗い難い細胞の呼び声に従っていた事実があっても、彼へ抱いていたはずの憎しみもまた、本当の感情だったはずだ。
だが男の重みを支える腕は、そうすることが己の使命であるかのように、力を帯びる。
「答えろ。セフィロス」
耳を塞ぎたくなるような轟音が響き、下方から差す光はより強烈になった。
下段の岩盤は今完全に崩れ去り、視界は魔晄の緑色に埋め尽くされた。
バリバリと雷にも似た音と共に、巨木の幹も根も千切れ、破片となって落下する。クラウドの足下も崩れて、すがる身体の隙間から、魔晄の光が筋になって暗い空へと上昇していった。
ふわりと浮き上がる落下感の中で、セフィロスの長い髪が水中で揺らめくように見える。透ける髪色を貫く光はどこか暖かくもあり、クラウドは安らかな気持ちで目を閉じていた。
先程見た記憶の通り、自分が本当にセフィロスを魔晄炉へ突き落とし、その命を奪ったのが事実であれば、これで彼の復讐は果たされるのだろうか。
「セフィロス」
耳元で鳴る風の音で、クラウドの声はかき消された。
二人の身体を受け止めたライフストリームは、水面に落ちるような激しい衝撃をクラウドに与えた。
肺と、耳洞の奥へ何かが入り込んで来る。
水のように圧力はないが、息苦しい印象は水中と大差ない。
溺れて藻掻く代わりに、抱きしめる腕に力を込める。
そのまま意識を失う瞬間、両脇に脱力していたはずの太い腕がクラウドの背へと回り、腰に巻き付いた。
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水滴が落ちる微かな音が岩に反響している。
頬を撫でる空気も、その微かな音も冷たい。ここが何処であったかと、ぼやけた頭の隅で考えるが、思考は霧散してひとつの答えも見いだせなかった。
意識を取り戻した途端、身体が動くかどうか確かめてしまうのは、戦う者の性だろうか。強ばる指先に力を込め、まず指が曲がるかどうかを確かめる。剣を握れるかどうかが、己の生死を分けるからだ。
右の指、手首、肘と順番に、それから肩の具合を確かめながら上肢を動かす。
身体の下はすぐに岩盤の固い感触があり、湿って、水の匂いがした。
岩の上に腕を這わせ、顔の前へと移動させる。渾身の力で目を開き、霞む、暗い視界にあるグローブのはまった自分の指先を捉えた。だが左腕の肘から先は、幾ら気合いを込めても微動だにしない。落下の衝撃で、腱を痛めたのだろうか。
───落下。
頭に浮かんだ言葉から、意識を失う寸前に何が起きたのか、クラウドはぼんやりと思い出し始めた。
仲間を裏切り、己の主へ黒マテリアを差し出したのだと、痛みと苦みを伴った出来事が蘇る。最後に名を呼んだ、幼なじみの悲痛な声が耳に残っている。
あの時、セフィロスを封じた巨大な結晶の塊は、それを抱えていた岩盤や古木と一緒に崩れ落ちた。
クラウドが記憶する限り、セフィロスは目を開けることはなかった。だが黒マテリアの力を得て、魔晄の豊富なこの地で、彼は復活を成し遂げるはずだ。それこそがニブル山の魔晄炉から落下して以来、セフィロスが五年もの間、沈黙を守っていた理由だからだ。
だが、なぜ一緒にライフストリームへ落下したはずのクラウドが、今こうして岩の上に横たわっているのだろうか。
黒マテリアを運んだクラウドはコピーとしての仕事を果たし、既に用済みのはずである。
クラウドの周囲にはセフィロスどころか、獣やモンスターの気配もない。
眼球だけを動かして周囲の様子を探ろうとするが、どこからか漏れる弱いライフストリームの光だけでは、ごく近くの岩の形を把握するのが精一杯だった。頭のすぐ近くには、上へ向かう切り立った岩壁があり、地面はただの冷たい岩である。その地面がどこまで続いているのかも、想像できない。
風一筋の音もない沈黙を破るように、クラウドは大きく溜息を吐き出した。
白く曇った吐息がゆっくりと冷気に溶けた。
「お前を拾ったのは」
突然近くから上がった低い声に、クラウドはまさに飛び上がって驚き、反射的に壁際へ身を起こした。
それ以上距離を開けることは無理だと知っていても、岩壁を背に、一瞬で噴き出した冷や汗が、自由になる右の掌を濡らす。
「一度、礼を言わねばならないと思ったからだ」
革のグローブの内側に滲む汗を握るように、右手に力をこめ、続けて呟く男の方を見上げた。
かろうじて人の影形が分かる程度の光量の中で、男の長い髪と刀が、鈍い銀色に浮かんで見える。そしてこちらを見据えた両目は、それ自体が発光しているように、鮮やかな緑色に輝いていた。
「セフィロス」
「この地上で誰よりもオレを裏切ったお前が、たった一人完成したコピーだったとは。宝条ならずとも驚く限りだろう」
両足を失っていたはずのセフィロスは、今、記憶通りの見惚れるような長い足で自ら岩の上に立ち、微かに首を傾げるようにしてクラウドの表情を覗き込んでいる。
ただ見下ろされるだけで、麻痺の魔法をくらったように、クラウドの頬までを強ばらせた。
ここまでの旅中、少なからず鍛えられ、クラウドは強くなった。ましてや仲間と共にいる限り、この地上で驚異となる生物はほぼ皆無と思っていた。
だが、今ただ一人の男を前に感じているのは、紛れもない恐怖だった。
彼を倒そうと勇んでいた気持ちが僅かにでもあったなどと、クラウド自身が信じられないほど、すべてを無力にするような畏怖だ。
硬直するクラウドを余所に、セフィロスはしばらく検分するように見つめ、突然、素足の足先を一歩進めた。
「あんたが……、あんたがオレたちを裏切ったんじゃないか!」
「お前、まだ全ての記憶を取り戻してはいないのか」
「なんのことだ」
絞り出すように答えた語尾が微かに震えた。後ろはないと知りつつ、壁に沿うように身体を起こし、クラウドは立ち上がった。
恐怖心の中に微かに見出した勇気は、一歩ずつ近寄るたびに明瞭になる男の姿に、消失してしまいそうだ。
「これまでお前に見せた、真実のことだ」
セフィロスがティファとクラウドへ見せたあの記憶は、恐らく『真実』なのだと、クラウドも理解している。
「あの騒がしい男の為に、記憶を封じているのか」
「……騒がしい、男?」
幻影の中に現れた、黒髪のソルジャーのことだろうか。
クラウドが思いを巡らせているうちに、手を伸ばせば触れられるほど近くに、セフィロスが立っていた。
傷ひとつない鍛え抜かれた全裸の男に、クラウドは嫌悪感の欠片も覚えず、むしろその姿から目が離せなくなった。
神になると言った彼は、クラウドが出会うずっと以前から他人とは明らかに異なる生物で、その存在は神性すら帯びていた。
彼に逆らう人間と地上の生物すべてが、神に反逆する弱きものだと、彼の目的を果たすためには滅びるべきだと言う彼の言葉が、間違いだと証明することは、クラウドには出来なかった。
だが例え、人間たちが自然の摂理で淘汰される虫けらだとしても、抗いたい。太刀打ちできないと分かりきった獅子が相手でも、必死になった小動物が噛みつくように。
嘆き、祈るだけで何もせずに滅びる事こそ、生物として失格だと本能が叫ぶのだ。
反射的に剣を探して、右手が動いた。
だが愛用の剣はもちろん、代わりになるような木切れも、石礫ひとつもない。
ナナキのような牙と爪が今こそほしいと、獣の姿の仲間へ一瞬思いを馳せると同時に、セフィロスの大きな手がクラウドへ伸びていた。
身体を沈み込ませて手を逃れ、地面についた右腕を軸に瞬時にセフィロスの背後へ回る。
せめてその刃の餌食になることは避けたい。
長い刀身が徒になる接近戦で、果たしてこの男に勝てるのだろうかと、絶望的な気持ちで二歩ほど飛び退く。
既にこちらへ向き直った男の口元には、余裕の笑みが浮かんでいた。
これ以上離れれば、刀に一撃で仕留められる。だが近寄り過ぎれば、筋力で劣るだろうクラウドは不利だ。
緊張でこめかみから流れ落ちる汗が、顎を伝うのが分かったが、拭う暇は与えられない。小さく、浅く呼吸を整え、セフィロスの動きを見切ろうと無意識に瞬きを堪えた。
「やはり」
言葉を切ったセフィロスは、どこかふっきれたような顔つきになり、左手に携えた刀を地面に突き立てた。
「お前はオレに与えられた贄だ。捨てるには惜しい」
失われた記憶の琴線に、聞き覚えのある語句が触れた。
言葉と視覚の断片がクラウドの脳裏を襲う。
ぞわぞわと虫が這い昇ってくるような、異様な感覚に背筋を震わせた。
「思い出せ。お前が何故、こうしてオレの元へ戻ってきたのか」
黒髪のソルジャーが横たわり、クラウドに何かを告げている。
魔晄の光と計器から漏れる灯りに照らされた顔は、今にもこと切れそうな青く、強ばった表情で自分を見上げている。
滂沱と流れる涙で濡れた顔を上げると、二人を見下ろすセフィロスが居た。
返り血に光る戦闘服の裾を翻し、狂気に満ちた目は暖かみなど欠片もない、冷酷で、残忍な視線だった。
そして彼の手に提げられた、体液を垂れ流すジェノバの首が、鈍く濁った目でクラウドを見つめていた。
『地上の全てが滅びる前に思い直したら、助けを請うがいい』
「幻影なんか、見せるな! やめろ!」
「幻影? オレは何もしていやしない」
「見たくない。……思い出したくない」
自由に動く片手で顔を覆い、頭を振ったが、映像は消え去る気配もない。
「そうやってお前は全てから逃げ続け、全てを失うつもりなのか」
「あんたに……あんたに何が分かる!」
怒りと憎悪で強ばる顔を勢いよく上げ、睨みつけた両目を、セフィロスの意外なほど静かな魔晄色の目が受け止めた。
一瞬で沸騰した血が静まるような視線は、確かにクラウドの記憶にあった。
狂気の欠片も感じられないそれが、動揺を誘う。
暗闇を手探りで進むような、限りなく頼りない気持ちにさせる。幼い子供に突然戻され、悪事を働いた罰を受けているような、心細さがわき上がる。
「思い出せば、全て納得できるって言うのか? エアリスを失ったのも、オレがあんたの言いなりなのも、あんたが支配者になろうとしてるのも、全部」
「さあな。だが、お前は忘れてはならないことも忘れた」
再び伸ばされた手を、今度は払いのけることは出来なかった。
