白き闇 沈みし光 |
「疲れたか?」
この男が、まるで子供でもあやすように優しく声を掛けるのを聞いたら、彼の友人たちは皆一様に指をさして笑うかもしれない。
だが声を掛けられた旧知の青年は笑うでもなく、以前の彼らしく強気な口答えをすることもない。
ぼんやりと何もない空間を見つめる濁った目は、宵の空を写して一層青みを増して見えた。青年は元から青い目をしていたが、今の色はもっと緑を濃くしたような、男と同じ魔晄の色だった。
「う。……あ」
力なく垂れていた頭が動き、一瞬正気を取り戻したような目で男を見つめ、すぐに夢の中へ駆け戻っていった。
「奴らは来てない。安心しろ」
金髪の頭を撫でて、男は彼から反らした顔を歪めた。
どうして、どこで誤って、こんなことになってしまったのか。
自問自答を繰り返しても、無駄な作業であると分かっているのに、気付けばそこに戻っている。
ただ目の前にいる青年の姿を見ているだけで、後悔は限りなく膨らみ、なんとかこの過ちを正したくなる。
完全に自失している青年を支えて、幾度も遭遇する小隊規模の追手を避けても、肉体的には殆ど苦痛がない。皮肉なことに強化手術を施され、繰り返し行われた人体実験と、計画的に投与された栄養分が、巨大な試験管に長い間拘束された彼らに、逃亡生活に耐えうる体力を与えていた。
だがそれもひと月も過ぎると、精神的な疲労は如何ともし難い。
この道中次第に明らかになってきた事実は、男に重く圧し掛かっている。
それでも、男は友人を見捨てようという気は起こさなかった。
ささやかな幸せに不平も零さず、幼さの残る小さな手で銃を握り締め、必死で他人をも守ろうとしていた彼が、今は男よりもずっと多くのものを失い、自分自身さえもなくそうとしている。
彼が不憫でならなかった。
そんな彼を置いてはいけない。
目は開いているものの、その瞳は遠くを見つめているようにも、何も見えていないようにも思えた。時折声を発するが、獣じみて言葉にはなっていない。脱力した四肢も、生まれたばかりの赤子のようにぐんにゃりとして、白い面が哀れみをより一層掻き立てた。
「今日はここで休もうな」
捩れた大木の根元に青年を横たえる。
自分が何者なのか、ここがどこであるのかも、恐らく理解していない彼は、それでも男が離れようとすると悲しげな声を発し、男の腕に縋りつくことがあった。
こんな風に彼が他人を頼るのは、かつてはありえないことだった。
彼の髪を宥める手付きで撫で、眠りに就かせることは日課になっていた。すすり泣くような声を上げながら、それでも目を閉じるように言えば、青年は従った。
赤い目元に睫毛の影を落す青年を見ていると、男はいつも自分自身を殴りつけたくなる。
どうしてあの時、事件を止める力を持てなかったのか。
そもそも何故あの村に行ってしまったのか。
そんな後悔が疲労を倍増させる。
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* * *
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クラウドは支えられて歩いている間も、その殆どを夢の中で過ごしている。
そして何かのきっかけで、突然正気に戻ることもあった。時間としては短いが、きちんと以前のように会話もするし、正気ゆえに苦しみ、涙を見せたりもする。
それは、彼らが長期間拘束されていたポッドの中でも同じだった。
初めてザックスが覚醒したとき、ポッドのガラスの向こう側には見覚えのある風景と、白衣を着た女性の研究員が見えていた。
そこは、戦友であり、上司であるセフィロスが狂気に囚われた―――ニブルヘイムの村はずれにある、神羅屋敷と呼ばれていた建物の地下室だった。
ザックスの入れられたポッドは、数多くある部屋のひとつに据えられており、隣にもう一つ同じ規格のポッドがあった。
その中に入っているのがクラウドだった。
クラウドの胸の中央には、以前はなかった刀傷がくっきりと浮かんでいた。液体の中で眼を閉じたまま何の反応を示さず、ガラス越しにその姿を見た時、死んでいるのだと男は絶望した。だが暫くすると、クラウドはポッドの中で眼を開いたり、唇を動かしたり、肉体反応を示し始めた。
研究者たちの声は聞こえないため、自分とクラウドが、なぜこのようにポッドに入れられたのか、その経緯もよくわからなかったが、長い間そうしていれば見ているだけで読み取れる事実もある。
つまり二人は、ニブル魔晄炉での事件で死にかけるほどの傷を負い、その後なんらかの施術を受け、奇跡的に生き延びたのだ。そしてそのまま被験体として拘束され、ポッドに縛り付けられているという訳だ。
ポッドは円柱型の大きなもので、完全に密閉されている。
内部は少しとろみのある水のようなものに満たされて、それがあのニブル魔晄炉の中で見た、モンスターを入れたポッドと同じだと、男は気付いた。
自分達は高濃度の魔晄に浸されているのだ。
恐らく身体の自由を奪うために、麻酔剤のようなものが入っているのか、それとも魔晄そのものに昏睡させる何かが含まれているのか、男でさえ眠っている時間が長い。
以前ソルジャー試験の検査で、魔晄に対して反応過多と言われたクラウドは、魔晄中毒を引き起こしているかもしれないと、男は思い至った。
魔晄中毒は魔晄に過剰に触れた時、人間や高等生物が引き起こす症状を言う。
中毒とは通称で、別に魔晄への依存症が出るというものではない。誰かに聞いた話によれば、言語、記憶、運動中枢の伝達に障害を受け、重度になれば完全な植物状態に陥ることもあるらしい。治療法は未だ発見されてないという。
ソルジャーは魔晄照射をされるが、クラウドは以前検査でソルジャー不適合とされた、その原因がこの魔晄への反応値の異常だった。
不安に駆られた男は、分厚いポッドの内側から彼の名を呼び、ひたすらガラスを叩き、そこに指先で文字を書いてクラウドに話しかけようと試み続けた。
そして何度目か、クラウドは初めて男の名をその指でガラスに綴ったのだ。
『ザックス』
『気付いたんだな。よかった』
緩慢に動く指先が人の名をつづった。
『セフィロスは』
青年がそれを聞くことは予想できたが、あの時負傷したザックスは、自分を刺し、去っていくセフィロスの背中を見たのが最後で、それ以降は完全に意識をなくしていたのだ。
あの男の行方を知っているとしたら、それはクラウドの方であるはずだった。
『どこに?』
『わからない。お前は見なかったのか?』
ザックスの問いにクラウドは考えるような素振りを見せ、しばらくすると目を閉じた。
目を開けているのに疲れたのかと思ったが、歯を食いしばり、白い全身を痙攣させるのがガラス越しにも見て取れた。
クラウドのポッドに付いた計器が、赤いランプを点滅させ始めた。それと同時に離れていたはずの研究員らが飛んでくる。慌てた様子で薬品のアンプルを取り出し、チューブに繋げる。
チューブの先はポッドの中のクラウドだった。
数分すると痙攣は治まり、おとなしくなったクラウドは薄目を開けたような状態で、唇もわずかに開き、全身を弛緩させて全く反応しなくなる。
この濃度の高い魔晄に晒されていることが原因なのか、それともあの男のことが原因か、青年が精神の安定を欠いているのはザックスにも分かった。
目的がわからない実験のモルモットにされ、長い間ポッドに浸され続けたザックスが外気に晒されたのは、研究所から逃亡を図る四週間ほど前のことである。
恐らく実験の方針に変化があったのだろう、魔晄のプールから出され、普通の食事を与えられるようになった。
最初は重湯のような流動食だった。
スプーンを持つ手がまともに動かないことに焦れて、それ以降はポッドの中でもリハビリする術を覚えた。
魔晄の溶液は水ほど浮力がなく、水ほど抵抗がない。濃い水蒸気の中にいる感覚に近い。呼吸はできるため、筋力をつける程度の動きは、狭いながらもポッドの外と違いがないことが分かった。
食事のためポッドの外に出されるたび、ザックスは出入りする研究員の人数、壁に掛かったカレンダーや近くに置かれた新聞を盗み見ては外界の様子を探り、監視の目を盗んで体力を取り戻す努力を怠らなかった。
クラウドと会話するチャンスも期待していたが、接触を避けるためなのか同じ時間には外に出されず、出されたとしてもクラウドはほぼ放心状態で言葉を交わせる状況ではなかった。女性の研究員が椅子に座らせたり、研究室の中を歩かせたり、努力はしているようだったが、せいぜい二、三歳児の運動能力である。
ザックスの身体は不思議と衰えていなかった。筋肉は日常生活に支障が出るほどに落ちていないし、脂肪もついている。ただ、身体を動かす神経が衰えきっているのだ。
研究室のカレンダーから推測するに、あの魔晄炉での事件があってから、五年近く経っているのである。
ザックスはどこにいようと、何をさせられていようとも、ひたすらここから抜け出す方法を考え続けた。
時間は膨大にあった。
何としてでも、なるべく早く、クラウドをつれてここから逃げ出さなくてはならない。
例え、人道から外れた行いを続ける企業の犬であっても、戦士であろうと生きたザックスにとって、ここに拘束されることは獣以下の扱いで、耐え切れるものではなかった。友人であるクラウドがそうされるのも、我慢がならない。
機会を窺うザックスが逃げ出すとは思っていないのか、比較的研究員たちの監視が薄いことが、脱出の実行をより早めることとなった。
その日、珍しくポッドの中で目覚めたクラウドははっきりと目を開き、ザックスを見た。無論声は届かないが、今は正気らしい視線だった。
丁度ザックスの食事の時間が近いことは、時計を見なくとも空腹の具合で分かる。今日こそが実行の日かもしれないと、ザックスは思った。
指先でガラスの内側に、クラウドからも見えるように文字を綴る。
『クラウド。わかるか?』
クラウドは頷き、その動きに追随してつきまとうチューブを、嫌そう避ける。
『逃げたい』
『ここから、出たい』
クラウドは、ザックスと同じようにガラスにそう綴ると、唇を噛み締めた。
顔がくしゃりと歪み、涙は見えなくとも泣いているのが分かる。殆どの時間、正気を失っている青年にしても、ここの扱いはあまりに屈辱的なのだろう。
『エサの時間がチャンスだ』
『それまで正気を保っておけ』
だがクラウドは頷かず、白い手の平がガラスに縋り、そのまま握り締めた。
『置いていけ。オレは足手まといになる』
ザックスは首を横に振って見せた。
『ここの人間を皆殺しにしても、絶対に連れていく』
そう綴ったところで、人の気配に顔を上げた。
扉の向こうから誰かが近づいてくる。扉を開け、その手に食事のトレイがあるのを見て、ザックスは内心ほくそ笑んだ。クラウドは慌てて目を閉じ、どうやら意識のない振りをするつもりらしい。
「お。起きてたのか。エサの時間だぞ」
声を掛けてきたのは度々食事を運んでくる男で、研究員の中でもわりと大柄の一人だった。
男がポッドの横にある機器を操作すると、ポンプが動いてポッドの中の溶液が排出される。そしてポッドの中程がぱくりと後ろに開いて、そこから出られるという訳だ。
チューブの類が外されてから、ザックスは自力でそこを跨ぎ越した。
魔晄の溶液はどういう仕組みなのか、出た途端に肌を滑り落ちて、水に濡れたようにはならない。他の物質に例えるなら水銀のように、空気に触れた途端、肌の上を玉になって滑り落ちていく。
ポッドの中では全裸だ。外に出る時には一応手術着のようなローブをあてがわれ、それを羽織って目の前のテーブルの隅で食事を摂る。
大人しく従って椅子に腰掛ければ、大抵の研究員は疑うことを知らないように背を向けて本を読み始めたり、居眠りする者もいた。この男も例外ではなく、暫くクラウドを見つめていたと思ったら、ザックスの向かいに座り、横の書棚から抜いた本を読み始めた。
彼は来るたびにクラウドを舐めるように見つめるので、ザックスはいつも不快な気分にさせられる。
「随分食えるようになったな。今日のスープはオレも同じものを飲んだぜ」
「口に沁みる。でも、ウマいな」
ミネストローネのようなトマト味のスープは酸味があり、舌がひりひりした。
「肉が食いたい」
ザックスが本音で言った注文に、研究員はまだ無理だと笑った。
「お前はもうすぐ外に出られるかもな。とはいっても、本社の研究室だろうけど」
「前に来てた女の研究員はどうしたんだ」
「彼女は―ここを外された。何かあるのか?」
「いや。どうせならムサい野郎の顔より、女性の方が和むじゃないか」
「まあ、そりゃそうだな」
こんな風に研究員と世間話をすることは、ザックスは初めてだった。少しでも外の様子が知れればいいという発想だが、あまり話し込むといざという時容赦してしまうかもしれない。
会話を止めて食事に専念していると、研究員は開いた本に没頭し始めた。
ザックスはあらかたスープを飲み終えた。
「おっと…」
手からすべり、抜け落ちたスプーンはテーブルの上で跳ねて、研究員の方へと転がり落ちた。
「ん? なんだ、まだうまく掴めないのか」
読みかけの本を裏返して置き、研究員は落ちたスプーンを拾おうと身をかがめた。
ザックスは音もなく立ち上がり、彼がスプーンを拾って身を起こした時にはテーブルを乗り越え、その喉元を掴んでいた。
片手は首を締め付け、もう片手は声を止める為、研究員の口元を覆った。
驚愕に表情を固めたまま、手を外させようとザックスの手首を掴むも、普通の人間の力でどうにかなるソルジャーの膂力ではない。
「この上の階には何人いる?」
口は塞いでいるので答えようとしても不可能だろう。
「二人か? そうなら頷け。言っとくが、ちょっと力間違えたら、あんたの首折れるからな」
研究員は硬直したまま動かなかった。
「三人か?」
漸く少し頭が動き、肯定したことが分かった。
「外に見張りはいるのか?」
今度は頷いた。
「規模が知りたい。詳しく教えろ。……助けを呼んだりしたら、声が出る前に一生テメエの声とさよならすることになるぞ」
研究員が慌てて数度頷いたので、ザックスはゆっくりと掌の力を緩めた。
「外の見張りはどれくらいだ?」
「屋敷の……外は、軍部が張っている。多分、常駐しているのはニ、三人だ。おまえ、逃げる気なのか?」
恐る恐る聞いてくる研究員は、そうザックスに問い、微かに視線をクラウドの方へと移動させる。
「クラウドも連れていく。オレは確かに神羅に食わせてもらって来たが、てめえの身体まで好き勝手にさせるほど、義理堅くねえんだよ」
「おまえはともかく、そっちの……コードCはもう無理だ。もう中毒症状からは立ち直れない」
「中毒って、やっぱり魔晄のか?」
研究員は無言で頷いた。
「なんで、クラウドはこんなになっちまったんだ?」
「元々、コードCは魔晄の反応過多の傾向があった。だがお前達は強化手術をされたから、魔晄にも免疫が出来ると思ったのに、コードCはやはり……無理だったんだ」
「強化手術って、ソルジャーのか?」
研究員は自分が口を滑らせたことに気付いたように、はっと目を見開いて押し黙った。
何かがおかしい。
そもそも二人がここに拘束され続けたこと自体が、神羅にとって異例ではないのか。
