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七番目の天国

 夜が明けてからずっと降り続く雨が、土がむき出しの地面を抉り、泡立てている。淡く町並みを写すぬかるみへ通行人が足を降ろすたび、町の像はゆがみネオンの灯りが滲んだ。
 強く打ち付ける雨粒は身を切る冷たさで、直接それを甘受する頬が痛い。己の身体を抱いていた手を、時折マントの隙間から出して頬を暖める。氷を触るような感覚の後、ほんの少しだけ頬の感触が戻ってくる。
 そしてそうする度、稲光のように一瞬脳裏をかすめる映像に、クラウドは固く目を瞑って俯いた。
 頬を暖める手。
 誰かが自分へそうしていたように思う。懐かしいような、苦しいような。
 だが映像を掴もうとすればするほど、こめかみを激痛が襲い、集中力が散っていく。
 そもそも何故自分がここにいるのか、青年自身がわからなかった。この商店街に来るまでの風景も曖昧にしか記憶されていない。
 深いぬかるみに足を取られて、よろめいた身体を支えようと掴まったのは、定休日の札を下げた玩具店のショーウィンドウ。年末むけにデコレートされたウィンドウの中で、自動点滅するランプが網膜を刺す。
 クラウドはウィンドウへ背をもたれさせ、空を仰向いた。まだ日暮れ前のはずなのに、水分を重く含んだ雨雲は濃くたれこめて、既に太陽は見えない。それを斜めに切り取る店の庇が、わずかながら冷水の攻撃からクラウドを守っている。
 ガラスの填る段差に腰掛け、濡れた髪を両手でかき上げる。妙に汚れた指の隙間を流れる髪は、天候とうらはらにまばゆい金。
 自分はこんな髪をしていたのかと自身の記憶を辿るが、確たる証明となるものは何もなかった。
 誰かにこの髪を褒められたことがある…と思う。
 だからきっと間違いない。そうして少し安心する。
 どっと疲れを感じたクラウドは、マントの中で抱えた剣の柄にもたれるように身体を丸めた。額に落ちた濡れた髪の隙間から、通行人をぼんやりと眺めながら、これからどうしようかと思案し始める。
 外套に身を包み、談笑しながら歩く人々にくらべると、クラウドはいささか季節はずれな薄着だった。さほど寒さを感じないのはどうしてだろうか。あちこちがすり切れ、泥や埃で汚れた皮のマントはあるものの、くすんだ藤色の戦闘服には袖がなく、肩から剥き出しである。
 戦闘服、と躊躇なく思ったが、なぜそんなものを身につけているのだろうか。
 手甲のついたグローブが腰のベルトに挟んである。なんとなく着けてみたが、自分には少し大きいような気もする。そして大きな厚い刃をもつバスターソード、装着されたサンダーのマテリア、どれも自分には覚えのないものだったが、不思議と手には馴染んでいる。
 そうしている内に辺りは薄闇が広がっていた。
 日が暮れ始め、道行く人が足早になり、それと同時に雨足は弱くなっている。
 それでもその場に座り続けるクラウドは、腰を上げずにただ通りを見つめていた。誰か知り合いでも通れば、この朦朧とした事態を説明してくれるだろうかと思う。
 だがそんなことはありえないと、クラウド自身が心の奥で分かっていたはずだった。
 
 通行人の見物に飽きたころ、クラウドはウエストポーチの中から煙草を取り出した。銘柄にも覚えがないが、いちいち気にしていても仕方がないと、半ば開き直りかけている。オイルライターで火を点けて吸い込んだ煙の匂いは、嗅ぎ慣れたものだった。
 煙の向こうの通りを、母子の二人づれが歩いてきた。母親は日用品を買い込んだ紙袋を胸の前に抱え、横を歩く少女は、身に余る大きな傘を閉じて、肩にかついでいた。雨はいつの間にかやんでいるらしい。
 何気なく目で追っていると、突然母親の持った紙袋の底が破れ、中身が飛び出した。雨に濡れ弱くなっていたのだろう。声をそろえて溜息をつく二人は、慌てて濡れた地面から野菜や加工食品の箱を拾い上げている。だが、入れるものがないのか、両手に持てるだけ持っても余る量に、すっかり途方に暮れている。
 クラウドは煙草を投げ捨て、立ち上がった。
 面倒に関わるのは好ましくないと思うのに、どうしてそんな行動をとったのかは分からない。
 二人の方へ足を進めながら、身体を覆うマントを外す。
「…これを」
 突然見知らぬ青年から声を掛けられて、母子は無言でクラウドを見上げた。怪しまれることは分かっていたから、目立つバスターソードは先の玩具店の軒先に置いたままである。
「え?」
 母親が先に反応を返した。
 多分クラウドの母よりは幾分若いだろうが、細い首筋やなだらかな肩が少し似ている。
「袋が切れたんだろう。これを使え」
 マントを広げ、まだ地面に転がったままのものを拾い上げていく。
 母子はまだクラウドの意図を理解していないのか、それとも怪しんでいるのか、両手いっぱいに日用品を抱えたまま呆然としている。あらかた拾い終えて顔を上げたクラウドは、そのよく似た母子の風貌につい笑みを漏らしていた。顔の造作もよく似ているが、その姿はもっとうり二つだったのだ。
「…さあ。家まで運んでやる」
 浮かべた笑みが効果的だったのだろうか、母親は顔を赤くし、少女は微笑んで、抱えていた荷物をクラウドの広げたマントの上に置いた。
「ありがとうございます。助かります」
 母親が腰を折って頭を下げるのに、クラウドは頷いて返し、マントの端を対角に結んで肩に担ぎ上げた。
「家はどっちだ?」
「あ、でも」
「あいにくだが、マントはこれひとつしかない。どうせ返してもらうなら、オレが一緒に行った方が早い。それより子供と手を繋いでいろ、もう暗い」
 母親はもう一度頭を下げた。
 クラウドは歩き出す前に置き去りだった剣を取り、反対の肩に担ぎ上げる。怯えられるかと思ったが、二人は口を開けて感嘆の声を漏らしただけだった。
「お兄ちゃん、大きな剣だねぇ」
「…そうだな」
「よく持てるね。重くないの?」
「もう慣れているから」
「旅をしているの? どこから来たの?」
 少女は見慣れぬ風体に興味をそそられるのか、きらきらと輝く両目で見上げてくる。
「ニブルヘイムから…」
 反射的に答えたクラウドの目前に、また閃光が走る。
───ニブルヘイム。
 劫火に焼かれる家並みと、振り返る背の高い人影。
 顔を背けたくとも、脳裏に浮かぶ映像から意識を遮断することはかなわない。奥歯を噛みしめ、平静を装うクラウドに質問しつづける少女を、母親が止めた。
「あんまり立ち入ったことを聞くもんじゃないよ」
「ごめんなさい」
 クラウドは無言で首を横に振った。
 それが精一杯だった。