右肩を掴んだ大きな掌が身体を引き寄せ、もう一方の手が完全に麻痺したクラウドの左腕を捕らえた。
掴まれた感触さえ鈍い左腕から、微かに痺れるような痛みが肘を伝う。
「思い出させてやろう」
吐息が掛かるほど間近で見下ろす顔は無表情のまま、肩を流れ落ちる鋼の髪が、クラウドの頬を微かに撫でた。
視線の位置にある広い胸から、見上げる顎や頬のラインも、秀でた額も酷く見慣れたもので、胸を締め付けられるような焦燥感に駆られた。
「幻影を見せることは容易いが、お前にとって真実が何であるかの方が、余程堪えるらしい」
腕と肩を両手で押され、岩壁に背が当たる。両腕に囲い込まれてしまえば、もう逃げ場はない。
無意識に取り返そうとした右腕は、微かな動きも許さない想像以上の力で捕らえられている。
「忘れた罰を受けろ」
穏やかだった声に、初めて怒りが宿った。
見上げる瞳の奥には小さな炎が揺らめき、首元へ近寄る唇にそのまま喰らい尽くされそうな恐怖に襲われる。
首筋に暖かい濡れた感触が当たり、思わずひきつれた音を立てて息を飲む。蠢いた気道を皮膚の上から尖った歯が辿り、そこに力が込められた。そのまま噛み切られてしまえば、すぐに意識を失い楽になれると、クラウドが想像を巡らせるのも束の間、耳元へ唇が動き、濡れた舌が脈の上を舐めあげた。
無意識に頬へ血が上がり、右の掌に力が籠もる。
肩を押さえつけられていなければ、全力で振り払いたくなる痛痒感に歯を食いしばった。
耐えるための呻きが唇の間から漏れ、それを聞き取ったセフィロスの口元から、ふと笑ったような吐息が吐き出された。
「今、お前は何を感じている。お前の無力さか、それとも快感か」
脈の上を幾度も舌と歯で辿られ、その軟体動物が這うような感触に一層奥歯に力を込める。
壁に縫い止められていた腕が解放されたと同時に、空いたセフィロスの右手がクラウドのニットをたくし上げ、裾から入り込んだ指先が素肌を撫でた。
セフィロスの意図を察したクラウドは、自由になる足で無体な男を蹴り除けようと、右膝を持ち上げた。渾身の力で振り上げたはずの足は、セフィロスの膝で阻まれ、僅かに身じろいだに終わる。
口惜しさに再び呻いたクラウドを、耳朶にゆるく噛みついているセフィロスが見下ろしている。その瞳の奥に嘲笑を見取って、クラウドは獣のようにうなり声を上げた。
「オレを……慰み者にするつもりか!」
口にした途端、セフィロスが全裸であることに初めて意識した。
殆ど露出度のない普段の戦闘服姿は、神羅の中にいなくとも知らぬものはいなかった。長いコートに隠されていても、黄金律の肉体は見惚れるような造形で、それは五年前と変わらない。
だが目の前にある目映い逞しさも、クラウドの男としての尊厳を奪い取るものだと考えれば、紛れもない凶器になり得た。
「酷いことを言う。これから真実と向き合うお前を、逆に慰めてやろうというのに」
クラウドは肩を押さえられていた手を振り払い、右の肘で男の喉元を狙った。片手で軽く受け流され、その腕を掴んで捻り上げようとした唯一の片手を、逆に捻り返された。
上げそうになった悲鳴を堪え、せめてもの視線で抗おうと睨み付けたクラウドを、セフィロスは残酷な笑みを浮かべて見下ろしていた。
「行儀の悪い子だ」
骨が折れるかと思えるほど捻られた右腕から、痛みと共に血が引いて感覚が失われる。
既に使い物にならない左腕に続き、右腕も麻痺すれば、抵抗する術はなくなる。
「腕を、はな、せっ」
クラウドの要求は予想外にすぐ受け入れられ、痺れる右腕がセフィロスの手からだらりと落ちた。
だが次の行動に移れるほど感覚が戻る前に、先刻から指一本も動かないクラウドの左腕が持ち上げられた。
鈴が鳴るような涼しい音と、風を切る音が耳元をかすめた。
岩の壁に、肩の位置で押さえ込まれた左の掌から、じわりと焼ける痛みがわき上がった。
白く、宝玉のように輝く正宗の薄刃が、クラウドの左の掌を貫き、岩の壁に縫い止めていた。
感覚自体が鈍くなっているとはいえ、刃の突き通った傷は強烈な痛みを与え、唇を堪えきれない叫びが割る。
右手で引き抜こうとした刀の柄は遙か遠く、クラウド自身に引き抜ける位置にはない。鋭い刃を直に掴めば右手の指が切断されることは明白で、指先側を峰に突き刺され、左手自体を犠牲にして引き抜くことは不可能だった。
黒い岩壁を流れ出た血が伝い、微かな灯りを受け、筋になって光っている。
「安心しろ。今は、殺しはしない」
痛みに喘ぐ顔を覗き込まれながら、再びクラウドのニットの裾を胸の上まで捲り上げ、続けて剣帯とベルトを外し、足下へ投げ捨てた。
ズボンのファスナーが下ろされると、痛みに勝る恥辱がクラウドを呻かせる。
それだけはいやだと弱々しく嘆く声が、音なく唇を動かした。
「つれないな」
独り言の音量の呟きに、反らしていた視線を戻すと、セフィロスは跪くように身体を屈めて、胸もとから中央に残る刀傷の痕に唇を下ろしていた。
強烈な痛みが走る左手を、無意識に庇いながらも、下肢を這うセフィロスの手を唯一の右手で必死に制止する。ろくな力も込められず、ただ縋り付いているだけの指先が、脂汗で滑る。
痛みと嫌悪と、理解しがたい奇妙な感覚に邪魔され、セフィロスの言葉の意味も行動も、それを跳ね除ける方法もまともに思考出来ない。
頭の隅で、全てを諦めてしまう誘惑と戦っていたその時、ズボンの前立てから潜り込んだセフィロスの指が直に触れ、クラウドは声を上げて全身を強ばらせた。
「いやだ!」
傷の上を執拗に撫でる舌が過去の痛みを思い出させるが、それ以上に、直接陰茎に与えられる刺激が未知の恐怖を与え、同時に全身の血を頬に昇らせた。
激しい嫌悪を感じているはずだと言い聞かせる理性と反対に、物理的に高められる場所は幾度も痙攣して、呼吸を速めた。
少し冷たく感じていたセフィロスの指先が、自身と同じ温度になるころには、すっかり乱れた息が震えを帯び、押し退けようとしていたはずの広い肩を強く掴んでいた。
「どうしてほしい?」
片膝を床について、見上げてくるセフィロスは優しくさえ見える微かな笑みを浮かべている。
彼が口にしたとおり、まるで慰められているような口調に、クラウドは混乱した。
何よりも彼の指先が、唇が生む感触の続きを、クラウドは知っている。
逆らいようのない力で支配し、だが独りよがりの愛撫ではなく、気付けばクラウドの逃げ場を奪い取り、底のない沼に沈んでいくような快楽を与える。
それが『クラウドの知っている』セフィロスの抱き方だった。
「お前は、いつも何がほしいのかを黙っている。卑怯だとは思わないか」
「離せ……」
「そうやって嘘をつく」
尖った顎が腹の中央を撫で下ろし、下腹部と股間の際に口づけられた。
より嫌悪を誘うはずの行為に、握られたままのクラウドはセフィロスの手の中で大きく蠢いた。
「まさしく、身体の方が正直だ」
笑う吐息が腹を掠め、そのまま伏せた唇がそこを包み込んだ。
肩を掴んでいた右手で滑らかな髪を掴み、引きはがそうと足掻いた。
痛いほどきつく吸い上げられ、舌先が敏感な窪みを掘るように動く。悲鳴を上げ、同時吐き出す息は甘い余韻に熱を帯びる。
唇を噛みしめ、髪を掴んでいた右手を離して、代わりに掌で口元を覆った。押さえ込んだ指の隙間から、堪えきれなかった喘ぎが溢れた。
「あ」
慣れた調子で根気よく続く愛撫は、的確にクラウドを高め、あっという間に崖の縁まで追いつめた。
人形のように整った唇を割り、出入りする自身を見下ろしながら、まさか彼の口内で達するわけにはいかないと、妙に冷静な思考が存在する一方、そこで解放することはクラウドにとって喜びであり、セフィロスの問うた本当の望みであると、本能が囁いた。
顕著に全身を震わせ、せめてもの小さな声で限界を訴えた。
全く動じることなく、大きな掌で背を撫で下ろして促され、暖かい舌の上へ荒い呼吸と一緒に解放したクラウドは、上肢を屈めて滑らかな髪に覆われた頭に縋り付いた。
頬を伝う滴が、顎の先から髪を掴む己の手の甲に落ちた。
「何を泣く。初めてでもあるまいし」
顔をうつむけ、軽く口を開いたセフィロスの唇から、白い液が流れ落ちるのを見て、クラウドは顔を背けた。掌に受けた体液は指を汚し、セフィロスはそれをクラウドの足の間へ差し込んできた。
固く閉じた場所を滑る指先で撫でられて、クラウドは息を飲んだ。
無意識に頭を振るが、男は容赦なく指を押し込む。滑りのせいか、クラウド自身が意外なほどすんなりと受け入れた場所が、セフィロスの指をきつく締めつけた。
満足そうな男の顔に覗き込まれ、未だ荒いままの息を堪えて、クラウドは唇を噛みしめた。
「ここに、オレを入れる。それも忘れたか?」
嘲笑う音声でセフィロスが問い、クラウドの体内に埋められた指が、掻くように動いた。
悲鳴に裂かれる、ひきつれた音が喉を通った。
「そんなこと、知るか!」
指先がからかうように動き続け、睨み付けるクラウドの視線を見下ろすセフィロスは満足そうに微笑んでいる。
沸騰する怒りを堪えきれず、悪意で吐き出した唾がセフィロスの頬に滴になって散った。
「変態野郎」
恨みを込めて詰った言葉にも、セフィロスは表情を変えなかった。
「お前もな、こうして痛めつけられるのが、前から好きだった」
指先が奥を乱暴に抉り、もう片方の手が左手の傷口を握りしめた。
上がった悲鳴は岩壁を反響して、クラウドの背にも響く。
その背が壁から離れ、壁に繋ぎ止められた左腕を抱え込むように、うつぶせに押しつけられた。
刺さったままの刃が傷口を裂く感触に呻く。右腕で必死に壁へすがって痛みに耐えるのも束の間、千切れる強さで掴まれた腰の中心へ焼けた鋼の塊が押しつけられ、更なる苦痛にクラウドは目を見開いた。
長い間、壁に縫い止められていた左手は、もう痛みもそれ以外の感覚も失っていた。
いつしか刀は抜かれ、無事な右手と一緒に、軽々と片手で拘束されている。
肘まで流れ落ちていた血は止まっている。セフィロスが魔法で治療したのだろうか。
クラウドは左の掌の痛みと引き替えに、今は背後から身体の中央を貫かれる苦痛を与えられていた。