なぜミッドガルの科学開発部ではなく、このニブルヘイムの地下施設などで行われているのか。
もしかすると、ここで研究している内容は、神羅の中でも特定の人間だけの極秘事項にされているのかもしれない。
「クラウドを出せ」
首を掴んだまま計器の前に男を引き立て、クラウドの入ったポッドを操作させた。
ボコリと大きな音を立ててポッド内の溶液が排出され、胸の下まで水位が下がったところでクラウドは目を開いた。繋がれたチューブを忌々しそうに自分の手で引きちぎり、項垂れた前髪をかきあげている。
ポッドが完全に開き、這い出してきたクラウドを見下ろして、ザックスは息を飲んだ。
「クラウド。お前」
ここに縛り付けられている間に、ポッドに入る以前のザックスと同じ歳になったクラウドは、幼さの残っていた頬は肉が削げ、身体の丸みも失われている。目ばかりが大きかった顔立ちが随分変わった気がしたが、最も感じた違和感はその瞳の色に、だった。
「目が」
「え?」
自分で見える訳でもないのに、クラウドは掌で片目を覆った。薄暗い地下の研究室で、微かに発光する目の反射が掌をほんのり染めた。
「魔晄の色に」
魔晄に浸されている時には分からなかったが、クラウドの目は、ソルジャーと同じ瞳の色になっていた。以前はもっと空のような青さだったはずだ。
やはりソルジャーへの改造を施されたのだろうが、ミッドガルには既に何千人かのソルジャーがいるはずだ。
今更ごまんといるソルジャーの内、自分たちだけをここに繋ぎとめて、何を研究しようというのか。
そして、何故研究員は口篭もったのか。
「オレたちは、一体何をされたんだ? ただソルジャーの強化手術をしたんでも、魔晄に浸しただけでもなさそうだな」
「それは」
ザックスは、全裸の自分を抱えるようにして立つ友人の瞳の色を見つめたまま、研究員の首を掴む手に力を込め、続けた。
「折られたいか? 言っとくが、さっさとここを逃げ出したいんでな。時間はないんだ」
「お、お前たちは、リユニオンの実証実験の……サンプルだ」
「リユニオン? なんのことだ」
「ソルジャーたちは、ジェノバ・オリジナルの細胞を植えられているが、お前たちは、セフィロスの細胞を移植したんだ」
セフィロス、と男が口にした途端、視界の端でクラウドが大きく肩を揺らした。
だがザックスもまた、男の言葉の意味に愕然とした。
ジェノバといえば、セフィロスが『母』と呼んだあの古代種のことだ。
ソルジャーたちがその細胞を移植されているというのも初耳だったが、あの『セフィロス』の細胞を植えられた事実が意味を示すのか、ザックスには分からなかった。
「オレたち以外にも同じ実験をされた奴がいるのか?」
「知らない。僕はここ以外のことは」
必死に頭を振る男の言葉は、真横に立っていたクラウドが上げたうめき声に中断された。
前のめりに頭を下げ、床に膝をついたクラウドは、自分の両腕で抱えた肩を小刻みに震わせている。
「どうした、クラウド」
「セフィロ……う、して」
浅く、荒い息の合間に、搾り出すようにそう呟いて、クラウドは床に倒れ込んだ。
「クラウド!」
咄嗟に男の首から手を離し、抱き起こしたクラウドの目は不自然に見開かれ、魔晄に褪せた青緑色の瞳は、見覚えのある形に変化していた。
ドラゴンやモンスターと同じ―いや、あの日我を失った視線で、ザックスたちを見下ろしたあのセフィロスと同じように、縦に細長く伸びた瞳孔は、目の前の男を写しているのに遠くを見ているようで。
声を発することなく動き続ける唇が、繰り返しあの名を呟く。
支える腕を握りしめる白い指の力は、ザックスをしても振り払うのが困難な強さだ。
「貴様ら、クラウドに何を……オレ達に何をしたんだ!」
睨み上げた先に座り込む研究員は、頭を横に振り、じりじりと後退りをするばかりだった。
「きちんと説明しろ。セフィロスの細胞ってのはどういう事なんだ」
「僕のせいじゃない! そいつは…コードCは魔晄中毒になっただけだ! 実験とは関係ない!」
「関係あんだろうが。魔晄漬けにしたのは、あんたたちだろう!」
「許してくれ……殺さないでくれ」
床の上で身体を抱え、ブルブルと震えてザックスの怒りに怯える研究員を見て、ザックスは突然戦意を削がれた。
今ここで問答することは無駄だった。例えどんな内容の実験でも、このままここに居続ければ、研究員らの玩具にされることに違いはない。
暫くするとクラウドの乱れていた呼吸が落ち着き、唇が動かなくなり、その代わりに完全に四肢が脱力し、力なく半ばまで落ちた瞼の隙間から生気の感じられない目の光が漏れる。
ポッドを背もたれにクラウドを寄りかからせ、ザックスは脱出の準備に取り掛かった。
部屋の端で震えている研究員を、その辺りに這っていたコード類を引き抜いて後ろ手に縛り上げ、重そうな機材の一部に繋ぐ。白衣の袖をなんなく引き裂いて猿轡を噛ませ、首の後ろに手刀を入れて昏倒させた。
クラウドが正気であれば、その手際のよさを褒めたかもしれない。
周囲を物色していると、部屋の端にあるロッカーから、以前ザックスやクラウドがこの村へ任務に訪れた時、所持していた荷物や剣が見つかった。逃げ出すなら一般兵の制服の方が都合が良さそうだが、以前のクラウドのものでは小さすぎる。ザックスの鞄にあった、ソルジャーの制服しか、二人が身に着けられそうなものはなかった。
「しょうがねえなあ」
年月を経て、かび臭くなった服を身に着け、替え用に持って来ていたもう一着を手に、クラウドへ近づいた。
「ちょいと匂うけど、我慢しろよな」
まるで乳幼児のように、首さえまともに据わらない青年に服を着せるのは、大仕事だった。靴だけは二足もないので、五年前の小さいものを無理に履かせることになったが、何とか外へ出られる姿になり、ザックスは立ち上がった。
荷物の残りを漁り、使えそうなものを引っ張り出す。ポーションなどの薬品が数点、着火道具など、全てこの村に来たときのままになっていた。必要なものをポケットに詰め込み、ミッション用に所持していたマテリアを剣に装備した。
握った剣を斜めに振り払い、まだ掌から戦う術が失われていないことを確かめる。
むしろ以前よりも剣が軽く感じられた。
思わず口元に笑みが浮かぶ。
「さあ、行こうか。クラウド」
背につけたホルダーに剣を背負い、ザックスは横たわるクラウドに手を伸ばした。
片腕を肩に廻させ、まだ細さの目立つ腰のベルトあたりを掴んで引き上げる。背も伸びて胸の厚みも増したクラウドを抱えるのは困難と思われたが、思ったよりもずっと軽かった。
セフィロスの細胞を移植された事がどんな意味を持つのか、ザックスには想像できない。だがそれによって力が増したのであれば、今はむしろ好都合だ。
扉を開け、恐らく数年ぶりになるだろう部屋の外に踏み出す。
岩盤を削っただけの通路も、所々に明かりが灯されて歩くに支障はない。
流れて来る外気に触れた瞬間、クラウドが僅かに顎を動かしたのが分かった。窺い見た青年は正気に戻った様子ではなかったが、ザックスは彼の声を聞いたような気がした。
『ここから逃げ出すって、何か計画があるのか?』
思わず口元を笑みに歪める。
クラウドはあのセフィロスに似て、意外と合理的なことがあり、無鉄砲なザックスは年下の彼にそれをたしなめられることもあった。
「計画なんてあるわきゃねーだろ。敵に遭ったら倒すだけさ」
『あんた、変わんないね』
「ちょいと身体いじられたくらいで、変わってたまるかよ。まあ見てろって」
丸い塔の壁を螺旋状に這う階段に足を乗せて、ザックスはクラウドをもう一度抱えなおした。
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外界の空気を吸い込んだザックスは、同時に少なからず驚愕していた。
瓦礫の山を想像していたニブルヘイム村は、まるで何事もなかったように静けさを保ったままで、夕闇に木造や煉瓦造りの町並みを晒している。
あの日、頬や髪を焼いた炎獄の記憶が間違いのはずはない。
不自然なほど年月の経過を感じない建物の外壁が、以前の村を模して作り直されたものだと訴えていた。五年の間に復興したのなら、朽ちた表面を晒す給水塔は古すぎるし、村の入り口に放置されたトラックは撤去されただろう。
神羅は、英雄セフィロスの乱心により村が壊滅した事実を隠蔽したのだ。
今のこの村は、撮影した写真を真似て作り上げた、広大な撮影セットのようなものだった。
ザックスは、屋敷の中で遭遇した三名の研究員を全員縛り上げ、屋敷のすぐ外をうろついていた二名の神羅兵にも眠ってもらい、屋敷の中に放り込んだ。そう長くはもたなくとも、通報されるまでの時間稼ぎにはなるだろう。
夕餉の支度の匂いが立ち込める村の広場は静かで、二人の脱出に気付いた様子もない。
ザックスはクラウドを支えたまま、給水塔の下を通り過ぎ、村の入り口に停車してある大型のサンドバギーを失敬することにした。
他の兵士に遭遇すると踏んで警戒しながら進んだものの、村人ひとり見当たらない。どこに神羅の息のかかったものがいるか分からないが、気配を探っているのが馬鹿らしいほどのどかな様子だ。
だがバギーの後部席にクラウドを下ろし、キーを探して運転席を物色していたザックスは、視界の端に少女の姿を見つけた。
近くの森で遊んでいたのか、茶のおかっぱ頭の少女は立ち尽くしてザックスを物珍しげに見つめている。
「早く家に入らないと、暗くなるぞ」
運転席のシートの下についたラックからキーを見つけ、何事もなかったようにエンジンを掛ける。
少女は乗り込んだザックスに近づき、じっと見つめてきた。
「お兄ちゃん、神羅の人?」
一瞬答えることを躊躇ったザックスは、少女が小さな手に抱えたボールを見て、頷いた。
「ああ。そうだ」
そのボールには見覚えがあった。
神羅が戦後の救援物資として配給していた、白いゴムボールだ。
「このバギー、兵隊さんのでしょ。お兄ちゃんたち兵隊さんの制服じゃないよね」
「オレたちも兵隊さんだよ。この制服は、普通の兵隊さんより偉い人が着るやつだ。これから仕事に行くんだ」
「ふうん」
いぶかしげに後部席のクラウドを見つめたが、ザックスは追及される前にバギーを発進させた。
「じゃあな」
満面の笑みで手を振って、のんびりバギーを南へ向けて走らせる。
肩越しに見た少女は短く手を振って見送り、スキップで村の中に入っていった。
あんな小さな子供にまで、不審者を疑うように教え込んでいるということは、恐らく村全体に神羅の息がかかっている。
程なくして異変に気付いた村人が、神羅屋敷で昏倒させられた兵士や研究員に気付くだろう。徒歩よりもバギーのが楽かと思われたが、バギーでは地面に深いわだちを残すことになり、追跡もまた容易である。
ザックスは村から少し離れた場所から速度を最大に上げ、ニブルヘイムから最も近いロケット村に向った。
ロケット村までなら半日かからず着けるはずだ。
そこで当面必要なものをなんとか手に入れ、そこからは徒歩で逃げるのが良策だろう。徒歩ならば足跡も追いにくく、深い森や林に潜むこともできる。
振り返った後部席には、クラウドが丸まって眠っていた。目が閉じていると、未だに少女のような可憐さを残す顔は、安らかに見えた。
ふと口元を笑みに歪め、すぐ正面に戻した薄闇を見据えて、バギーのアクセルを更に踏み込んだ。
月が中天を越えた頃、ザックスは遠くに村の灯りを見つけた。
ニブルに向かう途中で立ち寄った当時の賑わいを裏切り、今は慎ましいほど僅かな数の灯りだ。
宇宙開発の村として知られるロケット村は、多くの研究者や技術者を抱えており、大層栄えていた。美しい星空を黒く切り取る発射台には、以前はなかったロケットが据えられて、今にも飛び立ちそうな存在感である。
いや実際には、これを飛ばすことは叶わないに違いない。以前はまっすぐに天空を向いていたロケットは、まるで支えを失ったかのように、発射台から斜めに傾いで固定されていた。
ザックスたちが薄暗い地下に閉じ込められていた数年の内に、打ち上げ実験は失敗したのだ。
そのまま計画が頓挫し、処分もされずうち捨てられたことを、風雨にさらされ、埃にまみれてくすんだロケットの外壁が物語っていた。
昔のように、昼夜問わず人の行き交う町ならば、今ザックスが紛れ込んでも目立たない。
だが神羅軍が、神羅屋敷での異変に気付く頃だ。バギーを奪った時点で、逃亡者がロケット村へ向かったことは、どんな馬鹿でもさすがに想像が容易い。
躊躇しても仕方がないと判断したザックスは、村の近くの林の中にバギーを止め、後部席で眠るクラウドを車内にあった毛布で覆って隠し、村へ向かった。
村の入り口に詰める兵士の影を避け、ザックスは生垣をかきわけ、直接道具屋の敷地にもぐりこんだ。
以前何度か訪れていたこともあり、村内の配置に詳しいことが幸いした。
店は当然閉まっていたので、裏口らしい扉を叩いた。
下手をしたら店の人間に通報されかねない。僅かに走る緊張をよそに、暫くして寝巻き姿の初老の男が出てきた。
ソルジャーの姿と背中の大きな剣に一瞬眉を顰めたものの、小声で雑貨を分けてほしいと告げれば、無言でザックスを店内へ促した。
商品の陳列棚の前に立つザックスに、店主らしき親爺は何も言わない。品を選ぶ間も、カウンターの内側で寝巻き姿のまま立っている。
携帯食、マッチ、薬品など、以前の荷物に入っていたものは、年数が経ちすぎて使えない可能性が高い。
思いつくまま素早く選んだ品をカウンターに置くと、店主はそろばんを弾いて、それを差し出してきた。
「どうして何も聞かないんだ、親爺」
研究員たちの懐から抜いてきたギルで代金を支払いながら聞けば、親爺は片方の眉をほんの少し上げて、ぼそぼそと口を開いた。
「聞いてほしいのか」
「……いや」
「夜、珍しく兵士たちが押し掛けてきた。ここのところ、この村にはずっと、ロケットの警備以外、兵士の姿はなかったんだがな」
ロケット開発が進められていた以前は、ここは住人の殆どが神羅兵をふくむ神羅社員とその家族だったと言っていい。テロや独立を狙う他国のスパイが潜入するのを防ぐ効果もある。
傾いたロケットが語るように、開発が中断されたと同時に、兵士や社員たちも引き上げたはずだ。それが戻ってきたということは、やはり自分たちの逃亡が、軍部に伝わった可能性がある。
「お前さんが移動すれば、やつらも、とっとと撤収してくれるだろうよ」
「そりゃあ悪かったな。今何人くらいの兵士がいるかわかるか?」
示された代金の上にもう一枚紙幣を重ねた。
「常駐してるのは一小隊、今日来たのも一小隊だな。あとはしらん」
「そうか。ありがとな、親爺」
ザックスは買った品をポーチやポケットに納め、来た時と同じようにカウンターの内側を通り、裏口の扉に手を掛けた。
ヘリコプターが急速に降下してくる音がして、外の兵たちが騒ぎ出したのは、丁度その時だった。
膝丈の草地が続く平坦な場所は、よくも悪くも見通しがいい。
灯り一つない場所を、サーチライトで照らしただけで、神羅のマークをつけたヘリコプターは難なく着陸した。軍用の攻撃装備をつけた大型のものではなく、プレジデントや上層部が移動に使うヘリの一つだ。
ヘリが完全に停止する前に飛び降りた人物の姿が、生け垣の下に身を潜めたままのザックスにも良く見える。黒いスーツにサングラス、スキンヘッドの大柄な容貌には見覚えがある。タークスのメンバーの一人のはずだ。