先程セフィロスの口内へ吐き出した残滓を塗り込まれ、強引に犯された尻の間は、体内を引き裂くような音を伴って、悲鳴を上げ続けている。
譫言のように痛みを訴えても、両手を壁に押しつけられ、腿を掴む手も容赦はなく、クラウドは震える膝が崩れないように保つのが精一杯だった。
男としての矜持をうち砕き、尊厳を踏みにじる行為に怒りを覚える一方、体内から伝わるセフィロスの体温と、行為が与える痛みの奥に、肉体の快楽と、一体となる限りない喜びを感じている。
クラウドが失った記憶の中には、若さの象徴のような疲労感と、時には自らもてあますほどの情を感じながら、セフィロスの掌や広い胸の体温を独り占めしていた頃があったのだと、思い知らされていた。
喘ぐ唇から顎まで溢れる唾液を飲み込み、掘り返される記憶の断片を必死に繋ぎ合わせ、形を取りはじめたパズルが、突然強くなる腰の動きに、再び細かな破片に分解される。
セフィロスは、自分に何を思い出してほしいのだろうか。
当初からの疑問が脳裏に浮かぶが、痛みに代わってクラウドを席巻しはじめた渦に、疑問さえも霧散する。
「もう、いやだ」
「何がだ」
問い返され、クラウドは何が嫌なのかを思い出そうとした。
飛び石のような記憶がいやなのか。己の存在自体が既に億劫なのか。
それとも、このもどかしい、一方的な性交が嫌なのか。
時折、宥めるように触れられるだけのクラウドのものは、固く芯を持ち、セフィロスの動きに合わせて揺れている。膝まで下げられ、下肢を拘束するズボンに焦れながら、無理に足を開かせるように楔が押し込まれ、その衝撃はクラウドの喉元までせり上がってくる。臓腑を持ち上げられるような苦しさの中に、二人だけで分かち合えるはずの、恍乎(こうこ)する何かがあった。
次第に速度を上げるセフィロスの吐息が、肩口に触れる。
その顔が見えないことがもどかしい。
彼も感じているはずの快楽の兆しを感じたい。
瞳の奥に宿る炎を見たい。
「セ、フィロス」
肩越しに背後を振り返り、視線で訴える。
見下ろすセフィロスは無表情で動きを止めて、一旦身体を離し、捕らえたクラウドの両手首を引いて、冷たい床に押し倒した。
思いの外なめらかな岩の床が背に当たり、胸の上で止まるニットがずり上がる。
解放された両手の代わりに両足の足首が持ち上げられ、喪失感さえ感じていた身体の中心を、再び限界まで貫かれた。
忘れ掛けていた裂かれる痛みに顔をしかめ、唇を噛み、悲鳴を飲み込んだクラウドは、自分の膝を拘束するズボンを引き抜こうと、自由な片手を伸ばした。
うまく動かない手と、足に絡む衣服に焦れていると、セフィロスが小さく声を立てて笑った。
「いい子だ」
聞き慣れた呼びかけに一瞬息を止める。
無意識に、見上げる片方の目から涙が溢れた。
「子供扱い、するな」
力強いセフィロスの手が、ブーツを着けたままのクラウドの足からズボンと下着を引き抜いた。ようやく自由になった自身の足の間から、伸ばした右腕でセフィロスの身体を抱き寄せた。
密着した胸から伝わる体温に目を細め、その感覚が間違いでないことを確かめる。
故郷の星空を幼なじみと見上げた記憶と同じように、こうして男と肌を触れ合わせていた記憶も、クラウドの中に確かに存在していた。
歯抜けになったままの記憶に不安はあるものの、もうクラウドには疑う余地がない。
「オレ、あんたが好きだった」
表情の動かない、神の彫像のような美しい顔は、たった一粒小さな汗を額に浮かべているだけだ。
自分も彼に愛されていたのだろうかと、疑問を脳裏に描いた瞬間、セフィロスは止めていた動きを再開した。
これまでの乱暴な動きを改めるように、慎重にぎりぎりまで抜き出される。無意識に引き留めようとする入口で、男の形を明瞭に感じる。同じ男だからこそ分かる、相手を欲しがり、焦がれて猛るものが、すぐに奥を目指して進んだ。
抱き合う腕より近くに触れあっている。
言葉にならないものが、どこよりも薄い表皮を通して伝わる。
「クラウド」
これまでとは違う呼び声に、背筋を這いのぼる刺激がクラウドを震わせた。
力の籠もる場所を暴く力と速度で、容赦なく高められる感覚に全てが打ち壊される。
形を取り始めた感情も、映像も、今クラウドを律する理性も溶解した。
両足を男の腰へ絡め、長い髪を掴んで引き寄せた顔を間近で見つめ、どちらからともなく唇を合わせる。水を求める遭難者のように、貪り合う。
達する瞬間、食いしばり、全身を震わせながら吐く安堵の息さえ奪い合った。
互いに息を乱し、セフィロスの頬を伝った汗が雨粒のようにクラウドの額に落ちた。
流れ込んだ体液が与える、滲みるような痛みに目を閉じ、クラウドは意識のある限り、男の名前を呼んだ。
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*
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見上げた天井の端には、はるか遠く空を覗かせる亀裂が開いていた。
亀裂の向こうに細い上弦の月が横たわり、周囲に彩る星の粒も明るく輝いている。
身体の下にある岩の床は固く、寝苦しかったが、当初の凍えるような寒さは感じられなかった。背後からクラウドを抱きしめる腕の熱さのせいか、それとも身体の奥に未だ灯ったままの炎のせいだろうか。
あれから幾度セフィロスの背に腕を回し、貫かれ、獣のように貪り合ったのか、クラウドは数えることを止めていた。疲れ切った鳥が墜落するように眠り、揺すり上げる動きに起こされ、何日かは過ぎ去ったような感覚があるが、亀裂に細長く切り取られた夜空が、この洞穴に来てから幾晩目のものかも、クラウドには分からない。
夜の空と同じ程度の光量がある洞穴の中は、地面の隙間から漏れ出る魔晄の光に照らされ、目の慣れたクラウドには、人の表情さえ見取ることができる。
微かに首を動かして振り返った男の顔は目を閉じ、穏やかに眠っていた。
とてもこの世界の破滅を願う人物とは思えなかった。
失っていた感情が間違いでないなら、こうして側にいることは互いの目的のひとつだったはずだ。でなければ、身体の奥が痺れるほど犯されて、身体中に愛撫と暴力の痕を残され、欠片も惨めな気持ちにならない理由が見つからない。
それなのにクラウドの胸と喉には、何かを押し込められた息苦しさ、胸苦しさがあった。
右手を引き寄せ、詰まった物を確かめるように、胸の上を撫でた。
岩に頬を当て、湿った岩だけが続く床をじっと見つめる。
ちり、とクラウドの全身の産毛が立ったのは、元凶ですらある黒マテリアがそこに無造作に放置されているのを発見したからだ。
平らな岩盤に直接置かれた黒マテリアは、クラウドがそれをセフィロスへと差し出した時とは、明らかに異なっていた。
まるで壁に描かれた古代の図案のような、幾何学的にも見える文様が浮かんでいる。真っ黒な球体の奥では、水が循環するような渦を巻きながら、金色の細かな粒子が踊っている。
きらめく粒子に目を奪われながら、一方でそれが発する不穏な波動に、クラウドの背は一層泡立った。
これまで全く機能していなかったものが、セフィロスとの接触により起動したのだ。
禁忌の魔法メテオを唱えられることよりも、セフィロス本体を復活させることこそが、この星の存続にとって驚異だった気がしてならない。
そもそも黒マテリアとは、一体『何』だろうか。
マテリアとはいえ只の魔晄の結晶ならば、神殿に形を変えたり、星から遥か遠く離れた彗星など呼び寄せられるものだろうか。
「……こうして触れていると、お前の思考が流れ込んでくる」
声と一緒に吐き出された吐息が、クラウドの髪を撫でた。
心臓の鼓動が大きく跳ね上がる。
「お前とは浅からぬ因縁があったが、まさか肉体までがこうも結びつくことになろうとは。ここまで同じもので出来ているというのに、オレにはリユニオンできないらしい」
少し冷たく感じる掌が、背後からゆっくりと身体の側面を這った。
肩先から腕、腰を撫で下ろし、冷えた尻や腿を順に辿っている。時折指先が、軍役時代から身体に残る薄い傷跡を撫で、まるで労るように優しく擦っていった。
『同じもの』で出来ているというが、クラウドの身体を構成する部位は五年前と大して変化もなく、セフィロスと似た部分さえ少ない。同じものといえば、図らずも魔晄を浴びて色褪せた、青緑色の瞳くらいだろうか。
「黒マテリアに興味があるのか?」
思考が流れ込む、というのは比喩でも嘘でもないようだ。
一瞬前のクラウドの問いを繰り返したセフィロスは、頷いた気配を察して、何もない空中へ片手を伸ばした。
床の上に放置されていた黒マテリアが転がり始めた。まるで見えない糸で引き寄せたように、クラウドの目の前でぴたりと止まる。大きな掌がそれを躊躇なく掴み、岩盤の上から持ち上げた。
セフィロスの手に黒い球は小さく見えた。
そして彼の手の中にあるだけで、球内の粒子の動きが活発になっているのが分かる。
「これは、この星のものではない。数千年前、ジェノバと一緒に飛来した地球外の物体だ」
「……隕石?」
昔から隕石に含まれる鉄を打ったものは、隕鉄と呼ばれて重宝されている。普通の鉄より遙かに色は黒っぽく、ミスリルに匹敵する強度があると言われている。
それと同じようなものだろうか。
「単なる鉱物の塊とは違う。古代種は破壊しようとしても出来なかった。この星の生物には、これを壊す力が及ぼせなかった。だから使えなくするために、巨大な神殿そのものに封じた」
実際コピーを操るセフィロスはその意志さえ持てば、仕掛けを解き、黒マテリアを手に入れることは容易かった。
そうされることを予測していたからこそ、古代種は対抗する力を持った白マテリアを代々引き継いでいったに違いない。
クラウド、いや当のセフィロスでさえ、生まれる予測など立ちそうもない数千年前の話だ。大いなる星の意志と、それに従う古代種との戦いに負け、地下深くに封じられたジェノバが目を覚まし、活動し始めたのは、ここ数十年のことでしかない。
どうして今、ジェノバそのものを凌駕するセフィロスのような意識が生まれ、クラウドと深く繋がりを与えられながら、これほど離れた存在であるのか。
「何を嘆く」
クラウドは唇から零れそうになった嗚咽を飲み込み、呟く音量で告げた。
「あんたと喋ったこと、行った場所、全部思い出す。あんたが望むように、オレを好きにすればいい。リユニオンでもなんでも、借りた身体を返してもいい。だから───メテオなんか呼ぶな」
身体を撫でていた手が止まり、背後のセフィロスは突然低く声を立てて笑い始めた。
「お前はまだ、こんな世界に未練があるんだな」
心底意外そうに呟くセフィロスの笑い声は、楽しい話を聞いたように明るい。
「そもそもこの宇宙には、ジェノバのような生物は多く存在する。彼らはこの星が生まれるずっと以前から、何十万、何億年も前からそうして生きている。この地上の人間だとて、時間をかけてこの星のエネルギーを食い尽くせば、他の星へ侵略することになるだろう。人間の進化した姿こそ、ジェノバだとお前は気付いていないのか」
「違う! だって古代種が、セトラが居ただろう? 彼らは星を育む生物だった。この星の人間は、オレたちの遠い祖先は、星と共生できる生物だったはずだ!」
しがみついたクラウドの腕を振り払うことなく、セフィロスは感情を表さない視線で見つめ返している。
ジェノバの子と言われた彼も、確かに半分は人間であるはずだ。
ましてや、狂気に駆られ、自我を失った五年前の事件のころと違い、彼を惑わす『母』───ジェノバ本体は、今はその自我すらない、ただの物体にすぎない。
きっと言葉は届くはずだと、祈るような気持ちで見つめていると、セフィロスは小さく溜息を吐いた。
「人間が古代種のように生きることは、数千年前に既にやめたことだ。オレが五年前、己の半分が人間であることを捨てたようにな。人間が進化を遂げれば、いずれ星が死に絶えても、生き延びることはできるかもしれない。だが進化とは、ゆりかごを捨て去り、変化を恐れずに進むことだ」
強ばった顔のクラウドに反して、セフィロスは口元に薄く笑みを浮かべた。
彼の言葉は、本当に創世の神の神託のようだった。
「お前は今、オレの身体を半分持っている。肉体的には進化を終えている。宝条が無意味な実験で作ったコピーとしては失敗作だったかもしれないが、オレの分身としては唯一、完成されている。それをお前も感じているんだろう、クラウド」
顎に手を添えて、笑みを浮かべた唇に口づけられる。
抗う気はもう失せていたが、こうして扱われる度に、未だ思い出せない記憶がクラウドへ忠告するように警告音を上げていた。
「オレにはお前の痛みも、快楽も、手に取るように分かる。だからこそ、お前の本当の望みには答えられないことを、心苦しくさえ思う」
再び横たえられ、背後から這わせた手がクラウドを高まらせる意図をもって動く。
自然と不規則になる息を吐き出しながら、横目でセフィロスの表情を窺おうとするが、それは叶わなかった。
「オレの、本当の、望み……?」
メテオを止め、星の滅亡を少しで先延ばしにすることが、今クラウドがすべきことだと理解しながら、熱い指の感触に思考が散る。
もやがかかる頭を奮い立たせようとするほど、指先が己の腹を暴き出す妄想が襲った。
右手が下肢を嬲り、左の指が執拗なほど胸と腹の間に残る刀傷をなぞっている。
そこを貫かれた記憶がクラウドの脳裏に浮かぶ。
強烈な痛みと悲しみ、そしてこの男へ初めて抱いた殺気が、クラウドを喘がせた。
蚯蚓腫れのようになっていた傷跡を行き来していた指の爪が、傷痕の上に新たな傷を刻む。
鈍い痛みの後、すぐに溢れた血が腹の上を流れた。血塗れた場所を、セフィロスの指先が抉るように動いている。振り払おうと身を捩っても、両手にそれぞれ弱点を握られ、抵抗そのものが弱々しい。
「痛い……セフィロス」
「ああ」
宥めるつもりなのか、下肢を包む右手が、より強くそこを擦った。明らかに顕著に立ち上がった場所を確かめるようになぞり、指が離れたと思った瞬間、狭間に固いものを押しつけられた。
「ひとつに、なりたいんだろう」
耳元で囁かれた誘惑に、クラウドは大きく身体を震わせた。
全身の産毛が立ち上がり、背筋を這い上がったものの正体を確かめる間もなく、名残の残る体内へ押し込められた。
慣らされた場所でも、内臓を押し分け、入り込んでくる感触には悲鳴が上がった。
同時に擦られた内側から沸き上がる刺激に、捕らえられた小動物のように身体が痙攣する。
「ひとつになれなくとも、お前の痛みも、快楽も、オレと共有している。お前の望むように」
横たえた身体に沿うようにしていたセフィロスが、己の身体の上にクラウドを持ち上げた。
岩の床に手をつき、逃れようと無意識に動くのを揺さぶる動きで封じられ、身体の下から突き上げられ、クラウドは力を抜いた。
無防備に晒した胸を、背後から伸びるセフィロスの指が傷口の上から更に抉る。
傷の生む痛みと、体内から与えられる快感に境目がなくなる。温い感触で流れる血がセフィロスと同じものであるならば、そこからひとつに戻れるような気さえする。
背後から腰を掴み、操るセフィロスの手に己の手を縋り付かせた。繋がる場所が熱く燃え、溶けていこうとする一体感を打ち壊すような動きに、唸り声で抗議した。
背を反らし、見つめていた男のつま先から顔を起こして、天を見上げる。
晒した喉から直接、あからさまな喘ぎが漏れる。
崩れかけた岩壁の遙か上、僅かに覗く夜空には、先程も見上げた欠けた月が覗いていた。
クラウドはふと息を止めた。
月のすぐ隣、月よりは小さく、通常の星より遙かに大きな、赤く燃える星が現れていた。
見上げるクラウドの瞳に、その赤さが焼き付いた。
深い蒼をたたえ、地上の混乱や些末事なと全く関係がない広大な空に、禍々しく燃える光は、舞うように揺らめいて見える。
メテオ───この星を死に至らしめる厄災。
「ああ」
絶望の喘ぎを漏らした唇が硬直する。
肉体を支配していた感覚が消え、胸を激しく打っていた鼓動も、冷たく凍りついたように治まり、代わりに奇妙な雑音を伴って、クラウド自身の耳に届く。呼吸を忘れ、喉で堰き止められていた空気が、全身に快感ではない震えを走らせた。
クラウドの変化を感じ、動きを止めたセフィロスにも気付かず、止まない震えに顎を鳴らし、いつの間にか頬を濡らす大量の涙が、首まで滴っていた。
「……いつ」
震えを帯びる声で、独り言のように呟いた。
「メテオは魔法と言われているが、魔法とは違う。お前がオレに黒マテリアを与え、あれが目覚めた時、既にメテオは発動している」
つまり、メテオを呼んだのはセフィロスではなく、クラウド自身ということだろうか。
鈍る思考を奮い立たせるように頭を振ると、滴が散った。
いつの間にか背後から硬直する身体を両腕で抱きしめられ、セフィロスの顔がほど近くにあった。
「愛しいインコンプリート。五年前の約束を果たす時だ」
「五年、前?」
「地上の全てが滅び、この地に立つのはオレとお前の二人だけになる」
弱々しく上げた視線の先のセフィロスは、薄く笑みさえ浮かべて、遠い天窓から覗く赤い星を見上げていた。
魔晄の色の瞳と、燃える凶星の赤がクラウドの記憶を揺さぶった。
頬を、腕を、喉の奥をなぶる炎の熱さ。
家の燃える強烈な匂いと、舞う火の粉の残像の向こうに消えていった、黒衣の後ろ姿が目の奥に焼き付いて離れない。
「お前の戻る場所は、もうオレ以外にない」
上肢を支える腕の力強さを感じ、頬に触れる髪の微かな匂いに安堵さえ誘われる。
だが、ずっと胸と喉を塞いでいたものが、溢れようとしていた。クラウド自身にも制止することはできない、個の生物として生きる本能のようなものだった。
「クラウド」
呼びかけられた低く心地よい声を耳に留め、クラウドは心にある目を閉じた。
徐々に力が失われ、支える腕にもたれる感触を最後に、男の顔と、その向こうに禍因(かいん)の光を放つ星を現実の目に写したまま、完全に意識を閉ざした。
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時折、水面近くに浮かび上がるように声を聞いた。
不安そうに覗き込む幼なじみの美しい顔が、まるで助けを乞うように名を呼びかける。
無骨な仲間の男たちも、様子を見に度々顔を出しているらしい。飛行機乗りの男が発する強い煙草の匂いに更に意識が浮上し、獣の姿の友人が、肘掛けに置いた己の手をそっと舐める感触に笑いが漏れそうになる。
だがその水面から顔を出すことを、クラウドは恐れていた。
水中を漂うような、中途半端な意識の中での返答や反応は、獣の唸り声にしかならなかった。
緑の流れはクラウドに痛みしかない現実を散々見せつけて、後はただの寝床のように優しく身体を支えている。
正しく、大きなゆりかごの中だ。セフィロスの言う、人類の進化はこの中では起こらない。
それでも、クラウドがこうしていれば、これ以上己の行動が更なる災悪を招くこともない。
セフィロスの腕の中で、メテオを呼んだのは自分だと気付いた時から、クラウドの意識はほぼ現実から離れていた。
セフィロスの手が意識のないクラウドの身体を揺さぶったり、まるで人形のように衣服を直され、岩にもたれさせ、長い間見つめられていたのは知っている。焦点の合わない滲んだ視界に、怒りを抑えきれず、苛立たしげに岩壁を斬りつけるセフィロスの背中を見た。
名を思い出せない黒髪のソルジャーが、同じように自分を心配そうに見下ろし、物に八つ当たりしていた記憶が蘇り、思わず小さく笑った。
現実と己の意識が、これほど簡単に乖離してしまうことに、クラウドは少々慣れつつあるようだ。
冷たい岩の感触を感じる時だけ、足元の亀裂から沸き上がるライフストリームの光を受けるセフィロスの姿を見ることができた。そうして姿を確かめる度に、まだこの世界が滅びていないことに安堵する。
現実から逃げ出して、どれほど時間が経った後だったか。
クラウドは既に慣れつつある緑の光に誘われるように、岩の床の上を這った。目を焼く明るさの緑色に埋め尽くされ、ふわりと身体が浮き上がる落下感と共に、視界の端に己の名を呼ぶ男の姿を捉えた。
そうしてクラウドは、自らライフストリームの淵へ身を投じ、セフィロスの元から逃げ出した。