ヘリのローターが次第に静止し、村の入口で騒ぐ兵士たちに一直線に歩み寄ったタークスが、部隊長を呼べと一言告げたのが、ザックスの耳にも届いた。
タークスとは、神羅の諜報や政治犯の抹殺など、裏の仕事を一手に受ける組織だ。
それらを統括するのは、現プレジデントの息子ルーファウスで、軍上層部のハイデッガーや兵器開発のスカーレットとは基本的に仲が悪い。軍の所属にあるソルジャーがタークス、しいてはルーファウスの元で動くこともあったが、それについてハイデッガーが不平を漏らすのを幾度も耳にしたことがあった。
今回、ザックスらの処遇は、科学開発部の管轄であると思われた。
他の部門にも秘密裏に行われる活動が多い科学開発部の問題となると、軍部よりもタークスが動く可能性がある。
村の兵士が増員されたのも無関係とは思えないが、タークスがここに来たことで、本格的なザックスらの捜索が始まるのは間違いなかった。
急いでクラウドの元に戻らなければならない。
だが、バギーを隠した林とザックスの間に、丁度タークスのヘリが着陸している。ヘリの操縦者に発見される可能性を考えると、バギーの場所まで辿り着くには、ヘリを大きく迂回する形で回り込まねばならなかった。
タークスの到着を聞いてか、村に派遣された二小隊の兵士たちが集まりつつあった。部隊長らしき士官が進み出ると、サングラスのタークスが低く、よく通る声で告げた。
「目標は成人男子二名、うち一人は元ソルジャーファースト、もう一人は元一般兵だ。この周辺に潜んでいる可能性が高い。可能なら確保、抵抗するなら生死は問わない」
兵士たちは一瞬どよめいた。
「どうしてタークスが軍部の人間を探すんだ?」
「それは君が知るべきことではない。ハイデッガー統括の許可は得ている」
「私たちの隊は上官からの命令書がなければ動かない。命令書はどこだ」
「これは緊急事態だ。望むなら、直接ハイデッガーに電話を繋ぐか?」
有無言わさぬタークスの態度と、従わざるを得ないらしい隊の様子からも、勢力の図式は明らかだ。
返答に詰まった部隊長の体を軽く掌で押しのけるようにして、スキンヘッドの男は町の中央通りへ目を走らせている。とはいえ、この夜間にあれだけ濃いサングラスをしていると、彼の目の動きなど兵たちからは見えないだろう。
「わかった。統括が了承済みだというなら、タークスの指示に従おう」
巨体のタークス員に睨み下ろされても、部隊長はひるまなかった。
「だが、軍部所属の逃亡者だというなら、タークスに指示されて行うべき粛正ではないだろう。そもそも軍部の領域で、軍法会議にかけるべきじゃないのか」
「元ソルジャーと元一般兵だ。今はもう軍籍にはない」
タークスは、端から兵士たちの相手をまともにするような性質の男ではなかった。
食い下がった部隊長も、今度は大人しく彼から逃亡者の資料を受け取り、その紙面に目を走らせていた。
ザックスが着陸したヘリの背後に回り込んで、茂みの中を移動し始めたのと同時に、部隊長から指示を受けた兵士たちが一斉に散った。
タークスの登場に興味をひかれ、立ち止まったことを悔やんでも遅い。
ちょうどバギーを止めたあたりの林へ、分け入っていく兵士二人の姿が見え、ザックスは舌打ちした。
バギーは決して小さなものではない。夜の闇に紛れているとはいえ、兵士たちでもすぐに見つけることは出来るだろう。
ザックスは自分が発見されることを覚悟して、林の中を全速力で走った。静かな田舎村のはずれに、その物音は異常に大きく響いた気がした。
「誰かいるぞっ!」
広場に散った兵士の一人が、気づいてライトを向ける。ライトに照らし出されたのが、揺れる枝だけでも、そこに兵士たちが集まってくればザックスに分があった。
岩を飛び越え、腰丈の木々をかき分けて走った。
枯れた枝が顔や腕に刺さるのを押しのけ、ようやくバギーの見える位置までザックスが到達したとき、二人組の兵士が枯れ枝を被せて隠していたバギーの後部席を、覗き込む後ろ姿が見えた。
クラウドにソルジャーの制服を着けさせていたのが、効を奏したのかもしれない。
クラウドに注視しているらしい兵士たちは、長銃の銃口を向けて、固まっていた。
その制服の通りソルジャーであるなら、警告で発砲する一、二発の銃弾では倒れないことを、兵士たちも知っているのだ。
ザックスは走り寄りながら、背の剣に手を掛けた。
無線機を取り出した兵士の動きを止めさせようと、その背後へ走ったザックスは、兵士の口から、報告の言葉ではない、くぐもった悲鳴のような声が漏れるのを聞いた。
上空へ吹き上げた血飛沫が、隣に立つ兵士と、少し離れた位置のザックスに降りかかる。兵士の半ばまで切断された首が、頭の重さに耐えかねて、後ろに反り返り、それを追うように身体も仰向けに倒れた。
仲間の姿を見下ろし、事態を把握した兵士がひきつった悲鳴を上げる。
これでは無線で連絡されなくても、広場にいる他の兵士に声を聞かれてしまっただろう。
ザックスは悲鳴を上げた兵士へと剣を向け、その背中の中央に刃先を押し込んだ。
絶命し、静かに倒れた兵士の向こうに、バギーの後部席にうずくまるクラウドの姿が見えた。
手足を座席につき、わずかにあげた顔の、長い前髪の隙間から、青緑色の両眼が異様な光を放っていた。瞳孔は縦に長く切れており、浅い、気配を消した呼吸が唇から漏れている。
右手には刃わたり二十センチほどの、軍用ナイフが握られ、クラウドの手首まで兵士の血痕で真っ赤に染まっていた。
このバギーに武器は置いていなかったので、足元に倒れる兵士の腰にあったものを、瞬時に抜き取ったものに違いなかった。
クラウドは明らかに正気でなく、動作もどこか獣じみている。頬と金の髪に、僅かに受けた返り血だけで、傷を追っている様子はない。
「クラウド」
呼び掛けたザックスの声に反応はなかった。
うっかり手を出そうものなら、ザックスにさえ襲いかかりそうな殺気だ。
クラウドは以前神羅兵士だったころ、ザックス、そしてあのセフィロスに鍛えられ、剣やナイフも一通り使えるようになっている。筋力はそこそこだったが、身軽で、瞬発力においては並の兵士のレベルを越えていた。
だが先程、兵士を倒した手際は、以前の彼の能力では説明がつかない。
クラウドが兵士に発見された時、即時の射殺を免れたのは、彼がソルジャーの制服を身に着けていたからだと思った。だが、同時に兵士たちも瞬時に警戒したはずなのだ。
距離を取り、安全装置を解除した銃口を向ける。
銃口を向けられれば、ザックスでさえ一瞬動きが止まるだろう。
その状況の中、兵士二人がトリガーを引く暇も与えず、兵士の腰からナイフを抜き、首を切り裂いて、戦闘不能にする。
そんなことは、『本当の』ソルジャーでなくては無理だ。
「こっちだ! いたぞーっ!」
異常な状態のクラウドを案じる間もなく、悲鳴を聞きつけた兵士たちが、ザックスらの方へフラッシュライトを浴びせた。
タークスを数に入れなくとも、二小隊約二十人を相手にしなくてはならない。どう処理をしていこうかと、一瞬踏み止まったザックスの脇を、身を低くした青年が音も立てずに通り過ぎて行った。
「クラウド、お前っ……!」
研究とやらで弄繰り回されたせいなのか、クラウドは明らかに以前とは違う。反射運動や武器を扱う技のスピードは、やはりソルジャーのそれに似ている気がする。もしかするとそれ以上かもしれない。
どこまで彼の力を信用していいのか戸惑いながらも、今はここを切り抜けなければならなかった。
しかも、元は共に戦った味方の兵士を相手にするのは、限りなく気分が悪いが、そうも言っていられない。
「畜生!」
ライトを片手に先頭を進んで来た二人組の兵士の側面から、クラウドが肉食獣の速度で飛びかかる様子が影になって見て取れ、同時に兵士たちから悲鳴が起こった。
「オレだってな、約束があるんだ! ここで死ぬ訳にゃいかねぇんだよっ」
己の大剣を振るうに有利な場所を目指して、ザックスは林を抜けて走り出した。
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ザックスは剣を主な武器としている。兵士にしても訓練はしているだろうがソルジャーとは比べるべくもない。五体の基礎体力や反射神経から、ソルジャーはそもそも人の域を超えているのである。
それでも己の肩までの長さがある大剣は、立ち木が並ぶ雑木林の中で扱うには向いていないのは明らかだ。
村の前の開けた場所で、敵を引き付け、大胆に剣を振り回すザックスとは対照的に、クラウドは林に潜んでザックスを射撃しようとする兵士らを、夜陰にまぎれて殲滅しているようだった。
クラウドは、もう守るべき存在ではなかった。
あの忌まわしい屋敷に閉じ込められる以前も、そんな言葉をクラウド自身に向けて言ったことはない。そんな考えを大っぴらにしようものなら、容赦なく反論反撃されるだろう。
だがザックスは、冷淡な振りをして懸命な、ひたむきな少年を本当の弟のように可愛がってきた。背が伸び、クラウドが以前望んでいたような強靭な肉体を手に入れた今でも、彼に対する親しみは変わらない。
彼自身が戦えるのなら共に戦い抜け、戦えないのなら担いででも逃げ出すだけだ。
「ソルジャー・ザックス。投降しろ」
二小隊から成る兵士たちの殆どを、戦闘不能にさせた頃、あのスキンヘッドのタークスがザックスの正面に立ちはだかった。近くで見ると恐ろしく大柄である。きれいに剃り上げた頭にちらりと目をやりながら、ザックスはふんと鼻で笑って見せた。
「オレたちが投降する理由はなんだ?」
「……神羅からは逃げられない」
「でも今は十分逃げられそうだな」
顎で林の方を示すと、いつの間にか銃声が止み、静まり返った茂みの中から、ゆっくりとクラウドが姿を現した。ヘリの周辺や広場にも十数名の兵士が倒れているが、ここにいないほぼ半分の兵士はクラウドが処理したのだろう。
ザックスはその事実に、少なからず恐怖を覚えていた。怖気づくというより、超常現象を見たような、そんな得体の知れなさがあった。タークスの男も、一般兵であったクラウドがここまで動けることに、衝撃を受けているように感じられた。
「クラウド・ストライフ」
村や停止したヘリの明かりが僅かに届く場所まで歩み寄ったクラウドは、顔の半分を返り血で汚し、らんらんと輝く青緑色の目でタークスの男を見つめていた。いや、見つめているだけではなく、明らかに男を次の標的として見定めたのだ。
「クラウド、待て」
友人の声に気付いたのか、ザックスのすぐ脇でクラウドは気配のない歩みを止める。数歩離れた隣で、彼から発せられる殺気が、ちりちりと肌を焼いた。
「タークスには聞きたいことがあるんだ。まだ殺るな」
ほんの少し殺気が緩んだ。
自分の声が彼へ届いていることに、ザックスは心中でほっと胸をなでおろした。
「話すことなどない。我々と一緒に来てくれ」
「従う理由がないね。大体どうしてオレたちが実験体にならなきゃいけないんだ」
「君たちはニブル山の魔晄炉で死に掛けた。命を助けるには仕方がなかった。そう聞いている」
「仕方がない……?」
ザックスは一瞬で間合いを詰め、男の首元に剣先を突きつけた。
「キレイゴトぬかすんじゃねぇよ。クラウドは今は動けてるが、魔晄中毒の症状が出てる。それでも魔晄漬けにしつづけて、命を助けるだと?」
避けることは出来なかった男も、怯える様子も、悲鳴を上げることもない。それだけはさすが訓練を積んだタークスだと云えた。
「大体セフィロスがおかしくなったのだって、神羅の上の連中が仕組んだことじゃねーのか?」
「―――彼のことは、不幸な事故だ」
「奴は……セフィロスは、神羅が『セフィロス』を作ったと言ってたぞ」
サングラスの奥の表情を完全に隠していたタークスは、片方の眉を僅かに動かして動揺を示した。
「君たちは、知りすぎた」
飛び退いてザックスの剣先が逃れた男は、ロッドを抜いて構えた。過去にも数度見たことがある、スタン効果のあるタークス特有の武器である。
「セフィロスの事件を知る者を、野放しにしておく訳にはいかない」
これ以上の話し合いは無意味だと、ザックスも剣を構え直した。ソルジャーファーストの中でもそこそこ鳴らしたザックスであるからか、タークスの男からは緊張が伝わった。肉体的にはタークスとソルジャーファーストでは、ソルジャーの方が大きく有利であることを知っているに違いない。
「セ、フィロ、ス」
対峙した二人の近くで、黙りこくっていたクラウドが、突然口を開いた。
「クラウド……?」
吹き上がった殺気が目に見えたように思えた。
だがその動きの経過は、ザックスにも殆ど視認できなかった。
獣の動作でザックスの脇から消えたクラウドが、次の瞬間に、巨体のタークスの男を押し倒し、両足で腹とロッドを持った右腕を踏みにじり、左手は男の頭の横について、完全に馬乗りになっていたのである。
「クラウド!」
「お前ら、に……邪魔は……せない」
右手の爪ならぬナイフを振りかぶり、押さえ込んだ大男の喉下に獣じみた動きで、刃を振り下ろした――――かに見えた。
数発の銃声と金属音が響き、クラウドのナイフは遠くの地面に突き刺さった。
「先輩の上から降りなさい、クラウド・ストライフ!」
予想外の声音は若い女のものだった。
これまで気配も感じさせなかった女は、ヘリの荷台に片足をかけたまま、両手で構えたオートマティックをクラウドへ向けている。小造りな色白の顔にまっすぐ切りそろえた金髪、戦闘員とは思えない細身の身体を、タークスの証といえるダークスーツに包んでいる。
若い女とはいえ、クラウドのナイフを弾き飛ばした射撃の確かさも、銃の構えも慣れた様子だった。
「生死問わずでしたよね。動けないくらいに撃っていいですか、ルード先輩」
「イリーナ!!」
タークスの男が叫ぶように呼ばわったのは、クラウドがすかさず男の身体の上から、名を呼ばれた女戦闘員の方へ飛び掛ったからである。
身体を横転させるように、容赦なく撃ち込まれた銃弾を避け、クラウドは彼女の懐に潜り込んだ。
だが引き金を引くだけの状態に構えていた彼女の方に、僅かに歩があった。
銃口が火を噴き、クラウドの右肩に至近距離で着弾した。
反動で背後に吹き飛ばされたクラウドも、只では倒れなかった。右足が彼女の銃を蹴り上げ、弾き飛ばされた銃は、とっさに走り込んだザックスが受け止め、次の瞬間形勢は再び逆転していたのである。
「クラウド!」
銃口をタークスへ向けながら、地面に仰向けに倒れたクラウドへ走り寄った。
右肩の銃創は背の方に貫通し、急激に広がる出血が地面を濡らしている。歯を食いしばり、息も荒く、左手で右肩を押さえるクラウドは、それでも両目だけは殺気を発して輝いていた。
「おぶされ! 早く!」
剣をホルダーに戻して、クラウドの左腕を自分の肩にかけさせて引き起こし、そのまま背負おうとするのにクラウドは大人しく従った。肩の出血は多く、背負った途端にザックスの背を温い血が流れ落ちるほどだった。
手にしたイリーナの銃で、硬直する二人に狙いを定めたまま、ザックスは唇を噛みしめた。
「これ以上追ってくるなら、オレたちも本気で排除するぞ」
「研究所に戻るなら命は取らないと約束しよう」