あれからどう流され、どこへ流れ着いたのか。
仲間に助け出されたことは分かっても、クラウドはそれ以上の状況を理解することを放棄していた。緑の寝床から起き出すには、あまりに現実が重すぎた。
だが、居心地の良い寝床から、力を込めた腕でクラウドを起きあがらせる声は、ほどなく聞こえた。
幼い頃から、クラウドの縮こまろうとする心を励まし続けた存在は、今切実に助けを求めて手を伸ばしている。
魔晄の海は、免疫のない彼女へ凶器となって襲うだろう。
力強く水を掻くように、藻掻く少女の元へ近づく。苦しんで抱え込む小さな頭を守るように胸へ抱く。既に抗う力も尽きてうなだれる彼女を抱え、水面を目指して手を伸ばす。
時間にすればほんの数秒の間。
「思い出して、クラウド。一緒にあなたを探すのよ」
魔晄の混沌から、彼女を救い出す行為が、図らずもクラウド自身が全ての現実を取り戻す瞬間となった。
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黒い海のようにも見える地上に、遠く、ミッドガルの灯りが見えてきた。
灯りへ急接近する飛空挺の甲板では、これからあの街の上空へ降下しようと待ちかまえるクラウド達が、甲板の手すりにつかまり、各々近付いてくる円形の街並みに目を凝らしていた。
海中から現れ、ミッドガルを襲ったダイヤウェポンを撃ち倒した魔晄キャノンが、あれ以来ずっと暴走し続けている。北の大空洞を守っていた障壁は破壊され、今、セフィロスの元へ進む道を阻むものはないが、暴走している魔晄キャノンを放置するわけにもいかない。
直接砲台から魔晄炉の出力を操作している人物を止めるべく、これからクラウドたちが乗り込むと言うわけだ。
「もう身体はいいのか、クラウド」
いつもは口数の少ないヴィンセントが、珍しく自分から口を開いた。
このメンバーの中で最も年長なのがヴィンセントである。喪失状態から戻ってきたばかりのクラウドを、随分と気遣ってくれているようだ。
彼はそもそもプレジデント神羅や宝条、ハイデッガーたちと同世代の生まれである。あの神羅屋敷の暗い、湿った地下室で眠りに就く前、セフィロスの産みの母を慕っていたという話を聞いたばかりだった。
「大丈夫だ」
クラウドが振り返って答えると、ヴィンセントはコートの高い襟に口元を隠し、動かない顔をこちらへ向けている。
ミディール村が沈んだあの時、ライフストリームからティファと共に引き上げられたクラウドは、魔晄中毒症から逃れたと同時に、失われた二年間と捕らわれていた五年間の記憶を、ほぼ全て取り戻した。
あれからまだ五日ほどしか経っていない。確かに肉体的にはかなり疲労が濃い。
いつもと変わらぬ表情を努めている、クラウドの中で起こっている異変を、この聡い男は感じ取っているようだった。
「私は自ら地下に潜ることを選び、世間から目を閉ざした。ただ眠っていただけの私と、魔晄の影響や外因によって記憶を失ったお前は違う。無理をするなよ」
「ありがとう。でもゆっくりしては居られないだろ」
「そうだな。確かにゆっくり眠っていろとは言いかねるな」
互いに皮肉な笑みを浮かべ合い、船員からの降下の合図を待つ。
パラシュートを使ったダイビングなど、恐らくメンバーの殆どが体験したことがないはずだ。クラウドは緊張の面持ちを隠せないティファやユフィを視線で励まし、降下開始のランプが点いた瞬間、最初に暗い空へ身を躍らせた。
無事にアップタウンへ降下を終え、クラウドらはいくつかのパーティーに分かれ、ヴィンセント、ケット・シーの三名で行動することになった。
潜り込んだ通気ダクトから、入り組んだプレート内部へ侵入する。
神羅軍の警備は殆ど機能していないが、設置されたセキュリティシステムの一部は未だに作動しており、執拗にクラウドたちの足を止めた。それらを排除し、時には離脱し、一路、魔晄キャノンの足元を目指して進む。
ライフラインを抱える通路を抜け、狭いダクトを再び通り、抜け出た先は螺旋状の線路の上だった。
三人が線路上に降り立った途端、ケット・シーは時折反応を示さなくなった。地下の移動で通信状況が悪くなるからか、それとも操作するリーブがスカーレットたちに拘束されている為だろうか。
「リーブは苦労していそうだ」
ヴィンセントが苦笑しつつ、自分たちの動きを自動追尾するように、デブモーグリのメンテナンス用の蓋を開けて調整し始めた。いつもよりぎこちないながら、大人しく背後をついて来るデブモーグリの操作は、簡単に成功したようだった。
「あんた、そういえばタークスだったんだな」
「ああ。私がいた頃は、ここまで良くできたロボットはなかったが」
時折沈黙したままのケット・シーを振り返りつつ、クラウドとヴィンセントは暗い線路上を進んだ。これを辿れば零番街まで移動できるはずだった。
零番街の方向へ足を進めつつ、クラウドは何か言いたそうに時折視線を送るヴィンセントに気付いて、首を傾げた。
「どうした? ヴィンセント」
「今、リーブは聞いていないだろうな」
ヴィンセントはそう独り言のように呟いてから、クラウドを振り返った。
赤い、人ならざる者の目が、静かな光を帯びている。
長い黒髪に黒衣、古びた臙脂のマント、全てが暗いイメージのある彼の姿の中で、唯一鮮やかな色の瞳は血の色を思わせた。
「クラウド。お前はセフィロスの何だ?」
枕木をまたぎこすように足を運びながら、クラウドは思わず息を止めた。
動揺を気付かれないよう、密かに唾液を飲み込みながら、ゆっくりと彼の方へ顔を上げた。
「記憶を取り戻してから、お前は自分のことを全く話していないな。今は、私しかいない。本当のことを話せないか」
互いに無表情のまま視線を交わし合い、それでもクラウドはどう答えるべきか、まだ迷っていた。
所々、弱々しい非常灯が点いた線路は、列車の気配はなく静かだった。ウェポンの攻撃で壊れたのか、どこかで水道か下水が切れ、水の流れ出ている音が微かに聞こえている。
機能を失いつつある大都会の足元で、背後のケット・シーは機械的に足を運び、生きているものはクラウドとヴィンセント、二人のみであるような錯覚を起こさせる。
「私は、セフィロスの産みの母である女性へ、道ならぬ恋をした。だが恋慕を振り切ってでも、彼女たちを止めるべきだったと、今は思う。バレットのように、世界を救うなどと大層なことは考えなかったが、それでも私は命をかけて止めるべきだった」
ヴィンセントはまるで懺悔を乞うように語り続けた。
常になく饒舌な彼にも驚いたが、その口調も言葉も、ヴィンセントがその時、普通の青年であったことを色濃くうかがわせるものだった。
クラウドはセフィロスの産みの母を顔も、その性格も何一つ知らないが、美しい人だったのだろうということは、セフィロスを見れば分かる。
「セフィロスの母親を、愛していたからか?」
まるで線路の行く先を見つめるように、顔を正面へ向けたヴィンセントは、遥か遠い記憶を探るように視線を彷徨わせた。
「いや……人間として。今、本当はヒトでなくなった私だからこそ、そう思うのかもしれないな」
「『ヒトとして、止めるべき』か」
「それが、しいては彼女を救う唯一の方法だった。今、思っても詮無いことだが、だからこそ、私にとってこの旅は償いの旅だ」
クラウドはひとつ溜息を吐いた。
ヴィンセントと自分が似ていることは気付いていたが、これをどう受け止めるべきなのか。
彼はクラウドとセフィロスが浅からぬ関係であったことに、確実に気付いている。
知られてしまったのなら、隠す気はない。それでもまったく躊躇がないわけではない。
「……オレにとっては、この旅は償いでもなんでもない。ただの自己満足だ」
ヴィンセントがこちらへ顔を上げた気配に、クラウドは一層俯いた。
「ここまで来ても、オレはセフィロスへの執着を振り切れない。あの人の傍に行きたいと、今でも思うんだ」
自分自身、理由も分からず頬へ血が昇った。
女々しいほどにこだわりを捨てられない自分への屈辱感か、それともヴィンセントへ知られたことに対する恥辱感か。
だが横目で覗ったヴィンセントは、クラウドを嘲笑うことも、なじることもしなかった。
「初めて会ったときから、あの人は独りだった。両親も知らず、心を砕ける人は、みんなあの人から離れていった。多分セフィロスがただの子供だったオレに執着したのは、オレが信用できる最後の逃げ場だったんだ。おかしくなったのは、ジェノバの影響だったかもしれないけど、それ以前にそうなる理由があったんだ」
「……分かっている」
「ごめん。別にあんたを責めてる訳じゃない。あの時のオレに、セフィロスを支えるだけの力がなかっただけだ」
静かにこちらを見返す彼の、睫毛の長い目が驚いたように瞬いた。
クラウドは自分の頬に涙が伝っていることに気付いて、慌てて濡れた頬を腕で擦った。
「オレには復讐したい奴も、償いたい人間も、誰もいない。みんな死んでいった。あの時のセフィロスと同じだ。それなのに、オレはもう、あの人みたいに何かを恨む気すら起きない」
クラウドの故郷の村で、全てを捨て去る決意をし、決意の象徴である『母』の首を持ち去ろうとした彼の、あの瞳の奥の狂気を忘れることが出来ない。
だが今、人である柵を乗り越え、狂気にすら打ち勝ってしまったセフィロスを動かすものは、あの時と同じ衝動ではないように思えた。
「セフィロスの細胞を移植されて、オレの身体は彼と殆ど同じものなんだ。それなのに、オレの怒りも恨みも、全部あいつが持っていって、ライフストリームの流れに捨てたみたいだ」
正面を見据え、線路の分岐に記された住所を確認しながら、クラウドは音もなく溢れてくる涙を幾度か拭った。
何に対して涙が流れているのか、分からなかった。
クラウドにはもう悲しむことも、恐れることも何もないはずだった。
「お前、こうして旅を続けていることを、納得できているのか?」
先程からヴィンセントの質問は酷く淡々としている。
そこには同情も、下手な慰めも感じない。懺悔を聞く牧師のように、許されるなどと気休めを言うこともない。
「あんたが言うように、『人として』、オレが最後に出来ることは」
無意識に指先が剣の柄を辿った。
「エアリスとザックスのために、彼らの成し得なかったことを」
「彼らのために」
「うん」
「倒せるのか。セフィロスを」
「ああ。今は、あいつ自身がそれを望んで、オレを待っているだろうから」
涙が止まれば、自然と口元には笑みが浮かんだ。
ヴィンセントは相変わらず無表情のままだったが、僅かに安堵しているようでもあった。
線路が行き止まり、行くべきダクトの前でルートを確認していると、ようやく通信状況が良くなったらしいケット・シーから、ノイズが聞こえた。
「クラウドはん、ヴィンセントはん。この上、この上」
突然なまった言葉で喋り始めたケット・シーに、ヴィンセントが初めて低く笑いを洩らした。
狭い通気口や埃だらけの通路を抜け、ようやく辿り着いた魔晄キャノンの麓で、奇妙な機械を操って現れたスカーレットとハイデッガーを倒した。動かなくなった巨大なロボットは、回路がショートしたのか、所々黒く焦げた跡をさらしたまま、膝をついた姿勢で停止している。
機能を失った巨大都市も、操縦者をなくしたロボットも、神羅の終わりを告げる象徴と言えた。
メテオの影響なのか、荒れ始めた空模様の下、埃っぽい砂まじりの風が吹き付けている。
未だ暴走を続ける魔晄キャノンの砲台をくくりつけた、急場しのぎの鉄製の足場を見上げた。やぐらのようにそびえ立つ鉄柱の間に、頂上へ向かう長い階段が続いていた。
駆け寄ったクラウドよりも早く、その段に足を掛けたのはヴィンセントだった。
彼を追うようにクラウド、ケット・シーが後に続く。
「ヴィンセント!」
「宝条だ。宝条がいる!」
振り返った深紅の瞳に浮かんでいるのは、怒りとも恨みともつかない、だが普段クラウドたちには向けることのない光を帯びていた。
ジェノバプロジェクトをガスト博士の死後も推し進め、ヴィンセント自身を人ならぬ身体へ改造し、今、人類全体へ降りかかる危機を早めようとしている宝条へ、平常心でおれない気持ちはクラウドにもよく分かる。
息を切らしながら登り切った階段の頂上は広くなっており、その突き当たりで操作盤へ向かう後ろ姿があった。
白衣に包まれた痩せた背に、長く伸びたまま手入れのされていない、ひとつに束ねた髪が動いている。白いものが混じり、明らかに昔の印象よりも老いている。薄汚れ、皺だらけの白衣も、不穏な空気を感じさせた。
「宝条!」
呼びかけつつ駆け寄ったものの、彼は操作盤へ食い入るように見入ったまま、こちらを振り返ろうともしなかった。
幾度か呼びかけた後、ようやく顔を向けた彼の目は、黄色く濁っていた。
「ああ、失敗作か」
「いい加減名前くらい覚えろ。オレはクラウドだ」
「……お前を見ると、私は自分の科学的センスのなさを痛感させられるよ」
操作盤の一角で、漏電が起こっているのか火花が上がった。
「失敗作だと判断したお前が、唯一セフィロスコピーとして機能するとは。まったく……自分が嫌になる」
すぐに操作盤へ向き直った顔から、低い笑い声が漏れ、薄い肩が揺れた。
「なんでもいいから、こんなことはやめろ! 魔晄炉が……本当に暴走するぞ!」
ケット・シーはいつもの訛りを忘れて、リーブの口調で博士を止めようと怒鳴り声を上げる。リーブの焦燥を示すように、デブモーグリの頭の上で、メガホンを振り回しながらネコのロボットが暴れるが、宝条は手を止めようとはしなかった。
「『こんなこと』? ああ、これか。息子が……セフィロスがエネルギーを必要としている。それに答えてやろうというだけだ」
「息子?」
問いに答えるはずもない宝条の代わりに、近くに立ったヴィンセントを見上げた。
彼はまっすぐに宝条の背を睨みつけるが、博士の言葉を否定しようとはしない。
「あいつは知らないがな。セフィロスのやつ、私が父親だと知ったらどう思うかな。あいつは私のことを見下していたからなあ!」
まるで自分では止め様がないというように、宝条は低く笑い声を漏らしながら、それでも操作盤へ向かっていた。指先が無秩序に動く度、肩がぶるぶると震え、その動きは異常に大きくなっている。
「セフィロスが……本当にあんたの息子? それじゃあ、ルクレツィアって人の相手は……」
「私の子をみごもった女を、ガストのジェノバ・プロジェクトに提供したのだ。あれが母親の胎内にいる頃に、ジェノバ細胞を移植してな」
ぶつぶつと研究成果を喋り続ける男は、明らかに気が触れているように思われた。
「……呪われろ」
リーブが思わず漏らした呟きが、ケット・シーを通して聞こえた。
『哀れな男だ』
囁くように続けて聞こえた声に、クラウドは振り返った。
無論、クラウドたち以外、誰ひとりいるはずもない場所だ。
ヴィンセントは唇を噛み締めたまま宝条を睨みつけており、ケット・シーの電気的な音声とはそもそも異なる。
何よりも忘れようのない、聞きなれた響きにクラウドは思わず身体を竦ませた。
一段と強くなった風が髪を煽った。
その風に溶けて伝わる意識の波が、クラウドの握り締めた拳を震わせた。
『お前が最後まで生かしておく人間ならば、奴こそ最初に殺すべき人間だった』
声が、ヴィンセントやケット・シー、宝条にも聞こえている様子は全くない。
まるですぐ背後に、あの見上げる長身が立っているかのように、強烈な気配があった。
『セフィロス』
声は出せず、クラウドは唇の動きだけで男の名を呼んだ。
これはクラウドだけが感じている、セフィロスの意識だ。
同調というより、強固な一体感から来る快感が、武者震いのように背筋を駆け上がる。
「もしかして……これは、セフィロスに対しての罪滅ぼしのつもりなのか?」
口にした疑問に対して、傍に立つセフィロスが低く笑うような気配を感じた。
『違う』
顔をこちらへ向けた宝条は、苦しそうに大きな笑い声を弾けさせる。静かな怒りを滾らせるセフィロスの意識には無論気付かず、ヒステリックな笑い声が鉄柱の間に響き渡った。
「違う違う! 科学者としての欲望だ! 欲望に負けた……この間もな、負けてしまった」
宝条の叫ぶような語尾が、一層ひきつれた高い声になり、振り向いた顔が歪む。
表情の変化というには異常な変形に、ヴィンセントとケット・シーは同時に一歩下がった。
「自分の身体にジェノバ細胞を注入してみたのだ。結果ヲ……見せてヤロゥ」
崩れ始めた人間としての形に、嘲笑う宝条の表情が張り付いている。
青黒く変色した肌の下の血管は、ねじ曲がった樹木の枝のように浮き出て、死人の様相だ。白衣の袖から力なく提げた両手の先が変形を始め、指先が膝より長く伸びていった。
ソルジャーと同じように細胞を移植したというなら、単に強化されるだけのはずだ。
だがこの奇怪な姿は、移植された人間の心の醜さを、そのまま映し出しているように思えた。
「セフィロスが、あんたを三流だと嫌っていたのが今更ながらよく分かるよ。あんたには研究者に必要な信念ってものが、欠片もないんだな。周りのもの全てに手を伸ばす、赤ん坊と同じだ」
思わずうんざりした声が漏れ、クラウドは気が進まない手で背負った剣を抜いた。
一層奇怪な姿に変形しつつある宝条に、リーブは嫌悪感も露わなうめき声を漏らした。無表情なヴィンセントも腰の銃を抜き、安全装置を外す。
「思考しない、理論的じゃないといいながら、あんたこそちょっと考えれば分かるだろうが。あんたが父親だとセフィロスが知らないはずがない。セフィロスは、ライフストリームの中で全てを見てる。そんなあんたの助けなんか、セフィロスが期待してると思うのか」
「お前になぜそんなことがワカル。ただの稚児ふぜいガ……」
僅かに宝条の顔を残した部位が笑うように震えた。
だが侮蔑の言葉にも、クラウドは不思議と腹は立たなかった。
いつしか薄れつつあるものの、背後に感じる気配は健在で、それに対して怯えはもうない。彼は自分であり、自分もまた彼なのだ。
セフィロスが言ったように逃げずに認めてしまえば、クラウドにとってその事実は、むしろ誇らしくもあった。
「セフィロスのことなら何でも知ってる。あんたがたまたま偶然生み出したにしても、オレだけが、セフィロスの半身だからな」
科学者を嘲る言葉へ怒りを感じたのか、だが宝条の声はもう人ではなかった。
守るべき家族ですら好奇心に利用した、最も人ならざる獣は、耳を塞ぎたくなるひきつれた声を上げ、幾重にも分かれた気分の悪くなるような触手をクラウドへ向けた。
「ジェノバに飲まれて、潰(つい)えろ」
この怒りの半分は、セフィロスのものだ。
剣を構え、姿勢を低くした。
既に負ける予感など欠片もない怪物へ視線を据え、最初の一撃をかわしたクラウドは、剣を振るすぐ横に、仲間のものとは異なる銀色の軌跡を見る。
身の丈の刀を軽々と舞うように操り、巨大な怪物を一刀で切り捨てる男の勇姿と並び立ち、反撃の剣先を大きく振りかぶった。
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*
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思わぬ速さで進む低く、重い雲が大空洞の縁を越えて頭上へと流れてくる。
草木の一本もなく、僅かに雪が残る以外乾いた岩場の続くクレーターに、雲の影が移動していく。中でも、最も濃い影を落とすのは、空中に待機したままの飛空挺である。
遙か下へと続くクレーターに、吹き荒ぶ風が流れ込んで行った。
明け方の冷えた空気が体温を奪う。クラウドのすぐ脇に身を縮こまらせたティファが、小さく肩を震わせた。
「もう夜が明けるよ」
「……もう少しだけ、このままでいさせて」
帰る場所も頼る者も失い、それでも己にもたれ掛かる彼女の怯えた心は、クラウドにもよく分かる。互いに孤独であることを嘆き、それでも代わりはいないのだと、拒絶したのはクラウドの方だった。
「誰も帰ってこないね」
昨晩、決戦を前に、クラウドはメンバー全員へ各々が一度自分の場所へ帰るようにと指示をした。これからこの底をも知れぬ大空洞を下っていく理由を、他人が誰かに押しつけるようなものではないからだった。
約束の刻限が過ぎようとしている。