ルードと呼ばれたタークスは、言葉少なに静かに言うが、ザックスは無意識に笑いを漏らしていた。
「アレは生きてるって言わねーんだよ」
銃口を僅かにずらし、停止しているヘリの腹へ、マガジンに残った全弾を打ち込んだ。
装甲を破って燃料タンクが露出し、開いた穴から音を立てて燃料が噴き出し、流れ落ちる。
「ヘリが!」
イリーナが叫び、タークスの二人がそちらに気を取られた瞬間、ザックスはクラウドを背負ったまま脱兎のごとく逃げ出した。
彼らが顔を戻した時、二人の脱走者が逃げ込んだ繁みが、僅かに揺れているだけだった。
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月が沈む頃、やっと追手の気配を感じなくなった。
ヘリは足止めし、軍部の兵士たちは全員、死亡か戦闘不能になっている。バギーは捨て、幾つか川を渡ったので、犬を放ったとしても足取りは掴み難いはずである。
背負っていたクラウドを大木の根元に下ろし、上衣を脱がせて傷を検分する。運よく骨へ直撃はなく、骨折は避けられたようで、見かけは口径の小さな弾傷だったが、背中側の裂傷は目を背けたくなる酷さだ。
傷口を閉じ、血を止めなければこのまま死に至る可能性も高い。
「クラウド」
意識はあるようだが、返事はない。きつく瞑った目の睫毛と唇を震わせ、額や頬には脂汗が浮いている。痛みを堪えるように時折歯を食いしばった。
「しっかりしろ」
声をかけて励ましながら、ザックスはロケット村で仕入れてきた医療品を取り出した。
残念ながら、タークスの銃は全弾使ってしまったので、火薬で傷口を焼こうにもカートリッジは残っていなかった。
なんとか止血をして、縫合手術ができるくらいの設備のある場所へ連れていかねばと、クラウドを背負おうとしたとき、突然彼は両目を開いた。
「どうした?」
青緑色に輝く瞳の鮮やかさは、夜行性の獣以上だ。
また黒い瞳孔が縦に長く伸びる。動かせない右腕をかばうように、クラウドは上肢を起こした。
その動作は猫や豹のような動物が、身を起こす仕草に似ていた。
「おい」
一瞬、顔も身体も、血の気を失って青白くなっていたクラウドの肌に、さっと赤みが差したように見えた。苦悶していた表情が僅かに緩み、唇が小さな喘ぎをもらし、掠れた声でかの名を呼ばわった。
「セ、……ロス」
それは、紛れも無く情事の最中を連想させるような、官能的な響きだった。
なめらかな頬から上げた顎へ汗の粒が滑り落ちる。己の右肩を掴んだクラウドの、かきむしるように節を立てた左手の指が、肌に一層食い込んだ。
「ひと、つに」
切れ切れに、うわ言のような声を発しながら、起こした頭をつんのめる姿勢で地面に伏せ、額を擦りつけ、白い裸の背を丸めて悶える。
青年は苦しそうでいて、何か違う感情や感触を感じているように見えた。
前と背に流れ落ちた血で、真っ赤に染まった半身を、ただ支えてやることしか出来なかったザックスは、その時、青年の身体に起こった異変に、全身を強張らせた。
親指の爪ほどの大きさの傷は、肩先のすぐ下、右腕の付け根の中央を貫通していた。背中側では弾が弾けて、直径五センチほどの裂傷になっている。
だが丸めたその背が蠢くたび、生々しい赤い色をさらしていた裂傷が、次第に乾いた色になっていった。
全体が黄色っぽく変色したと思うと、今度はその範囲が小さくなっていく。
まるで逆回しで再生した映像を見ているようだ。
肩を支えてクラウドを起こしてみると、前面の傷口も次第に変化しているように見えた。
「いかな、いと……」
「……どこへ?」
「呼ぶんだ。セフィロスが」
幾分明瞭になった声で呟き、汗に濡れた顔を上げる。
その両目の不自然なまでの輝き、歓喜の表情、そして長い時間を共に過ごした時分から、急激に成長し大人びた顔は、ザックスのまるで知らない青年だった。
以前青年がセフィロスへ抱いていた感情ですら、ザックスは知っている。
幼さの残る小さな身体で必死にあの男を守ろうと、支えになろうとした。そのひたむきさは、純真な少女が静かに想いを寄せるに似た、無垢とも云える姿だった。
だが、ここにいる者は『違う』。
実験や魔晄のせいなのか、それともあの事件で受けた衝撃に、若い心が耐え切れなかったのか、あの時のセフィロスと同じ形の眼には、セフィロスと同種の狂気が宿っていた。
「あんたには……聞こえないのか?」
「クラウド」
「あんたもセフィロスを『持ってるのに』」
下から伸ばされたクラウドの指先が、すがるようにザックスの背後に回り、肩甲骨の辺りを触れた。
瞬間、全身を走った電撃に似た衝撃に、ザックスは不覚にも意識を失い、クラウドの上に倒れこんだ。
ザックスは声のような物音に意識を浮上させた。
だが身体は唇も、指先ひとつ動かすことは叶わなかった。
忘れていた直前の状況を思い出そうと努めながら、枯葉の積もる土の感触の地面に頬をつけて、ザックスは横たわっている。
確かロケット村から逃げ出して、クラウドの傷を見ようと足を止めたのが夜半頃、あの後突然、何かの衝撃が走って意識を飛ばした。
あの衝撃の正体もわからないが、なにより大怪我をしていたクラウドの様子が気になる。まさしく魔法の様に治癒していったのは夢でないといいのだが、先程の物音も、クラウドが傷の痛みにあげた声かもしれない。
ザックスは渾身の力で瞼を上げた。
手足はまったく言うことをきかなかったが、なんとか薄目を開けて確認できたのは、すぐ目の前に落ちた茶色い枯葉だった。
月明かり程度の視界はまだ夜明けを迎えていないようで、そうする内にフクロウの声や夜の獣の気配を感じ取ることができた。
そしてそれよりもはっきりと、人間の気配を近くに感じる。
気配というよりは、衣擦れと土を削る微かな音と、人の苦しげな息遣いだ。
ふと視界の端に、白い人間の足が映った。白い足は何かに絡みつくように蠢き、その動きに合わせて、荒い息が吐き出されている。
言葉にして思い浮かべるより早く、ザックスは頭にかっと血が上るのを感じ、次に事態を把握して衝撃を受けた。
クラウドが襲われている。
闇に溶け込む黒衣の人影が、夜目にも白い青年の裸体にのしかかり、開かせた足の間に大柄な身体を無遠慮に押し付け、蹂躙している。完全に裸の青年の足は、時折人影の背や足に絡みつくように動き、快楽と拒絶に震える吐息が唱和していた。
ザックスは頭蓋を殴られたような衝撃と共に、強烈な怒りを感じていた。
それは無体な暴力を振るう人影に対してであり、やすやすと襲撃者を受け入れたクラウドに対してでもあった。
制止の叫びを上げようとしても、唇は動かなかった。
二人の身体は映るが、顔は視界の外で、襲撃者の正体をそれ以上確認もできない。
奇妙なほど静かな交わいは、淡々と続いていた。
ただ次第に高められ、早くなるクラウドの吐息だけが、ザックスを追い詰める。やめろと念じる以外何も出来ず、今や目を見開き、二人の姿を食い入るように見つめるザックスは、ふと人影の様子に息を止めた。
闇に溶け込む黒衣の人影は、クラウドの足を抱え直すようにして、一層彼の身体に潜り込んだ。
その背に流れる、鋼の色をした長い髪。
忘れるはずもない。
ザックスの叫びは声にならず、唇だけが僅かに震えた。
その声無き声に気付いたのか、人影は動きを止め、身体を起こしてザックスの方へ顔を向けた。
ぎりぎり、ザックスの視界に入り込んだ人影は、零れ落ちた長い前髪の隙間から、死体のように横たわるザックスを認め、壮絶な美しさを秘めた唇の端を、僅かに吊り上げた。
「セ、フィロス」
ザックスの口から漏れた呼びかけではなく、突然身体を離されたクラウドが、情人を非難する口調で呼ばわった声だった。
セフィロスは無言でクラウドの下肢を引き寄せて、その身体を軽々と返し、膝を立たせ、再び狭間に侵入する。位置が変わったことで、クラウドが痛々しいほど立ち上がらせた陰茎も、男が容赦なく出入りする狭い場所もあらわになった。
男は片腕をクラウドの胸に回して、崩れ落ちそうになる身体を支えている。
前後に突き上げる動きにクラウドは乱暴に揺さぶられる。粘ついた水音と肌を叩く音が高くなった。
だが同時に怪我をしていたクラウドの右肩の肩先へ、男は恭しい慎重な仕草で、長い接吻を与えた。
口付けの感触に震わす背の動きすら生々しく見えるというのに、セックスと称するにはあまりに静かで、悪意や殺意も、陵辱につきまとう醜さや厭らしさも、そこには存在しなかった。
これはザックスの見ている夢なのだろうか。
あの男か、それともクラウドの強い願いや妄想であってくれればいい。ましてや、『あの男』が己の肉体に憑依しているのでなければ、構わない。
ザックスは気力の続く限り、渾身の力で瞼を開き、ただ二人の儀式にも似た行為を、見つめ続けた。
首筋に冷気を感じて目を覚ましたザックスは、忘れもしない悪夢と同じ姿勢で、地面に頬をつけて眠っていたようだった。
慌てて探したクラウドの姿もすぐ近くにあり、傷を診た時と同じく上肢こそ裸だったが、全裸ではなく、ましてや陵辱されたような形跡は感じられなかった。
ついほっとした。
あの事件の後、セフィロスがどうなったかザックスは知らないが、こんな場所に彼が現れる確立は非常に低い。
あれは只の悪夢だったのだ。そうに違いない。
ザックスは自嘲の笑みを浮かべながらも、慎重にクラウドへ近寄った。
クラウドは盛り上がった木の根の間に、丸まるように寝ていたが、白い全身に鳥肌を立て、唇は青い。朝方はもうザックスでも辛いほど冷え込む。そこで毛布をかぶるでもなく、半裸で凍死もしなかったクラウドは、やはりソルジャーと同じような肉体に強化されていると思っていいだろう。
右肩の傷は、やはり何もなかったかの様に、虫刺され程度の赤い痕を残して完治していた。
傷口がみるみる内に塞がっていった現象は、夢ではなかったのだ。
数々の戦場を渡ってきたザックスは、かつて戦友のソルジャーたちが負傷する場面にも遭遇してきた。無論ザックス自身も傷を負ったことは幾度もある。
だがどのソルジャーも、『貫通した銃の傷』を一瞬で治癒させることなど出来ない。
魔法を用いても同じだ。魔法であれば、術者によっては死の淵から帰還させることも可能だが、それは命を繋ぐぎりぎりの状態まで戻せる、ということだ。
出血を止める。一度止まった心臓にショックを与える。人工呼吸を効果的にする。魔法ならば見えない体内の障害でも、ある程度は治癒が可能であり、だからこそ外科手術とは異なる効果が得られた。
それらは、昨夜のクラウドが見せたような、『完全なる治癒』とは意味が違う。
一体自分の身体に何をしたのか、クラウド自身に尋ねたいのはやまやまだったが、彼は力なく横たわり、いつの間にか開いていた目も、形の良い唇も、脱力したように半開きになっている。
魔晄の過剰な光が、またクラウドの正気を奪い去っていったことは明らかだった。
「クラウド」
呼びかけた声に反応はない。
「おはよう。寒かったな」
打ち捨ててあったソルジャーの制服の上衣は血で汚れていたが、それをそのまま着せるしか道はない。赤子のように首も据わらない青年にセーターをかぶせ、剣のホルダーを背に付けさせて、その彼を背負う要領で、なんとか二つの大荷物を担ぎ上げることに成功した。
ザックスの肩の上に顎と腕を預ける青年は、年こそ成人を越えているはずだが、幼さの残る小さな顔で、思いの外軽く感じられる。
さすがにずっと背負って走れば、そこそこ疲れはしようが、クラウドが脅威の力で傷を治したのと同じように、ザックス自身も明らかに己の力が増していることに気付いていた。
詳しいことは分からないままだが、ニブルヘイムの研究員が『セフィロスの細胞を移植した』と言っていた意味が、ここに来て理解できたような気がする。
彼の細胞と一緒に、彼の想いまでが自分に乗り移っているのかもしれないと、ザックスは感じた。
無論、そうでなくても親友は守ってやりたい。
そして自分自身も、約束を果たす為に生きて帰らなければならないのだ。
「クラウド、ミッドガルへ行こうぜ。神羅のやつらから隠れるには、奴らの足の下が絶好の場所だろ」
肩の上に載った顔へにっと笑って見せるが、青年の目はこちらを見ようとはしない。
「オレの彼女……前に話したよな、エアリスっていうんだけど、彼女も神羅から逃げてるんだ。一緒に隠れりゃ、怖くないってな」
ろくな移動手段もなく、時間はかかるだろうが、ザックスは既に足をそちらに向けていた。クラウドを背負ったまま、立ち木の並ぶ林の端を、すり抜けるように小走りで走る。
今は追手の影はないが、そう長くはもたないことを、ザックスはよく分かっていた。
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コレル山までの二人の逃走経路は、非常によい選択だった。
森や林の中では幾らでも隠れるところがあり、道も一つではない。クラウドを背負っているため、なるべく神羅兵に発見されないようにと努めたことが、吉と出たらしい。要所で神羅兵の姿を見かけはしたが、こちらに気付いた様子はなく、今のところ追手に追跡されている気配もなかった。
だがコレル山は険しく、その狭間に神羅が通した運搬用の鉄道のレールくらいしか、まともなルートがない。
しかも山を越えたその先は、コレル魔晄炉がある。魔晄炉は明らかに神羅兵が張っているはずだ。
地元の人間しか知らない抜け道を、ガイドを雇って抜けることも考えたが、昔あったはずの場所に、村は存在しなかった。村の焼け跡から、仕方なく線路沿いをコスタ・デル・ソル方面へと歩いた。
夜陰に紛れて突破できる程度であるとは、残念ながら思えない。
兵士に化けて潜り込むことは、自失しているクラウドを連れていては不可能だった。
「今、正気に戻ってくれればなあ」
苦笑しながら呟いてはみたが、クラウドは遠くを見つめたままだ。
ザックスは強行突破を覚悟して、友人を背負ったまま魔晄炉へと近づいていった。
コレル魔晄炉の周囲は深い谷で、鉄道が乗り入れる線路以外に、周囲をいくつもの高架通路が走っている。
魔晄炉の外周をとりまく通路を抜け、そのまま東側の通路を登り、峰をひとつ越えれば、下山道へと降りられるはずだった。
遠目に見ても、完全武装した兵士たちが、常より多く配備されている。夜の闇をいくつものフラッシュライトが照らし出し、右から左へ、左から右へと監視の目がうろついていた。
ザックスは明かりこそ持っていないが、警備する兵士たちの間を、堂々と歩いて近寄っていった。
狭い通路で兵士に行き当たると、発砲する前に昏倒させる。二人に気付かれれば両方を一瞬で切り捨てた。暫くすると定時連絡が取れないためか、監視カメラにでも映りこんだか、兵士たちは異常に気付き始め、騒ぎ出した。
「どこかに奴らがいるぞ! さがせ!」
ザックスはようやく足を速めて、目的の通路目指して走り出したが、苦笑をもらし、つい独り言を呟いていた。
「隠れてねえっての」
ここまでの通路沿いを、十人程度の兵士を倒しながら進んで来たが、魔晄炉脇の少し広くなった広場には、数人の兵士が待ち構えていた。士官クラスの制服も見えたが、殆どが一般兵である。
恐れていた、ソルジャー部隊の投入をされなかったことが幸いした。同時にザックスやソルジャーを作った神羅が、その力の差異を理解していないことが、無性に滑稽に思えた。