だがクラウドとティファ以外、誰一人戻ってくる様子はない。
「仕方がないさ。ティファは本当にいいのか」
「わたしは」
もたれていた肩から頭を上げ、昇り来る朝陽が歪める地平線へと視線を上げる。
「行くよ。例え、わたしに理由がなくても、じっとしてるのが嫌なんだ。今、自分に出来ることをしたい」
立ち上がり、スカートの砂を払ったティファが、間近からクラウドを見下ろした。
小さな村の、無知で未熟な、誰からも与えられるだけの少女はもうここにはいない。世界を目にして、強く逞しく成長した女性へと転化した彼女は、そうして自分の足で立つことを知っている。
「ああ。そうだな」
「わたし、先に飛空挺へ戻ってるね」
小さく束ねた毛先を翻し、小走りで飛空挺のはしごまで走っていく背を見送った。
彼女の姿が甲板に消え、一層朝陽の気配が強くなった空へ顔を戻したクラウドは、立てた膝の上に腕を置き、そこに顎を乗せて一度、目を閉じた。
「彼女も、自分の力で立とうとしてるんだ」
独り言の音量で漏らしたクラウドの言葉に、しばらく時間をおいて応えが返る。
『女は強い』
座り込んだ岩のすぐ横から、静かな低い声が降った。
あの魔晄キャノンの設置されたやぐらの頂上で宝条を倒して以来、幾度も感じた意識が、今日は一段と強い気がした。彼自身が、このすぐ下にいるせいだろうか。
隣に立つ足の膝あたりを、薄く開いた横目で見やり、クラウドは頷いた。
「オレも、出来ることをするよ」
『出来ること』
「あんたを倒して、ホーリーを発動させる。そうしてほしいと思ってるんだろ」
男の意識から笑いの気配が漂った。
膝の上から顔を上げ、遙か遠く昇り来る朝陽が美しい五色に染める空を正面に見据え、クラウドは大きく息を吸い込む。冷えた朝の空気には、クレーターの底から立ち上る灼けた鉄のような匂いが微かに混じっていた。
「あんたは本当は、何を望んでいるんだろうな。リユニオンは出来なくても、オレを殺して食えば同じことだろ。この星を手に入れるのが最終目的なら、もっと簡単にオレたちを殺す機会はあったのに、あんたはそうしなかった」
下ろした左手を岩に触れさせる。グローブを脱いだ手の甲には治りかけの刀傷が薄赤く残っている。
そこに、冷たい指先のような感触が重ねられた。
身体を大きく動かしてしまえば、男の意識が霧散してしまいそうな気がして、クラウドはごく浅く息を吐き出した。
「あんたは、オレが倒すよ。ずっと怖くて云えなかった。それでいいよな」
『早く来い』
再び笑いの気配がクラウドの髪を撫でた。
手の甲から離れた指が、その髪の隙間に差し入れられ、静かに梳き通す。
胸にこみ上げるものが息を詰まらせた。喉を塞ぎ、吐き出したくても吐き出せない固い塊が、喉と目の奥を熱くする。
嗚咽が漏れそうになるのを堪え、奥歯を噛みしめたクラウドの頬に、指先が滑り降りた。
『決着を』
「馬鹿野郎」
目を刺す朝陽が遂にクレーターの縁にも顔を覗かせた。まぶしさに目を細め、瞼を両手で覆う。指の間からも強い光が筋になって差し込んで来る。
「こんなこと、オレにさせるな。馬鹿!」
叫ぶように大声で詰ったクラウドの前に、黒い人影がさした。
指の間を通る光が遮られ、強烈な朝陽の攻撃からクラウドを守るように、それは立ち塞がっていた。
頭を見下ろす視線を感じ、顔を覆う掌がはずせない。
その顔を見てしまえば、また決意が鈍る気がしてならない。また逃げてしまう自分が簡単に想像出来る。
逃げる場所さえあるのならば、その手を強引に引いて、全てを置いて、この星から逃げ出すことも考えただろう。
『待っている』
男の大きな片手が、両手で塞ぐクラウドの目元を引き受けるように覆った。薄く開いた視界には、黒い革のグローブだけがあり、朝陽の光も、外界の柵も全てを遮っている。
「馬鹿野郎」
唇に柔らかいものが触れた。
覚えのある感触に胸に詰まっていたものが、遂に決壊した。
呻くような声が震えを帯び、啜り泣くような弱々しい嗚咽が喉を幾度も詰まらせた。詰まったものを吸い出すように、ぴったりと合わせられた唇が吐息も奪う。
それでももう、涙は零れなかった。
行き場をなくした腕を、抱え込むように首の後ろへ上げる。
指先に絡みつく長い髪を無茶苦茶に梳いて、広い背に乱暴に縋る。なじんだ革のコートを引きちぎる強さで握り、息苦しい鼻先から、触れる頬の肌の匂いを吸い込む。
「馬鹿」
力強く腰へ回る腕の、触れあう胸の温度を確かめようと、クラウドは一層背を引き寄せた。
『早く来い』
『お前が来るのを、待っている』
いつしか仰向けた顔を、僅かに位置を高くし、穏やかさを帯びた陽が照らしていた。
視線を転じれば、ミッドガルの方向には今にも地上に激突しそうに接近した、彗星の禍々しい姿がある。
冷気に乾いた頬を空へ向け、クラウドは身体の横に下ろしたままの掌を強く握りしめた。先程感じたはずの体温も、冷たい唇の感触も、ただの幻のように余韻さえ残していない。岩の間を抜ける風が、笛を吹くような寒々しい音を立てて、足元を流れ落ちていくだけだ。
無意識に腰を屈め、足元に置いたままだった剣を拾い上げた。
「クラウド」
視線を上げると、甲板からティファがこちらを見下ろしていた。
遅いことを心配したのだろうか、柔らかな黒髪をなびかせ、希望を見出そうと輝く大きな瞳が瞬き、クラウドへ笑顔を見せた。
「クラウド……来て、早く! 驚くわよ」
明るい呼び声に頷いて見せ、クラウドは飛空挺へ昇るはしごへと手を掛けた。
朝焼けが残る美しい空を、飛空挺の優美な流線型が切り取っている。ゆっくりと回るプロペラが、空の色に染まった船体に、映る影の形を断続的に変化させている。
そしてクラウドがはしごを登り始めた瞬間、飛空挺が低くエンジンを始動させた。
この船を動かせるのはシドか、彼の部下たちだけだった。少なくとも、彼らのうちの誰かが、ここへ戻って来てくれたということだ。
甲板へ上がるクラウドの脳裏へ、微かに耳殻に反響する声が届いた。
声が、何処へ逃げるのかと問う。
彼の側から逃れようとしても、クラウドの腕から伸びる見えない鎖が、セフィロスの元へ繋ぎ止められている。恐らくクラウドを戒めるだけでなく、その鎖は同じようにセフィロスを縛ってもいるのだ。
細胞も、感情も、魂さえも繋いだ鎖は、もう切り離すことは出来ない。
逃げ続けたクラウドが立ち向かった時、これまでの悲運の輪が切れるのならば───。
「大丈夫だ。すぐ行くから」
クラウドへ流れる波が揺らぎ、歓喜に震える。
早く来いと、急かすように。
オレも早く行きたいと胸の内で答えれば、気配が満足そうに笑みを浮かべた。
無意識にクラウドの口元も緩んだ。
耳をかすめる風の音にエンジン音が被り、甲板の床が大きく振動する。
騒音にも負けないバレットの怒鳴り声が、キャビンの扉の向こうから聞こえた。
甲板から眺める登り切った朝陽は、北へと広がる暗い海を幾面にも反射し、輝かせている。厄災の鈍い光よりも眩いそれに目を細めたクラウドは、大きく息を吸って、キャビンへの扉に手を掛けた。
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* * *
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広大な丘陵地帯に続く乾いた草原は、見渡す限り遠くまで、黄金色に枯れた草地を風に揺らしていた。時折風が腰の高さに生えそろう雑草や牧草をなぶって、ざわざわと囁き合う程度の音を立てる。
雲が多く、決して良い天気とは言い難いが、雨の気配もなく穏やかなものだ。
だがその静けさを破るような悲鳴が、周囲の空気を破る。なだらかな下り坂になった丘の一辺を、娘が一人、必死の形相で走り降りて来た。
巻いた赤毛を覆う白い布が、今にも外れそうに揺れている。長いスカートの裾を薄汚れたエプロンと一緒に掴んでたくし上げ、草をかき分け、丘を下っていた。
彼女の後ろを、同じように各々草をかき分け、走る影が、幾つも追ってくる。
悲鳴は泣き声混じりで、追っ手を罵倒しているのか、それとも助けを求めているのか、酷く聞き取り難かった。
牧草地を分ける石垣まで辿り着いた彼女は、乗り越えやすい割れ目を探して、横へと走る。
不揃いの石を積んだだけの石壁はもろい。崩れて低くなった部分を見つけた娘は、もつれる足でそこを跨ぎ越した。
石垣を越えたこちらの土地は、この界隈を治める領主直轄の持ち物だが、今は牧草地としても使われておらず、周囲と同じように雑草が生えるだけの空き地になっている。そこをまっすぐに半里ほど進めば、領主の土地を管理する、役人の詰め所もある。
娘は微かな希望を見出し、再び走り始めたが、近くの石垣を乗り越え、飛びかかった追っ手の一人に、スカートの裾を掴まれた。
再び空を裂くような悲鳴が上がった。
「捕まえたあ!」
黒く汚れた爪と指先から逃れるように、スカートを引きよせる抵抗をものともせず、男のもう一方の手が、陽に焼けていない足首を掴み、まるで獲物をとらえた狩人のように、娘の片足を高く吊り上げた。髪をまとめた布が滑り落ち、長く鮮やかな赤毛は、すぐに枯れ草まみれになった。
スカートとペチコートがはだけ、露わになる足を必死に隠すように、泥だらけになった布地を押さえて、娘は更なる声を上げる。
「前にやったあんたの父親の方が、よっぽど大人しく捕まったぜ」
男の革の胴着とズボンから剥き出しになった腕は、黒く灼けて、刀傷に覆われている。後から追いついた他の男達も、同じような服装で、誰もが腰に剣や小剣を差し、一人は短い弓も背負っていた。
あまり手入れのされていない武器と、脂に染まった歯、髪や髭が生え放題になった四人の様相は、明らかに盗賊の類である。
伸びてくる彼らの手を必死に片方の足で蹴り退け、助けを呼ぶ娘の声が、時折引きつれたように調子を変えた。
一人の男の握る小刀が、娘のスカートや袖の一部を切り裂いた。
浅く肌を切られ、微かに滲んだ血が布を汚すが、それに構わず娘は掴まれた足を取り返そうと更に暴れている。彼らの手から逃れなければ、その程度の傷で済むはずがないと、彼女はよく分かっているのである。