何故なら、神羅は無敵と呼ばれたソルジャー部隊を投入し、数にすれば敵の数分の一の兵力で、各地の戦争で圧勝してきたのだ。
「ソルジャーザックス! 投降しろ!」
叫んだ士官らしい兵士を一撃で倒し、背後に控えた兵士二人を順に切り捨てると、その手にあったライフルを奪い取った。
剣を、背負ったクラウドのホルダーに戻す。こうすれば背後から撃たれても、クラウドの弾除けになるからだ。
手にした銃をオート連射にして、殆ど命中しないことを承知で乱射しながら走り抜けた。
少し進むと広い作業場があり、遥か上にある二階部分の床を支える柱が立ち並び、その向こうに二小隊ほどの兵士が隊列を組んでいるのが見えた。
彼らのすぐ背後には、コレル山の峰に向かう通路がある。どうしてもこれを突破せねばならないらしい。
ザックスは一旦鉄柱の影に隠れ、マガジンの切れた長銃を捨てると、背負ったクラウドを降ろした。
H型の鉄柱の隙間にクラウドを座らせ、その前に剣を力いっぱい突き刺す。こうすれば幅広の剣が盾となり、剣を抜かない限りクラウドは完全に彼らの死角に入る。
「大人しく、ここで待ってろよ」
無論返事はないクラウドに笑いかけたザックスは単身、兵士たちへ突撃を仕掛けていった。
昔のソルジャー仲間がいたら、ザックスの行為を無謀とあざ笑ったに違いない。
だがザックス自身、死を覚悟して挑んだ無傷の部隊は、思いの外生ぬるかったといっていい。
動きが愚鈍にすらみえる。
連射される銃弾を避けながら、若い兵士へ突進し、その襟首を掴んで一振りすれば、簡単に数人仲間を巻き込んで吹っ飛んだ。
ザックスに至近距離で対峙された兵士は、不利な長銃を放し、腰のオートマティックを抜いたが、ザックスは首をかしげてその銃弾を避け、二発目が発射される前に、手首をひねるように彼の手からもぎ取っていた。
左手で奪ったオートマティックを放り、右手で受け取った瞬間に持ち主へ二発発射した。兵士は何が起きたか理解しないまま、両肩を砕かれて、仰向けに倒れた。続けて起き上がってきた兵士たちに順に一発ずつ打ち込み、弾切れした銃は投げ捨てた。
イメージしたとおりに、意識するより早く身体が反応する。
一動作に要する時間が、以前の数分の一くらいに思える。
これまでザックスは、ソルジャーの中でも優秀な部類だったと自負している。クラウドほど自虐的な鍛錬はしたことがないが、それでも訓練などはまじめにやってきたし、適正もあったと思っている。
だが突然強くなったクラウドに脅威を感じたのと同じく、今のザックスの肉体の能力は、生まれ持った資質とは全くかけ離れたものだ。
あの屋敷から逃亡して丁度十日ほどの間に、ザックスは己の身体が、そしてクラウドの身体が起こす奇跡に、少なからず驚かされてきた。
ニブルヘイムの研究員が口走った、セフィロスの細胞を移植した研究の成果が、この肉体の恐るべき能力ということだ。具体的にどんな施術がなされたのか分からなくても、単なるソルジャーよりもセフィロスの能力へ近づけるための、何かが成されたということは、想像に容易い。
つまり、セフィロスが見ていた世界、セフィロスが苦悩した能力、それらに近しいだろう肉体を、皮肉にも体験することになったのだ。
「今なら『あんた』にも勝てそうな気がするぜ」
マシンガンの着弾を横転で避けて、その勢いを借りて起き上がり、柱に足をかけて跳躍する。明らかに以前より高い場所に跳んだザックスは、瞬時に見回した周囲の足場を経て、狙撃者の元へ詰め寄った。
驚きの声を上げながら連射を続ける兵士の頭上から、その肩を踏みつけるように着地する。兵士の骨が砕ける感触をブーツの裏で感じ、ザックスは顔をしかめた。
隣にいた兵士に、そのまま素手で殴りかかり、一発で昏倒させる。今度はその兵士の襟首と腹あたりの制服を掴み、ザックスを囲もうと詰め寄って来た四名の集団へ投げつける。
一瞬味方を受け止めようとした彼らの正面から、横へと移動する。
ザックスを見失った兵士らは、投げつけられた味方を地面へ降ろす前に、その半数を失っていることに気付いた。慌てて剣を抜いて身構えたと同時に、一人の剣は叩き落されて奪われ、もう一人は肘から下を切られて剣ごと取り落とした。
剣を奪われた兵士は、奪われたことに気付いた時には、己の剣にふくらはぎを切られ、悲鳴を上げながら地面に倒れ伏した。
ニ小隊が待機していたはずの場所に立っているのは、ザックスと鉄柱だけだった。
暗闇の中、所々に放置されたフラッシュライトが、痛みにのた打ち回り、微かに呻く兵士らを照らし、その声を、魔晄炉の低い轟音と振動が打ち消している。
ザックスは倒れ伏す兵士の間をぬって最初の柱に戻ると、果敢にもクラウドを取り押さえようと、前に立てた剣と格闘していた手負いの兵士を殴り倒し、深々と突き立てた己の剣を引き抜いた。
相変わらず静かに空を見つめたままのクラウドに、小さく微笑みかける。
「待たせたな。行こうか、クラウド」
今は至って大人しいこの青年も、自分と同じように驚異的な力を手にした。
あのロケット村の時のように、ザックスすらひるませる肉体と覇気は、『セフィロス』の能力の一端かもしれない。
昔とは確かに変わった。
だが今の彼には、まだ自分が必要だった。
魔晄の力と、恐らくあの事件の何かが塞いでしまった彼の心が、正常に開くまでは。
一回り小さい身体を背負い、彼の背に剣を収めて立ち上がる。
「海を越えればミッドガルだ」
登山道に向かう通路を登りきる頃、夜が明けようとしていた。その先にはミッドガルへ続く海が見えるはずだった。
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神羅軍の出入りするコスタ・デル・ソルの港を避け、小さな漁村から北周りでミッドガル方面に向かう小さな輸送船を見つけ、乗り込むことが出来た。
丁度いい船を見つけるまで丸三日待ち続けた。
北周りで、ミッドガルに程近いカームの港へ入れれば、そこからは一日程度の道のりでミッドガルに到着出来る。
コスタ・デル・ソルへ行けば幾らでも客船や貿易船が出ているが、待ち構える神羅兵を承知で、ましてや神羅の海の拠点であるジュノンに向かい、巨大な蛇の出る長い陸路を行くのは、どうしても得策とは思えなかったのだ。
わざわざこんな小さな港から乗ろうとするソルジャーはいかにも怪しい。しかも一人は歩くこともままならない様子である。
足元を見てふっかけてくる中年の船長に、所持金を全て渡した。
無一文なのは困るが、ミッドガルにさえ到着すれば、エアリスや以前の知人に頼むこともできるのだ。今はこの海を越えることが、最大の勝機を生むはずだった。
足らないと言われた分は、マテリアで支払った。使い込んだマテリアは、物によっては百万ギルほどの値がつくこともある。
「ぼったくりだなあ」
日没と同時に出航した船の甲板で、ようやくクラウドを背から降ろして寝かせ、一服ついたザックスは、船長と船員を目の前にぼやいてみせたが、当の船長は悪びれる様子もなく答えた。
「あんたら相当危ないことやってきたんだろ。迷惑料込みだ。諦めな」
「まあな。わかってんなら、神羅の連中には絶対捕まらないでくれよぉ」
「見とけ。この船は足の速さが売りなんでな。神羅軍といえども高速船でもなけりゃ、追いつけないさ」
つまり高速艇だったら追いつかれるということだ。
「あてになんのかよ」
「もしも神羅に見つかったら、特別室に案内する」
舵を取りながら言う船長の意味ありげな口調に、煙草の灰を落としながら彼の赤ら顔を窺い見た。
「特別室、ね」
「ああ」
つまり密輸に使う隠し倉庫があり、もし神羅の検査が入るような時は、そこに隠れろという事だ。最新設備の艦は相手に出来なくても、小さな巡視艇の検問くらいなら、十分に逃れられるかもしれない。
港を離れて一時間もすれば、もう陸は見えず、八方を大海原に囲まれている。潜水艦にでも追われない限り、追手が来てもかなり遠くから発見できる。
ようやく人心地ついたと携帯食を食べ、クラウドにも食べさせようとした時、青年が目を開いていることに気付いた。
「クラウド?」
「船……キライだ」
少年の頃のままのような口調に、ザックスは唇を笑みにゆがめた。
「よお。久しぶりだな」
クラウドが正気に戻ったのは、実に丸一週間ぶりだった。
もしかすると、すぐに正気を失ってしまうかもという不安はあっても、友人が力強い目で見返し、自分の問いに言葉で答えることは、ザックスにとって何よりも励まされ、単純に嬉しかった。
ここまでのルートや現在地などをザックスが説明する間、クラウドは自分の手で携帯食を食べ、水を飲んだ。食事にしても、クラウドが自失している時は、ザックスが口元まで運んでやらなければならなかったことを思えば、クラウドのこの症状の原因を取り除いてやりたくなる。
正直なところ、クラウドが自立して移動し、戦えるだけで、二人の生存率は格段に上がるのだ。
クラウド自身にもそれはよく分かっているようだった。
「魔晄の、影響なんだよな。これって」
「そうだと思う。研究所で水槽に入ってた時も、同じ感じだったぜ。お前自身はどうなんだ? 前後の記憶はあるのか?」
「あいまい……なんだ」
汚れて項垂れた前髪をかきあげるように、片方の手で顔を覆う。
「覚えてることもある。でも……夢なのか、現実なのか」
「ロケット村で、兵士を倒したことは?」
「覚えてる。必死だったし」
言葉を途切れさせて、暫く空を見つめるような仕草をする。そのまま、また自失してしまいそうな気がして、ザックスはどきりとする。
「タークスの女に撃たれたことは覚えてるよな?」
「タークス?」
ザックスの顔を見上げて、いきなり不安そうな表情になった。
「男じゃないのか。サングラスの……スキンヘッドの奴だろ?」
「お前を撃ったのは、女だ。金髪の。イリーナとかいったか」
「オレ、撃たれた? どこを?」
食べかけの携帯食のパッケージを握り締めたまま、自分の身体をさぐる。その動作からもどこを撃たれたなどの記憶は、全く無さそうだった。
「ここいらだ」
ザックスが自分の肩を指先で示すと、クラウドは慌てて自分のセーターをめくって確かめようとしている。
十日も経って、今はわずかな痕すら残っていないようだ。
経過を見てきたザックスとて、あの翌日から消毒の必要も感じなかったのだ。
セーターに付着した血痕も、今は黒く変色し、他の汚れに混じって判別しにくくなっている。
「……本当に? 何にもないよ?」
「クラウド。それと関係あるだろうが、言っとくことがある」
一瞬言葉を止めて背後を気にすると、船員たちは舵を取っている船長の周囲で雑談をしているようで、時折大声で笑いあったりする声が、船のエンジン音やスクリュー音に混じっている。潮騒も船べりが波を切る音も意外と騒がしく、船首に張り付くようにいるザックスたちとは距離があるので、こちらの会話を聞き取られる心配はなさそうだった。
「お前とオレは、どうやらニブルヘイムの研究所で、強化手術みたいなことをされたらしい。研究所の奴は、オレとお前に『セフィロス』の細胞を移植したと言ってた」
ザックスを見上げるクラウドの両目が、微かに揺らいだ。
「クラウド! 戻れ!」
一瞬、クラウドの瞳孔が縦に閉じるのが分かった。
幾度か見た、この不自然な現象は、クラウドが自失する直前に必ず起きる。
「クラウド、堪えろ!」
「ザックス……」
瞳孔は元に戻り、クラウドは正気を保った目でザックスを見つめ返すが、冷や汗を額に浮かべ、限りなく気分が悪い様子だ。
「お前は、あいつの名前を聞くと、必ず放心状態になる。でも今は堪えろ。ちゃんとオレの声を聞いて、考えるんだ」
甲板に両手を突いたクラウドの肩に手を置き、力を込める。
「あいつの細胞を移植したからなのか、オレもお前も、運動能力も上がっている。それに傷の治りが異常に早くなった。お前のその肩にあった傷、弾は貫通してたが、撃たれて数時間で殆ど塞がってた」
クラウドはザックスに向けた目を見開き、それから何かに気付いたようにはっと息を飲んだ。
「あいつ、傷の治り早かったよな」
「オレ、前に、あの人が目の前で切断された足を繋ぐの、見た」
「ジュノンのテロの時か?」
クラウドは無言で頷く。
以前ジュノンで起きた大規模なテロ事件で、セフィロスが負傷し、傷の完治に一週間ほどかかったことがあった。あの英雄セフィロスがそれほどの大怪我をすることも珍しく、またその時彼を助けたのがクラウドだったことで、色々と噂の火種になったのだ。
まさか切断されるほどの傷だったとは思わなかった。
「どれだけ、あいつに近づいてるかは分からねえけど、多分、細胞移植って話は嘘じゃねえと思う」
クラウドはもう一度慎重に頷いた。
「お前が放心状態になるのは、魔晄中毒のせいだって思う。だけどそれだけじゃない気がする」
セフィロスがあの事件を起こし、ザックスたちをも瀕死に至らしめたのは間違いなく、あの裏切りによって、恋人であったクラウドが心に傷を負ったとも考えた。
傷に触れるとスイッチが入るように、症状が発露するということだ。
ザックス以上に、クラウドにとって思い出すのも辛い事件だろうが、実はあの結末も、その後の結果も、ザックスは何も知らされていないのだ。
「お前の今の症状も、オレたち二人の身体の変化も、多分あいつ自身に聞けば、色々分かると思うんだ。てめえの細胞を移植するなら、あいつが知らないはずないだろ? だからミッドガルに行った後、オレはあいつを探しに行こうかと思ってる」
「セフィロス、を?」
酷くゆっくりした口調で確認され、ザックスは頷いた。
クラウドが彼を吹っ切れたとは思えないし、彼も探しに行きたいと言い出すかもしれないが、体調もままならないクラウドに変わって、自分が行かねばならない気がした。
「で、お前、魔晄炉でオレが刺された後、セフィロスがどうなったか、知ってるか? どっかに行ったとか、連れていかれたとか」
クラウドは握り締めた拳を口元に当て、真剣な、だが怯えた表情で考え込んだ。
混乱状態にあったあの時の記憶を、思い出そうとしているのか。
「あんたが刺されて……血がすごかったんだ。ポッドの上から、流れ落ちてて」
「オレも死に掛けてたって聞いた」
「あんたに息はあったけど危険だ、と思った。セフィロスは……階段を下りて来て、あんたが死んだかってオレに聞いた」
ザックスは複雑な表情になって苦笑した。
まさか自分を刺した、そのセフィロスの細胞とやらに助けられるとは、皮肉な話だ。
ふと、手を置いたクラウドの肩が細かく震えていることに気付いた。寒いのかと思ったが、この周辺の海は冬でもさほど寒くならない。
「クラウド?」
「一緒に来いって……無理だよ。オレの村みたいに、全部の町を燃やすなんて。何でそんな……」
明らかに口調が変わり、震えが全身に広がっていた。
甲板に座り込ませた全身の、震えを堪えるように、握り締めた拳が白くなっている。正面を見据えた目が、またぎゅっと縦に縮んで見えた。
「でも、止められなかった、んだ。オレ、の力じゃ……」
「クラウド!」
自分のものより狭い両肩を掴んで揺さぶるが、クラウドはもうザックスを見ていない。見開いた目の前には、あの日の情景が広がっているのか、額には小さな汗の粒が浮いている。強張る顔を上げたクラウドの視線の先には、あの時のセフィロスの姿が見えているに違いなかった。
魔晄炉の中によどんだ異常な空気を、ザックスも一瞬感じたような気がした。
「クラウド」
ザックスの呼びかける声も思わずくぐもる。
クラウドは記憶を手繰りながら、一瞬痛みを思い出したように両手で胸の中央を押さえ、ザックスの方へ顔を上げた。
あちらとこちらの境界を、ふらふらと揺れ動くクラウドの瞳は、魔晄炉でのセフィロスに酷く似ている。
死を限りなく間近に感じたあの時の記憶に、ザックス自身もまた飲み込まれそうになった。
「オレが、この手で、セフィロスを刺した」
静かな青年の呟きに、ザックスはかろうじてこちらの岸にしがみついた。
ザックスでさえ、軽傷を負わせることしか出来なかったセフィロスを、この青年が刺したという事実もにわかに信じがたい。
クラウドは離した両手を胸の前で開いて見せた。
言葉が真実であり、その証拠だとでも言うように。
これまでずっと気付かなかった、クラウドの両の掌には、細長い鋭利なものを握り締めたような赤みを帯び、引きつれた傷痕が、一直線に浮かび上がっている。
クラウドは唇を戦慄かせながら、ザックスの顔と己の掌の傷痕を交互に見やり、青い面に無理矢理作ったような苦笑を浮かべた。
「あの人を、魔晄炉に突き落として」
何故か、一瞬その様子が閃光となって脳裏に浮かんだ。
「オレが、殺した」
ザックスはすでに死に掛けて意識を失っており、記憶にあるはずもない光景が見えた。
数年前の少し幼いクラウドが、刺された刀を素手で掴んでいる。
こちらを見上げる顔は、涙と汗に濡れ、食いしばる口元からは鮮血がこぼれ、刀が彼の内臓を傷つけていることは明らかだった。
身体を張って押し返そうとするクラウドの動きに、刀を抜くことも出来ず、後ろへたたらを踏んだ。
このままでは、クラウドを『一緒に落としてしまう』。
背後に行きあたったフェンスをこえて、身体ごと腕を引き、クラウドの胸から刀を抜いた。
浮遊感、そして視界にある『己』の名を叫ぶクラウドの顔が、たちまち小さくなる。
いや、これはザックスの記憶ではない。
セフィロスの記憶だ。
現実に返った視界には、力の抜けた両手を膝に落とし、項垂れるクラウドの金髪があった。
傷跡の残る掌に、俯けた顔からぱたぱたと音を立てて透明な雫が落ちている。
慌てて抱え起こしたクラウドは、声もなく涙だけを溢れさせて、しかし半ば開いたその両目からは既に生気が失われていた。
ザックスは涙に濡れた頬を拭おうと伸ばした手を止め、次第に脱力していくクラウドの頭をきつく抱きしめ、己自身の何かを堪えるように、青年の肩に顔を埋めた。
彼が正気であっても、きっとかける言葉もない。同情など拒絶されるだろう。
それでもザックスは己の両目から涙が溢れるのを、止めることは出来なかった。
誰に対してでも、何に対してでもない、言葉や行動にもならない、この大きなやりきれなさと怒りを、内に押し留めておくことは不可能だった。
こうして何かに形を与えて、吐き出してしまわなければ、ザックスも歩き出すことさえ出来ない気がした。
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輸送船に乗って六日の間、神羅軍にも遭遇することなく、平穏な船旅が続いた。一方で、クラウドはあれ以来正気には戻らず、症状は好転している様子もなかった。
コレルを越える頃は、うながせば自分の足で歩くこともあったのに、今は完全に脱力状態で、船べりに寄りかからせてもその姿勢すら保つことが出来ない。首も殆ど座らず、完全に赤ん坊と一緒だった。
目だけが半分ほど開いて、焦点は定まっていない。
研究材料にされた際、その身に受けた過剰な魔晄によって、クラウドは正気を失っている。あれほどの大怪我をしたことを全く覚えていなかったり、機能は失われていないはずの身体が、乳幼児程度の運動能力しか発揮出来なくなる。
だが、その症状に陥る鍵となるのは、クラウド自身の過去の記憶であると予想したことが、不幸にも証明されてしまった。
過去に辛い思い出があるという故郷で、唯一の肉親である母親を無くし、幼馴じみの少女を失った。
そしてそれを奪ったのは、あの時誰よりもクラウドが信頼を寄せていたセフィロスである。
ザックスは当初、クラウドがセフィロスに裏切られたことが『鍵』になっていると考えていた。
だが失った悲しみや寂しさだけが、鍵ではなかった。
何よりもクラウドを苦しめ、絶望に追いやり、彼の意識や記憶、感情を、魔晄によって傷を受けた空白の闇へ追いやるのは、クラウド自身の後悔なのだ。
力があれば、セフィロスですら守れたはずだ、と。
肉親、思い出、そして初めて手に入れた他人への恋と与える愛も、自分の力が及ばなかった結果、全てを殺したと彼は思い込んでいる。
なぜそんな考え方が手に取るように分かるのかと問われれば、その後悔の一部はザックスのものでもあったからだ。
その一方で、彼の悲しみの深さを知ろうと、その底なき淵を覗き込むことは、ザックスにとって恐怖だった。
己を責める余りに苦しみ、自分自身から逃げ出したクラウドのその目には、一体何が見えているのだろう。
水平線にカームの港を捉え、船員たちが荷降ろしの準備に慌しくなる頃、遠くを見据えるザックスには港を巡回する兵士の姿が確認できた。
ここまで順調に来たのに、港で騒ぎを起こすのは面倒だった。最悪沖で飛び降り、泳いで上陸するのを覚悟した頃、ふと近くに小さな釣り船が浮かんでいるのが見えた。
夜明け漁へ出ていた、地元の漁師が帰っていくのかもしれない。船首は陸へ向いている。
船長頼むと一瞬面倒そうな顔をしたが、それでも合図の汽笛を鳴らしながら、その小さな釣り船に横づけしてくれた。
船べりに乗り出して、直接その漁師に交渉すると、幸い陸に戻るというので便乗させてもらうことになった。
クラウドを背負って飛び移り、離れていく輸送船の船員たちに手を振って別れを告げる。
皺の深く刻まれた漁師の老爺は、大して事情を聞きもせず黙々と船を走らせ、カームの港から数キロ南にある、小さな湾にある漁村に船を停めた。
輸送船や軍船などは絶対に入れないような、遠浅の湾である。
老爺へ礼を言いながら、再びクラウドを背負い直し、降り立った桟橋は丸太で組んだ簡素なものだ。桟橋の根元あたりには、こんもりと小さな防砂林があり、その隙間から十軒ほどの民家が連なる集落が見えた。
無論神羅の手は回っていないらしく、人影は狭い海岸で干物を干す老婆くらいだった。
「お前たち、どこへいきなさる」
老爺が船を舫い綱で固定しながら口を開いた。
「ミッドガルだ。神羅の連中に見つからないように、こっそりな」
「あんたら、神羅の人じゃないのかい」
ここまでの道中、五年前と違うあることにザックスは気付いている。
たった五年の間に、神羅はずいぶんと恨まれることをしたらしい。すぐに神羅と分かる兵士や、ソルジャーに対する一般市民の態度は、明らかに変わった。
「ソルジャーだったが、クビになったのさ」
事実ではないが、全くの嘘でもない。
肩をすくめて見せると、老爺は顎でザックスを促した。
「村の奴が、今日ミスリルマインの方へ出かけると言うとった。トラックに乗れないか聞いてやる」
その日はミッドガルエリアでは珍しく、快晴というのが相応しい良い天気だった。雲が少なく、青く澄み渡った空が遠い。
そろそろ本格的な冬に入るが、風も強くなく、強い日差しが暑く感じられるくらいだ。
清々しい空気は心地よいが、座り心地は余り良くない。
小さな軽トラックの荷台は硬く、道が悪いので、盛大な振動でその度に尻が打ちつけられた。
「尻が痛ぇよ。静かに走れねーのかよ」
「贅沢な奴だな。道に文句を言え、道に」
結局漁師の老爺の言っていた通り、ミスリルマインへ行くという隣人のトラックに便乗させてもらっている。
ミスリルマインへ行くには東回りで南下しなければならないが、ミッドガルはその通り道から目と鼻の先である。
「おい、おっさん! ミッドガルはまだ見えないか?」
「何度もうるせえなあ。せっかちな兄ちゃんだ」
親爺は威勢良くザックスをいなしながら、豪快に笑って答えた。
カームからミッドガルは、距離にすれば二百キロほどある。
最新の装甲車なら三時間程度の道のりだが、このトラックでは速度は限られるし、到着するのは夕方になりそうだ。
この辺りは乾いた土と岩ばかりの荒地だ。
昔はカーム周辺の人間は、ここで農業を営んでいたという話だが、今では草もろくに生えず、カームの住人の殆どが、ミッドガルやミスリルマインに出稼ぎに出ている。
どうしてこれほど土地が枯れたかといえば、ザックスがミッドガルに住んでいた頃から、神羅が作った魔晄炉のせいだという説が有力視されていた。
魔晄炉が立てられた地域は、こうして周囲が荒れていく。
土地が痩せ、水が枯れ、気温が下がり、同時に利便性の高い街に人が集まり、大気汚染を初めとする公害が拍車をかける。ミッドガルはその典型だといわれていた。
ザックスはそんな説を大仰に振り回し、ミッドガル市民を巻き込むテロリストたちを取り締まる側だった。
今でも彼らの言い分が、全て正義だとは思っていない。
だが、ニブルヘイムに監禁される数年前よりも、見るからに荒れた土地を目の前に、あの話が嘘でなかったことは理解できた。
まだミッドガルの影も見えないような離れた場所なのに、モンスターどころか小動物にすら遭遇しない。餌になるものがないから、動物がおらず、それを捕食するモンスターもいないのだ。
そもそもミッドガルのアップタウンには土がない。観葉植物や、定期的に植え替えられる並木道が、植物の全てだ。
だからアップタウンの人々は、この汚染と土地の疲弊に気付くことはない。神羅が気付かせないようにしているのかもしれないし、市民自体が問題を直視することを避けているのかもしれない。
あの時、狂気に駆られたセフィロスが口にしていたことは、決して嘘でも誇張でもなかった。
自分たちは彼の言う通り、自分以外の他を多く殺すことで生きてきた。
そして今ザックスも、追って来る兵士たちをなぎ倒し、生命の危機を切り抜けている。兵士たちに家族や恋人がある背景など、向けられた銃口を前に考えるはずがない。
それでも生きたい。
ダウンタウンには、幾らでも神羅の目が届かない場所があるだろう。だがザックスたちを探す者は必ずいるし、金銭目当てで神羅に売る者も現れる。ミッドガルに到着したら、そこがゴールでないことは、ザックスにも分かっていた。
「なあ、ミッドガルについたら、お前どうする?」
隣に座らせたクラウドは、相変わらず焦点の定まらない目を半ば開き、荷台の縁に背を預けて、振動にあわせて首を揺らしている。放っておくと、激しい揺れに倒れてしまうので、時折座り直させてやらなければならない。
力なく投げ出した手が時々動いて、意味を成さない声を口にすることがあったが、それ以上の反応は望めなかった。
それでもザックスは、声に出してクラウドに話しかけている。
反応がないから、聞こえていないとは思わないことにした。
「あちこちアテがあるっちゃあるけど、女の子たちはみんな親と同居だし、そうそう転々してられねえか」
最初は独り言のつもりで口にした問題だったが、考えてみればミッドガルに着いてからの予定は何もない。
これまでは神羅の影から逃げることに精一杯で、先のことなど考える余地がなかったのだ。
「うーん、何をするにしてもとりあえず金だよな」
現に、研究所や兵士たちの懐から奪ってきたギルは、全て使ってしまい、金目のものといえば、今ソードにつけているマテリアくらいだった。
クラウドを連れて知人の元に転がり込むのもいいが、そう長くは迷惑がかかる。
何も言わずに匿ってくれるのは、やはりエアリスくらいかもしれない。彼女が花を丹精している教会があるが、あそこなら仮の住まいにすることも出来る。
それでも金銭的に援助を受けるのは限界もあるし、ザックスとしても主義に反することだ。
「な、クラウド、オレにできる商売ってあると思うか?」
首をかしげて俯くクラウドの顔を覗き込むと、珍しくザックスの顔を見返して来た。こういう動作を見る限り、反応は示せずとも恐らく意識はあるのだ。
表情も動かないが、彼が何か答えたような気さえした。
ザックスは思わず笑みを浮かべて、運転席に座る親爺に向かって大声を張り上げた。
そうしないと、古いエンジンの音が邪魔で、声が届かないのだ。
「なあ、おっさん。何かオレでも出来るがような商売知らねーか?」
親爺は肩越しにザックスをちらりと見やり、大きなだみ声で答えた。
「何言ってんだ。若いんだろ? 若いうちは何でもやってみて、色々苦労してなあ、自分の道ってやつを探すのよ」
「なんでも……だってよ。そんなこと言われたってなあ」
ふと、背負った剣が目に入った。
「あ! そうだな…オレは他の奴らが持ってない、知識や技術があるんだしな。決めたぞ、オレは『なんでも屋』を始める! ありがとよ、おっさん!」
利用され、弄繰り回された身体ではあるが、ザックスの身体能力はセフィロスが存在しない今、地上で一、二を争うものになっているはずだった。
それを役立てない手はないし、なにより、神羅への意趣返しになるような気がした。
「あんた……オレの話、ちゃんと聞いてたのか?」
「おうよ。面倒なこと危険なこと、報酬次第でなんでもやるって『なんでも屋』だ。こりゃ儲かるぞー」
大きな声で笑って、クラウドの金髪の頭をかき回すと、抗議するような唸り声で青年が答える。
いや、答えではないかもしれないが、構わなかった。
「だから……そうじゃなくてだな……」
「クラウド、お前も乗るだろ?」
肩を叩けば、虚ろな光の目がザックスに返答した。
自分はまたあんたのお荷物だ、役には立てない───そんな声が聞こえた。
「大丈夫だ、お前を放り出したりしないよ」
「あう……あ」
こういう状態のクラウドは、正気の時の目の強い光が消えて、奇妙なほど幼く見える。
神羅軍に入隊して来た時分に戻ったような錯覚をザックスに与えた。
あの時から、小さな、まだ貧弱といってよかった身体いっぱいに、妙に気迫を備えた子供だった。子供扱いするな、自分を見下すな、甘やかすな───そう全身で語った少年だった。
その時以来ザックスは彼を弟や相棒のように扱っていたが、一方で自分自身を映す鏡のように思うことで、常に任務や戦いで極限状態に晒された己を、より正常に保っていたような気がする。
ニブルヘイムから逃げ出したことも、ザックスはクラウドを助けたのではなく、それによって緊張の続く旅から、自分を救っていたのかもしれない。
「トモダチ、だろ?」
何も映していない目が、照れたように見えた。
明瞭に動かない唇が、ありがとう、と蚊の鳴くような小さな声を立てたように見えた。
礼をいうべきはこっちだ、と、正気な時に伝えてやろうと思った。
「クラウド。オレたちは『なんでも屋』をやるんだ。わかるか、クラウド」
中天にあった陽が次第に傾き、埃だらけの荷台に落ちる影が、徐々に長く伸びていく。
日差しが和らぎ、夕方の気配を感じる頃には、懐かしいミッドガルの巨大な影が、地平線に姿を現し始めた。