男達は見せ物を囲むように笑い声を上げ、彼女の必死な様子を楽しんでいるようだった。
しかし泣き叫ぶ様を見下ろす四人の笑い声が、ふと途切れた。
盗賊の一人のうち、小刀で娘の服を切った一番若い風貌の男が、突然目を見開いて硬直したのだ。
「どうした?」
最も歳のいった首領格らしき男の問いに、彼は答えることもできず、そのままうつぶせに草の上に倒れた。
驚きの声を上げる一同が見下ろした彼の背には、優美なラインの銀の短剣が突き刺さり、その一撃で完全に絶命していたのである。
刺さったままの傷口の周囲は、僅かに血塗れる程度の出血しかない。つまり急所を完全に貫いている。
「誰だ! 出てこい!」
それほど正確に急所を刺すのは、全く動かない敵の間近に近寄っても難しいことを、多くの人間を殺めてきた彼らにはよく分かっていた。だが、彼ら以外の人間が近寄った気配は感じなかった。
まさか顔中を涙に濡らし、涸れた悲鳴を上げ続けている娘が、反撃したとも考えにくい。
狼狽え、周囲を見回す盗賊たちを余所に、その人影は腰丈の草の中から突然立ち上がった。
黒っぽい革をなめした胴着とズボンは、盗賊達と余り変わらないシンプルなものだったが、それが包む身体は細く、一瞬少年のようにも見えた。
秋枯れた周囲の草とよく似た、黄金色の髪は寝乱れたように奔放に跳ねていた。胴着の胸元やズボンの前立てもはだけ、まるで寝起きのようである。そこから覗く、高貴な位の娘のように白く滑らかな肌が、その青年を少年のように若々しく見せていた。
「なんだテメエは」
警戒しながらも、盗賊達は明らかに軟弱そうな青年の容貌に、隙だらけに問うた。
眠そうに細めた目が、睫毛の下から男達を睨み付けるが、その色に男達は息を飲む。まるで北の果てに沸くという、ライフストリームのように鮮やかな青緑色だった。
彼らにとってライフストリームと同じ色の瞳は、伝説にある狂戦士の持つ物だ。
青年は彼らの動揺を完全に無視して足を進め、倒れた男の躯を跨ぎ、そのまま捕らわれた娘の方へと歩み寄った。
娘の足を掴んだ男の目の前へ立ち、不機嫌そうに一言呟いた。
「手をはなせ」
巫山戯るなと怒鳴りそうになったその盗賊は、開きかけ、すぐに閉じた口の中で、唾液を飲み込んだ。
血塗れた短剣が、娘の足を掴む男の手首へ押し当てられていた。
短剣は仲間の命を奪ったものだ。現に背に突き立っていたはずの短剣はない。しかし、青年が仲間の躯から短剣を抜き取る瞬間を、盗賊たちの誰ひとりとして目撃していなかった。
「離せ。二度も言わせるな」
ひ弱な青年が相手であることも、味方が三人であることも忘れて、男は娘の足首を解放していた。
娘は掠れた悲鳴を上げながらも、草の上を這いずって、男達の元から離れた。
「まったく、人がゆっくりしてれば、頭の上で暴れやがって」
優しげにも見える整った顔の青年は、その様子とは正反対にも思える口調で盗賊達を罵った。
「消えろ」
青年の強い語気に盗賊達がひるんだのは一時だった。
各々腰の剣を抜いて一歩下がり、青年を取り囲む位置でそれを構えた。
彼らも戦いには慣れている。その武器だけが自分を守り、相手を殺め、生活の糧となる金品を強奪しているのである。
だが、青年は顔色も変えず、掌ほどの刃渡りしかない短剣を逆手に構えて身を低くし、うんざりしたような溜息をひとつ吐いた。
「消すぞ」
気合いの声を発しながら、盗賊三人はほぼ同時に青年へ剣を振り上げた。
一人の剣を短剣の刃で受け流し、位置を入れ替えるように身を翻した青年は、絡めた剣を跳ね上げ、無防備な背中を向けた男を振り上げた足で蹴りつけた。
正面へつんのめって倒れ込んだ男の左右から、残る二人が突き掛かる。
一人が斬りかかると、仲間の剣に巻き込まれることを恐れて、自然ともう一人は躊躇するものだ。だが、振り上げた剣を一方が引いた時は、既にもう一方は胸当ての隙間から斜めに急所を刺され、武器を取り落として、その場に膝をついていた。
「お頭!」
どうやらリーダーだったらしい男がうつぶせに倒れて絶命し、残る一人は気合いのかけ声と供に、手にした両刃の剣を横薙ぎに振った。
一歩下がった青年の胸を狙って、突きを繰り出し、踏み込んだ男は、そのまま青年の胸に飛び込むように蹌踉めいた。
突き損じた剣を握る手は、青年の左脇に思いも寄らない力で挟まれ、強烈な痛みに男は悲鳴を上げた。
「抱きつくな。気持ち悪い」
本気で嫌そうな表情になった青年の短剣が、男の鎖骨から喉、そして顎にかけて上向きに跳ね上がる。
切り裂かれた場所から霧雨のような血飛沫が降りかかるのを、青年は飛び跳ねるように数歩下がって避けた。
一瞬で三体の死体が転がった草原の向こうに、いつの間にか盗賊の生き残りが背を向けて逃げ出していた。青年が背中を蹴りつけた男だ。
後ろも見ずに一目散に走って行くのを追わず、短剣の血糊を払った青年は、近くに座り込む娘に顔を向けた。
「大丈夫? ケガは?」
娘へ問いかけながら、短剣を腰の鞘に仕舞う。
田舎の農村に住む娘には、まるで寝起きの貴族のように見えるこの美しい青年が、ひと月ほど前には彼女の父を惨殺し、今日は自分を嬲り者にしようとした盗賊三人を、一瞬で倒したとはにわかに信じがたい。
何か恐ろしい、未知の力を前に怯えた顔を向けたが、優しげな天使像のような青年の笑顔には、思わず頬を赤らめた。
「だ、大丈夫。擦り傷です」
「一人逃げたな。この辺の奴?」
「そうです。わたしの父も、村の人も何人も……」
思い出したように泣き出した娘へ、青年は申し訳なさそうな、困ったような表情になり、それでも彼女へ手を貸そうと手を伸ばし、腰を屈めた。
娘は恐る恐るながら手を取り、ようやく草地に立ち上がった。
だがその瞬間、青年の背後を掠めた人影に驚き、音を立てて息を飲み込んだ。
青年よりも遙かに長身の男が、いつの間にか二人の前に背を向けて立ち塞がっていた。
黒い、長いコートの背には、まるで高価な衣装を彩る銀糸のように、きらめく真っ直ぐな髪が揺れている。その腰より長い髪でも、すぐに男と分かるような広い背と、厚みのある胸、そして青年と娘を守るように伸ばされた片腕には、見たこともない長い刀が握られていた。
男が構えた刀の向こう遠くに、逃げたはずの盗賊が弓を引いているのが見えた。
娘が悲鳴を上げそうになった口を覆い、見下ろした草の上には、中央から断ち斬られた弓矢が二本落ちていた。
男は飛んできた矢を、その長い刀で切り落としたのだ。
「油断したな、クラウド」
背を向けたままの男が発した声は、笑いを含んでいるように聞こえたが、耳に心地いい。
唸るような声で答えたのは、クラウドと呼ばれた金髪の青年だった。
「捕まえるか? 殺すか?」
やっとこちらへ顔を向けた銀髪の男は、クラウドと並び秀でるような美男だった。
彫りの深い顔立ちに、薄く、形の良い唇は少し冷酷な印象があるが、青年と揃いの青緑色の目をしている。
「適当に」
肩をすくめて答えた青年に頷くでもなく、男は刀を下げて、遠くで再び背を向けた盗賊へもう一方の手を挙げた。
男の手が稲光のように光り、まぶしさに目を細めた瞬間、走り去ろうとする盗賊の上に稲妻が落ちた。
空は曇っているとはいえ、雨粒ひとつ落ちてくる気配はない。突然雷が狙いすましたように、盗賊に落ちるとは考えにくい。
これは魔法の力だと気付いた娘は、ただ驚きに手を口に当て、盗賊の倒れ込んだあたりを眺めていた。
時折旅人も立ち寄る村ではあるが、娘は魔道士を見るのは初めてだった。娘の知る、これほど見目のいい風貌の魔剣士は、昔話に登場する武神の姿そのものだ。
既にこちらに向き直った男は、何事もなかったようにクラウドと娘を交互に見下ろしている。見つめられるだけで、一歩下がりたくなるような強烈な威圧感があった。
「どうする?」
「被害の大きかった盗賊だってなら、役人に届けなきゃまずいんじゃないか」
「だが……途中だ」
銀髪の男は不満そうに漏らした。
偶然ここを通りすがり、助けてくれたようだが、二人は何か用足しの途中だったのだろうか。
娘は気持ちが静まるにつれ、のし掛かってきた現実に、再び暗い表情で落涙しながら俯いた。
「あのなあ。だってほっとけないだろ」
「こっちもすぐ終わる」
「……本当に?」
「あの……助けていただいてありがとうございました。役人へは後で自分で届けますから」
娘は嗚咽に震える声で二人の問答を止め、出来る限り丁寧に頭を下げてその場を立ち去った。
丘を登った上にある娘の家は、以前彼女を逃がすため盗賊達の手にかかった父親が、遺してくれたものだ。
必死に斜面を登り始めた娘の背に、クラウドが追いすがって声を掛けてきた。
「あのさ。セフィロス……あのデカいのとちょっと用事を済ませたら、すぐ君の家へ行くから。一緒に役人のところに行こう。一人じゃ、怖いだろ?」
困ったように笑うクラウドの眩しい金髪に目を細め、娘は少し考えてから小さく頭を下げた。
「すみません。お願いします。うちはあそこに見える家です」
「じゃあ君も、お茶でも飲んで少し落ち着いて。後で訪ねるよ」
手を振る彼へもう一度頭を下げ、娘は一直線に家への草地を駆け上った。
なだらかな丘を二つ登った自分の家の前で、娘は美しい旅人たちのいる丘の下を振り返る。
領地を分ける石垣の近くに点々と盗賊の躯が転がっている。既に周囲に二人の姿は見あたらなかったが、あの恐ろしく長い刀が壁に立て掛けてあるのが見えた。
娘は頬を濡らす乾きかけた涙を袖口で拭い、一呼吸置いて、開け放たれたままの我が家の扉をくぐって行った。
厄災がこの星に最も近づいた時代から、ずっとずっと後の、小さな村での話である。
かつては悪名高き、そして今は誰も覚えていない二人の男達の、通りすがりの些細な物語は、こうして各地に数え切れないほど散らばっている。
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2008.04.24(了) 2010.04.02(更新)
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