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ミッドガルへ通じる道と、グラスランド方面へ向かう分かれ道で、トラックを降りたのは夕刻、乾いた岩と砂地が続く荒涼とした大地は夕陽に赤く染まり、ミッドガルを黒く巨大な船のように浮かばせていた。
もう数時間も歩けば、ミッドガルのダウンタウンに入るゲートには到着出来る。だがIDも持たない二人が、夜間にゲートを抜けるのは無理だ。より安全に入るならばゲートが開放される昼間。最も混雑する朝なら、警備兵に見咎められることもない。
一晩ミットガルの外で過ごす必要があった。
ミッドガルエリアの荒れた土地には、身を隠すような場所もろくに無い。街を目指しながら野営する場所を探していると、岩と岩の間で立ち枯れた大木を見つけた。夜露くらいはしのげるだろうし、火も起こせる。
岩の上に立ってみると、更に少し進んだ先が高い岸壁になっており、その向こうにミッドガルが一望出来た。
都市から排出されるスモッグと、荒地に舞う砂煙で、鋼鉄の街は霞んで見える。
神羅の本拠地であるミッドガルは、権力と傲慢さの象徴だったが、同時にザックスたちにとっては懐かしい、日常が存在する場所でもあった。
「見ろ、クラウド! ミッドガルだ」
「う……あ」
背負ったままの青年は、言葉に反応したのか、単なる反射運動なのか、小さく声を立てた。
「今日はここで休もうな。明日はミッドガルだ」
相変わらず赤ん坊のようにぐんにゃりしたクラウドを枯れ木の根元に寄りかからせてやると、ザックスは野営の支度を始めた。
周辺の枯れ木を拾い集めて、火を点ける。僅かながらでも暖は取れる。
腹も減ってきたが、漁村には商店もなかったので、さすがに携帯食も底をついてきた。
「明日までの辛抱だからな」
苦笑しながらたった一欠片残していた携帯食を半分に分け、一つを口に放り込み、もう一つは細かく千切ってクラウドの口元に運んでやる。水筒の水を飲ませてやると、きちんと飲み込む。
「いい子だな、クラウド」
口元を指先でぬぐってやり、汚れてくすんだ金髪の頭を撫でる。
「ミッドガルに着いたら、まずレーション以外のモン喰いたいなあ」
クラウドを寝かせて、毛布を掛ける。もう一度頭を撫でてやると安心するのか、本当の子供のように目を閉じた。
この一ヶ月弱の間の旅で、こうして過ごす日は多かった。
最初は赤ん坊のようなクラウドに不安がなかった訳でもないが、これだけ長く一緒にいると、不思議とやっていけそうな気がした。
ミッドガルに着けば、エアリスも手を貸してくれるはずだ。
彼女の、全てを包み込むような暖かさに、きっとクラウドの傷が癒える日も来る。
ザックスは自らソルジャーに志願し、進んで肉体改造してまで神羅軍に従って来た。己の野望のために利用してやろうと、意気込んでいたのに、逆に利用されたのはザックスの方なのだ。
クラウドは、ザックスをはじめミッドガルの住民たち、神羅にすがって生きる人間全ての、無知と欺瞞による最大の犠牲者かもしれなかった。
だからそれは、今のザックス自身にとって、唯一の『希望』でもあった。
「ごめんな」
目を閉じて眠っていれば、症状を示すうつろに光る目は隠れ、穏やかな寝顔は整っている。
彼が魔晄中毒からも脱せる時が来るなら、その目を開けた時、彼も一筋の希望を見出すことができるように、ザックスにも成すべきことがあるに違いない。
ふと深夜に目が覚め、ザックスは枕にしていた腕から頭を上げた。
上がっていた月は沈んでいるが、夜は明けてない。燃え尽きた薪が微かに煙を立ち上らせている。明け方近い空気は凍るように冷たく、空気は奇妙に湿り気を帯びていた。
不穏な何かを感じて、顔をめぐらせた先に、毛布が見えた。
クラウドがいるはずのそこはもぬけの空である。
慌てて飛び起き、顔をめぐらせると、少し離れた場所にクラウドが立ち上がっていた。
「クラウド!」
そのまま前に進むと十数メートルほどの断崖がある。幾らクラウドでも転落すれば無傷とはいかない。
駆けつけてその二の腕を掴むと、クラウドは思いのほかはっきりと開いた両目で、暗闇に浮かぶミッドガルを見つめていた。ビルから漏れる無数のライトが、こんな明け方でも眩しいほどだ。
「どうしたんだ?」
一心に見つめるクラウドの目は、魔晄と同じ色に僅かに発光して見える。腕を掴んで揺さぶられても、ミッドガルから視線を外さず、ザックスの方を見ようともしない。
クラウドの反応を待つ間にも、今にも降り出しそうだった最初の雫が落ちて来た。
そして、唐突に口を開いた。
「声」
「声?」
クラウドは静かに片手を上げると、ミッドガルの方をまっすぐに指差した。
「あの人が……セフィロスが、呼ぶんだ」
「クラウド」
以前にも同じような言葉を口にしたことがあった。幻聴でも聞こえるのだろうと、ザックスはなるべく優しくクラウドの髪を撫でると、その場に座らせようとした。
「クラウド、辛いだろうけど、セフィロスは死んだんだ」
ミッドガルを見つめていた目が、初めてザックスを見上げた。
そして慌てたように己の手で両耳を塞ぐが、二、三度息をついてからゆっくりと頷いてみせた。
「うん……分かってるんだ。でも、声が」
耳を塞いだ姿勢のまま、ミッドガルの方へ再び向き直る。
クラウドのどの動作も、視線も、正気の時の状態なのに、何かが違って見えた。そして暫く彼を見つめていて、ザックスは気付いた。
いつもと違うのは、クラウドではなく自分だ。
五感にフィルターがかかっているような感じがした。視界も音も、どこか現実感が欠けている。クラウドの肩に置いた掌の感触も鈍い。
「ザックスには、聞こえないのか?」
見上げてくる必死な顔を見下ろして、首を振った。
セフィロスの声など、ザックスには断じて聞こえない。
だが確かにミッドガルの方向に、何かの強烈な気配を感じ、それが現実感を欠如させている原因に違いなかった。
「セフィロス……なのか?」
疑いを口にしてミッドガルを見下ろした瞬間、脳裏を閃光のように何かが走った。
フィルターが外れる。
急激に感覚の戻ってきた視界で、クラウドが血の気の引いた顔で見上げている。その驚きに見開かれた目が伏せられ、唇からうめくようなくぐもった声が漏れると、いきなり脱力してザックスへもたれかかってきた。
慌てて支えながら、自身の腹の辺りにも焼け付くような熱さを感じて、そこを見下ろした。
「な、んだ?」
正面向きに密着したクラウドの腹の中央と、ザックスの脇腹に血が滲んでいた。
支える腕の中を滑って崩れ落ちるクラウドの肩の向こう、少し高い岩場の上に、何か光るものが並んでいる。
狙撃用のスコープの光だ。
ザックスは何が起きたか判じた瞬間、崩れたクラウドの身体を抱え込み、光の方へ己の背を向けた。
身体のあちこちに、石つぶてを投げつけられたような衝撃を受けた。思いの外強い威力で、身体が地面に投げ出されたが、クラウドの身体を抱え込んだ腕は離さなかった。
幾度も幾度も、着弾するたび身体が跳ね上がり、痛みを感じるより先に急激に意識が遠のいた。
衝撃が止むのを見計らい、薄れる意識をたたき起こして、ザックスは起き上がろうと地面を転がって、身体をあお向けに返した。ザックスの巨体がのしかかっていたクラウドも、腹を押さえながら、なんとか地面を這う。
クラウドを担いで、この場所から離れなければ、狙撃した兵士はすぐにでもやってくるだろう。
そう思うのだが、ザックスは首から下の感覚を、完全に失っていることに気付いた。
「やべえ、かも」
なんとか首をめぐらせてクラウドを見ると、最初に背後から打ち込まれた腹の傷と、ザックスが受け止めきれなかったのだろう貫通弾を受けて、肩や腕など数箇所から出血していた。
投げ出したザックスの右手の先に、並んで倒れ伏すクラウドは、地面に片頬をつけ、目を閉じている。
「クラ、ウド」
声に気付いたのか、薄く目が開いてザックスを見た。
「立て」
ザックスと同じように投げ出していたクラウドの腕が、ぴくりと動いた。
「お前は、死ぬな」
遠くから、兵士たちが乾いた土を踏む音が近づく。
これまで手こずらせてきた逃亡者を仕留めた歓声が、そして更なる反撃を恐れる警戒の声が、次第に明瞭になってきた。
「戦え。最後まで」
二人の足元まで、複数の足音と声が接近した。
彼らが何を言っているのか、ザックスにはもう聞き取ることができなかった。
ただクラウドが生きていることを確かめるだけの為に、力なく見返す青い目を見つめ続けた。
再び身体を叩かれるような激しい衝撃があり、ザックスの視界は急激に狭まり、暗闇に消えた。
夜の闇とは違う、暖かな空間に投げ出された感触があり、その開放感に小さく息をついた。
雨の音が大きくなった気がした。
いつのまにか目の前に立つ少女が微笑む。
彼女の瞳は、春の森の色だ。
約束果たせなくてごめんなあ、と頭を掻きながら呟くと、怒っているのか白い頬を膨らませて。
柔らかな茶の巻き毛がザックスの頬を撫でた。
「エアリス。オレは」
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* * *
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兵士たちにとって命令とは絶対である。嫌なら兵士を辞めれば済むということではなく、命に背けば罰は受けねばならない。戦地を放棄することは、大罪なのだ。
そう思っても逃げ出したくなるような命令の一つが、ソルジャー狩りである。
ソルジャーは神羅兵の中でもっとも優れた戦士だ。
つまりかつては仲間であった者を、追い詰めねばならないというのも気分が悪いが、それ以上に桁はずれの運動能力で、一筋縄では捕らえさせてくれない。
しかも、今回は他の隊が幾つも壊滅させられて、未だに確保出来ていないらしい。運良く命を拾った兵士に言わせると、そのソルジャーはあの英雄セフィロス並みに強い、というのだ。
兵士の誰もが、数年前死んだはずの英雄と共に、戦った経験があるわけではないので、『それくらい強かった』という単なる想像だろうが、それにしても出来れば相手をしたくないのが本音だった。
数で仕掛けても壊滅させられ、ここ一ヶ月ほど追跡が続いた。
今回のように、発見してもすぐには追い詰めず、離れた位置から狙撃するという戦法を提案したのは、対象確保のために派遣されてきた、タークスの戦闘員だった。
作戦が功を奏したのか、話し込んでいた対象を百メートルほど離れた高台から狙うことが出来た。
これまであらゆる追手をかいくぐってきたソルジャーと、その連れである若い兵士の二人は、四名同時の数十発の狙撃に、ようやく膝をついたのだ。
歓声を上げながら、彼らの確保のため岩場を駆け下り、小隊長は別行動のグループを無線で呼び寄せている。その間も、致命傷を負ったらしい対象は、逃げることは叶わなかったようだ。
手柄をどんな風に評価されるか、想像を巡らせた兵士もいれば、他の隊の兵士仲間に、どんな風に自慢話をしようか想像するものもいた。
先刻から降り始めた雨が濡らす岩場に、並んで倒れ伏す二人は、目的地と推定されていたミッドガルを見下ろす場所で、身体中から血を流して身動き一つしない。
「死んだか?」
小隊長の確認にも、誰も手を伸ばして脈を取ろうとはしなかった。油断なく銃口を向け、数歩の距離を置いたまま、じっと対象を観察している。
二人とも微かに息をしている。
特に要注意とされていた黒髪のソルジャーは、全身に銃弾を浴びていた。
左の脇腹から下は、腰骨が砕けて、殆ど細切れだった。左腕も肘から先は指の原型も留めていない。腿や脚は均等に穴を開けられ、平らにへこんで見える。
兵士たちの背筋を冷たいものが流れた。
普通の兵士なら即死の重傷だ。
「止めをさせ」
オート連射に切り替えて、全員が一斉に撃ち込んだ。
このままにすれば、起き上がってくるという恐怖に駆られていた。
着弾の衝撃に跳ね上がる身体は、肉片と血を飛び散らせる。全員が掃射を止めた時には、黒髪のソルジャーの身体は、もう肌の色の名残も、元は黒髪だったことさえ判別できなくなっていた。
そうしてやっと安心して、足を踏み出し、もう一方の対象に近づいた。
金髪の兵士の方も、腹や腕、太腿などに傷を受け、かなり出血している。黒髪ほど重傷ではないが、元々何かの中毒で意識がほとんどないと言われていたのは本当のようで、目を開いているのに身動き一つしない。
近寄っても反撃してくる様子はなかった。
「こいつは?」
「危険はなさそうです」
金髪の兵士は整った顔立ちで、一瞬少女のようにさえ見えた。髪が乱れ、剥き出しになった額や頬に、黒髪の血や肉片がはね飛び、赤く汚している。
ふと、小隊長が何かに気付いた。
まじまじとその対象を観察し、一番年嵩の部下に聞いた。
「お前、こいつの顔に見覚えないか?」
「さあ……私には覚えがありません。サー」
「こりゃあ、あのセフィロスの愛人だった兵士だ」
四人の兵士たちから一斉に声が上がる。
まだ入隊して一、二年の者もいるが、英雄セフィロスは就学前の子供でも知っている有名人だ。
「五年前、オレがまだ二等兵くらいの頃だな。一般兵の子供がセフィロスをたらしこんだって、兵士ん中じゃ有名な噂だったな」
「でも隊長、こいつ男でしょう」
「それでも英雄をたらしこむくらい、ウマかったってことだろ」
兵士の誰かがからかう口調で言うと、一同から下品な笑い声が上がった。
噂以上のことを知らない彼らにとって、その対象の前歴は少なくとも兵士として尊敬できるものではなかった。また英雄の伝説を汚した者として、蔑まれても仕方なかっただろう。
兵士らの笑い声に反応したのか、金髪の腕が小さく痙攣した。
「隊長、どうしましょう。虫の息ですが、まだ意識はあるようです」
「命令書には、確保が困難な場合は生死問わず、と書いてあったな。別働隊と合流するまで生きていたら、タークスの連中に連絡して回収させればいい」
「アイアイサー」
兵士らが小隊長へ敬礼して、長銃の安全装置は外したまま、対象から少し離れた場所に待機した時だった。
夜明けが近く、青く染まり始めた岩場に、黒い煙のようなもやが立った。もやは風に煽られて細長くたなびき、丁度死んだソルジャーの周辺に集まってくる。
最も早くそれに気付いた兵士は、煤かほこりと思って、その不思議な現象を黙って見つめていた。
だが形を留めないほど肉片になっていたソルジャーの血溜りが、沸騰したかのように泡立ち、盛り上がった瞬間、恐怖のあまり悲鳴を上げていた。
不審に思った彼らは、悲鳴を上げた兵士の視線を辿る。そして彼と同様に、目を見開き、驚愕の形に口を開けていた。
小動物が蠢くように、血溜りの表面が盛り上がり、何かの形を成そうとしていた。その周囲を覆うように、黒いもやが集まったと思った瞬間、人ほどの大きさに膨張した。
人型の血の塊が、ゆっくり兵士たちの方へ『向いた』。
全員が息を飲んだとき、剥がれ落ちた血の中から人間が現れていた。
驚きはしたが、現れたのが得体の知れないモンスターでなかったことに、兵士たちは一瞬息をつく。
現れた人影は、素晴らしい長身の男だった。振り向く動作も、こちらを見る仕草もゆっくりなのに、何故か愚鈍な印象はない。黒い革に肩当のついた戦闘服で、コートのように長い裾と、その背に流れる鋼のような硬質の長髪が目を惹いた。
人間とはいえ、突然現れた者は不審ではある。
兵士たちが一斉に向けた銃口を、恐れるでも気にするでもない様子で、こちらを見据えた。
「何者だ!」
果敢にも小隊長が誰何したが、男は答えない。
その存在感の大きさに反して、あまりに欠ける現実感に、兵士の一人は幽霊を見ているのかと思ってさえいた。
だがしばらくすると、緊張して銃を構えている兵士を他所に、男は音もなくその場にしゃがみ込み、まだ息はある対象に、その右手を差し伸べた。
小隊長は一瞬、タークスなどが密かに派遣した戦闘員かと疑った。だが、どこか見覚えのある姿にひっかかりを覚えて、まじまじと男を見つめた。
「待て、貴様。勝手にそいつに触れるな!」
制止を無視して、グローブの指先で対象の顎を掴んで、静かに顔を向かせ、額に落ちた髪を撫で付ける。威圧感のある姿に似合わぬ、優しげな動作だった。
兵士たちはどうしたらいいのか、彼らの上司に問う視線を向けた。
そして当の小隊長と古参の兵士の一人は、突然現れた男の正体にほぼ同時に気付き、驚愕していた。
「隊長、あれは……英雄セフィロスです!」
「そんな、ばかな!」
一同は驚き、無意識に数歩下がった。
セフィロスは、かつて神羅兵の頂点ともいえるソルジャーの長を務め、各地の戦争で活躍した優秀な戦士だった。
だが五年近く前の魔晄炉の事故に巻き込まれ、死んだと言われていた。
そのセフィロスが、なぜここにいるのか。何のためにいるのか。
そもそも生きていたのか。
それとも幽霊や亡霊なのか。
混乱と同時に、彼らを硬直させたのは恐怖だった。
「いや、そんなはずはない! 彼であるはずがない!」
セフィロスは死んだ。彼のはずはない。
だが、もう一度こちらを向いて立ち上がった男から、肌で感じる威圧感と凶暴な気配は、そして兵士たちに殺意を持っていることは、紛れもない事実だ。
小隊長は構えた銃のトリガーを引いた。
一発の銃弾は男の胸を貫いたように見えた。
男は撃たれた場所を見下ろしたが、兵士らの誰が見ても、男の剥き出しの胸には黒い小さな痕があるだけで、出血する様子も、男が倒れる気配もなかった。
「ば、化け物か!」
悲鳴と驚愕の声と同時に、兵士たちは小隊長の指示も待たずに、一斉に発砲した。硝煙の匂いと煙が立ちこめ、焼けた薬莢が湯気を発しながら地面に散らばる。
弾倉全ての弾を撃ち尽くし、僅かに正気に立ち戻った彼らがトリガーから指を離すと、標的の男は右手を正面に掲げ、直立不動でそこに立っていた。
男が手を下ろす。
すると、まるで見えない壁に着弾したかのように、潰れた大量の弾が、一斉に音を立てて地面に落ちた。
兵士たちの足は逃げることも、驚愕に落ちた口を閉じることも忘れていた。
男は優雅にも見える仕草で、脇に下ろしていた左腕を水平に上げた。中空にある何かを掴んだ手の中に、見たこともない長い太刀が魔法のように現れた。
ただ一人小隊長だけが、それが何であるか知っていた。
英雄セフィロスと言えば、正宗と呼ばれる名刀を武器としている。
そう思い出したと同時に、彼は部下四人と共に、己の首と、この世に永遠の別れを告げていたのである。
「『セフィロス』」
彫像のように整った唇が初めて声を発した。
「……そうだな、確かにそんな名で呼ばれていた」
兵士たちの転がる首を気にかける様子も見せず、再び静かに足元の青年に視線を落とした。
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*
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クラウドは強烈な痛みに、唐突に意識を取り戻した。
痛みは度を越して熱い感触で、流れ出る血にもう一度気を失ってしまいそうだと思った。
だが、本能がここで立ち上がらなければ、死ぬのだと告げる。
必死に瞼を持ち上げれば、視界の中央にザックスの顔が見えた。
ザックスは似合わぬほど弱々しい半眼で、クラウドを見つめている。クラウドと同じように並んで倒れる彼の身体の下には、大量の血が水溜りになって広がっていた。
こちらに伸ばされた指が、ほんの僅かに動いている。
「立て」
ザックスの唇が動いた。
囁くような声だったが、それにこめられた意志は力強かった。
「お前は、死ぬな」
彼の声に励まされて、必死に腕を動かそうとするが、数箇所は撃たれているのか、持ち上げることすらままならない。
どこからか大勢の人間が近づいてくる足音がする。
ザックスも負傷しているなら、彼を背負ってすぐにでもここを離れなければ、二人とも命はないと、気持ちばかりが焦った。
「戦え。最後まで」
彼の声は、彼自身を励ましているようでもあった。
足音がすぐ近くまで迫り、彼らが交わす会話も耳に入ってきた。
立ち上がるにも足は動かず、身体から血液が失われていく感覚が強くなるばかりである。
無意識に武器を探して、今にも暗転しそうな意識を叩き起こした時、間近で連射された銃撃に、目の前のザックスの身体が跳ね上がった。
地面を通して伝わる振動に合わせて、飛び散る血と肉片が、クラウドの頬や額にふりかかる。
全身を襲った悪寒と強烈な怒りが、クラウドの視界を赤く染め、彼の中の何かを粉々に破壊していた。
「誰、だ」
熱い掌を肩や腕に押し当てられる。その行為そのものは慣れたもので、決して不快な感じはしない。
自分はなぜそうしているのか、何が起こっているのか、全く記憶がないのだが、それよりも自分に触れる相手の正体が気になって仕方ない。
「お前こそ、誰だったか」
低く、涼やかな若い男の声が応えた。
耳あたりのいい声なのに、笑いを含んでいるような、人を見下すような口調だ。
「オレの一部を、これほど明瞭に持っているのに。肉体を無駄にするな」
意味が分からず、抗議すべく目を開けば、そこには人形のように美しく整った顔が覗き込んでいた。
男の肩から、長いまっすぐな鋼色の雨がこぼれ落ちて、降りしきる雨の代わりに、頬や肩に降りかかってくる。
強烈な血の匂いに混じって、懐かしい香りを感じたような気がしたが、その原因が何かは思い出せない。
ただ、異常に胸が騒ぐ。
身体中に受けている傷が、脈打つたびに痛むからだろうか。
男は倒れた自分に覆い被さるように、今度は太腿のあたりの傷に掌を当てている。傷口は徐々に熱さを増し、暫くするとまったく痛みを感じなくなる。男がなんらかの力で傷口を癒しているのは、間違いないらしい。
だが一番痛みの激しい腹の中央の傷は、己の手で押さえていても出血が止まる様子はなかった。
「この傷は酷い。オレの姿が保てなくなるな」
先程から男の口にする言葉は、その殆どが意味不明だった。
出血に朦朧とする頭では、余計に思案することが難しい。
痛みと不可解さに眉根を寄せれば、男は酷く優しい表情を浮かべて、そこに指を這わせて来た。
「そうだ、思い出した。お前の名は」
頬や額に飛び散った血を拭い、その手で頬を包まれる。
「クラウド」
名を呼んだ唇がせまり、クラウドのそれを覆い、強く吸い上げた。
不思議と、この男とそうすることに、気色悪さは感じなかった。以前にも同じことがあったのか、それともそういった性癖だったろうか。
痛いほど吸われた舌を絡ませ、吸い返す。それだけで痛みを忘れる心地よさが、全身に染み渡った。
「お前の使命の為に、今はお前とひとつになろう」
「オレの、使命?」
「そうだ。お前は『オレ』を追わねばならない」
「なん、で」
「思い出せ。オレは誰だ?」
口付けを中断されて、クラウドは続きをせがむように男を掻き抱いた。
「あんたは」
間近の顔をじっと見つめ、必死に記憶を探るうちに、胸に激しい焦燥と怒りに似たものが湧き上がっていた。
この男を知っている。
長い時間、ともに過ごしたこともあった。
いつもその顔を仰向いて見上げ、その背を見つめていた。
そして最も寄せていた信頼を裏切り、狂気に駆られて、母や幼馴じみ、そして自分すら手にかけた男───
「セフィロス。」
「そうだ」
肯定を吐いた唇が再び迫る。
突如沸き上がった恐怖に、男の肩を押しのけ、必死に引き離そうと腕を突っ張った。
「よ、せ!」
密着した身体の隙間から、未だ血の流れる腹に掌を当てられる。もう一方の腕は背にしっかりと回され、尻のあたりを強く掴まれた。
手酷く犯された記憶が蘇り、肌が泡立った。
「つれないな。忘れてしまったか、お前の男を」
「裏切り者……!」
息巻くクラウドを冷やかに笑い、男は無傷な首筋あたりに舌を這わせてきた。
虫に這われるような濡れた感触に背筋を強張らせていると、突然そこに尖った歯を立てられた。
肌が裂け、熱い己の血が滲む感触に全身が震える。
「裏切ったのはお前の方だ、クラウド」
「裏切ってなんか!」
大きな掌に触れられた胸が大きく上下する。そして傷のあった腹のあたりから、男の身体と融合が始まっていた。
「オレを殺したのは」
大きく、音を立てて息を飲んだ。
その続きは絶対に聞きたくなかった。
だからクラウドは目を閉じ、耳を塞ぎ、心を閉ざした。
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*
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明け方から降り始めた霧雨は、本格的な雨になっていた。
乾いた土と岩を徐々に濃い色に染め、降り積もった埃を洗い流して行く。
ぬかるみ始めた地面に両手をつき、這うようにして移動する青年は、目当ての物に指を伸ばし、その硬い手触りにやっと安堵を覚えた。
普通の人間であれば、持ち上げることすら困難に見える厚みのある刃は、斬るというよりは、叩き折る手ごたえになる。斜めに研がれた刃の部分にも、多くの生物の骨までを断って来た、刃こぼれや汚れが見えた。
滑り止めのついた柄を握り、青年は力を取り戻した喜びに口元をゆがめ、その場に立ち上がった。
剣が置いてあった岩場には、完全に消えた焚き火の跡と一緒に、剣を下げるためのベルトや、ポーチに入った僅かな荷物が置いてある。
手探りで装備してみても、使い慣れた感触だった。
雨避けにしようと、岩場に広げてある革製のブランケットの中央に切り込みを入れ、マント代わりに頭からかぶった。剣は背につけたホルダーに戻し、もう一度、先程意識を取り戻した、崖の上へ足を向けた。
辺りには神羅兵とわかる死体が幾つか散乱している。
負われて、ずっと逃げ続けてきた記憶はある。背中から腹に受けた傷の痛みも覚えていたが、服に穴と血痕が残るだけで、肌に傷口は見つからなかった。
崖の上から一望できるミッドガルの街並みは、次第に強くなる雨に煙っている。あの街を目指して、長い旅を続けてきた。
だがここまで来て、青年はここまでの道のりに抜け落ちた記憶のあることが、どうしても気にかかった。
散乱する五人の兵士の首を落としたのは、自分なのだろうか。
そして一人だけ、原型を想像しにくいほど銃弾を受けて、絶命している足元の男は、一体『誰』だ?
彼は誰にやられたのか。まさか自分がやったのだろうか。
そういえば、自分はなぜ神羅兵に追われているのか。
いや、そもそも『自分は何者だ』?
「オレ、は……」
「貴様! クラウド・ストライフか!」
突然上がった声に顔を上げると、一つ上の崖の上に、六名ほどの兵士たちが固まって銃口をこちらに向けていた。
人数的に一小隊の残りといったところか、首を失った五人分の死体のうち、一つは士官の制服を着ているところを見ると、彼が小隊長『だった』のだろう。
「連絡が取れないはずだ。小隊長殿まで……!」
クラウドと同じように小隊長の制服を見つけたのか、兵士たちが騒然となった。
「お前がやったのか! この悪魔め」
「剣を捨てて、手を上げろ!」
口々にクラウドをなじり、投降させようとする。
クラウドは肩をすくめて見せただけで、剣を捨てはしなかった。
「かまわん。撃て、撃てぇ!」
低い崖のすぐ下の標的を外すほど、兵士たちも素人ではない。疑うことなく立て続けに発砲し、誰からともなく撃つのを止めたとき、青年はまだその場に立っていた。
逆手に持った剣を斜に構えて、幅広の剣の刃で、全ての銃弾を弾き返していたのである。
「ばかな……」
驚愕の声を聞く間も待たず、クラウドは五メートルほどの岩ばかりの崖上へ、二歩の助走で跳躍していた。
着地と同時に、一人の兵士の頭上に降り立ち、その肩を切り下げる。剣先が降りきる前に横へ流し、左右に剣を振り、二人の太腿を狙って打ち倒した。
恐怖に駆られて背後から乱射してきた銃撃を、横転しながら避け、その時地面から拾った石つぶてを立て続けに投げた。
目元や顔に一発ずつ石をくらった残りの三人は、呻いてそこを掌で押さえたまま、クラウドの一撃の下、首を切り払われていた。
どん、と音を立てて落ちた首は、岩場を転がり、続けて倒れた身体の方は、反射的な運動で、指先や足を痙攣させている。
クラウドは静かに剣を払って、背中のホルダーに戻し、雨に濡れて項垂れてきた前髪をかき上げた。その白い額には、幾筋かの返り血が飛んでいた。
意識のあった二人の兵士は、一瞬にして倒された仲間を見捨て、傷を受けた腿を庇いながら、地面を這い、必死にその場から逃げ出そうとしていた。
兵士たちの追跡対象の金髪の一般兵は、彼らが別働隊の隊長から連絡を受けた時には、既に立ち上がれないほど、負傷しているという話だったのだ。
クラウドはそんな事情を知る由もない。
声にならない悲鳴を漏らし、必死に離れようとする兵士二人に気付き、冷ややかな青緑色の目で見つめた。
そして、足元に横たわる兵士の腰のホルスターから短銃を抜き取り、安全装置を外した。
「悪いな。これ以上通報されると困る」
二発の連続した銃声の後、地面を這う兵士二人は動かなくなった。
銃は兵士のホルスターに戻し、クラウドは死体の転がる戦場から、身を翻した。
緩やかな傾斜の続く硬い岩場には、まだ赤さを失わない体液が、雨に溶けだしていた。
踏みしめるブーツの下に、小さな流れを作り、ミッドガルの方へと下って行く。
戦場のこうした風景は、クラウドにとって珍しいものではない気がした。
生臭い血や内臓の匂いに、燃える建物や木々の匂いは、クラウドの中の何かを揺り起こす。
突然強い耳鳴りと頭痛に襲われた。
息を詰まらせ、足を止めて頭を抱えるクラウドの頭の奥で警報が鳴り響く。
そこから先へ行けば帰ってこれなくなる、と。
『お前は、オレを追わねばならない』
抵抗なく心に流れ込んできた声には、聞き覚えがある。涼やかな、男の声だった。
その声に警報が途絶え、クラウドは息苦しさに喘ぎ、冷や汗の流れる額を拭った。
『オレはここだ』
声のする方へ足を向ける。
その行き先は魔都ミッドガル以外にありえなかった。
遥か遠くからヘリコプターのローター音が、微かに聞こえている。煙る薄暗い上空に、まだその姿は見えない。
青年が街への道にまっすぐ残した足跡には、未だ降り続く強い雨が容赦なく流れ込み、その行く先と存在を、僅か数分の内に消し去っていった。
|
2006.10.28(了)
アイコ<http://www.natriumlamp.com/B1F/> |
※この「白き闇 沈みし光」はFF7オリジナル、ACの内容のみを参照しており
今後発売されるCCやBCの設定を加味しておりません |