 三階建ての古い建物の前で母子は足を止めた。
 もう辺りはすっかり暗くなっていた。民家に灯る電灯が彩りをそえる。
 通りに面した一階の扉の鍵を開け、室内へ招き入れようとする母親を制して、クラウドは荷物を差し出す。
「ここで待っている。中身を出したら、マントだけ返してくれ」
「…すぐに」
 見知らぬ男を家へ招き入れることには、やはり躊躇があったのだろう。母親は少女を伴って家へ入って行く。クラウドは扉の前の階段の一番下に腰掛けた。
 扉を通して母子の声が聞こえる。「かっこいいお兄ちゃんだね」という少女の声に、クラウドは皮肉な笑みを浮かべた。
 どう考えてもいぶかしむべき風体の自分に母子が警戒心を解いたのは、どうやらこの容貌が一役かっていたらしい。
 ミッドガルヘ出て来たばかりの昔は、よくそれを同僚に侮られたものだ。
───同僚?
 そういえば自分は故郷から出て、軍に所属していたのではなかったか。
「お待たせして」
 突然扉が開き、暖かな電灯の光を背後に、よく似た母子が揃って顔を出す。
 階段に座ったまま顔を上げたクラウドへ、母親は驚愕の視線を張り付かせた。
「…ソルジャー…!」

 ソルジャー。
 その言葉を耳にした途端、クラウドの頭の中で警報が鳴る。
 聞いてはいけない、と何かが止める。

「セ……」

 音を発しようとした喉が干涸らびて固まる。
「あ、ご、ごめんなさい! 目が光ったものだから驚いて…。あなたソルジャーだったのね」
「お母さん、ソルジャーって?」
 少女は母親のスカートの裾を引いて見上げる。母親は困ったような笑みを娘に向ける。
「神羅は…やめたんだ」
「そう。…それよりもこれ、ありがとうございました」
 クラウドは立ち上がり、差し出されたマントを思いの外冷静な気持ちで受け取った。そしてお礼だと言って渡された小さな袋も受け取り、階段を下りる。
「ありがとう。ソルジャーのお兄ちゃん!」
 戸口で手を振る少女は、その呼び名に含まれる意味を理解してはいないのだろう。
 苦笑に似た笑みで小さく頷き、見送る母子へ背を向けた。
 
 クラウドは見開いた目の前に手をかざした。
 エメラルドグリーンの淡い光が手のひらに反射する。間違いなくこれは魔洸を浴びた者の奇妙な特徴だった。
 段々と、水中から水面へ浮かび上がるように、記憶が形を成す。
 自分は14歳で故郷のニブルヘイムからミッドガルへやってきた。ソルジャーになり、ミッションではあの英雄と肩を並べ、共に闘ったのだ。
 英雄。神羅の英雄。
「セフィロス…」
 クラウドは通りから裏路地へよろめきながらも逃げ込み、ぬかるむ地面へ両膝をついた。
 警報が大音響で鳴り響く。
 聞くな、考えるな、思い出すな、と。
 何を恐れているのか、何を考える必要があるのか、何を忘れているのか。疑問に思えば思うほど酷くなる強烈な頭痛に、意識が遠のく。
 そして今度こそ本当に気を失った。

 足元の水たまりが跳ねる。
 いつしか姿を現した正円に近い月が、水の中で揺らめいている。
 汽車の汽笛と、車輪の回る音を聞いたような気がした。
「クラウド?」

 そこで目を開けるべきではなかったのかもしれない。
 記憶の中で思い当たった懐かしい名を呼び返さなければよかったのかもしれない。
 そうすれば全てが辛い結末を迎えることも無かったのかもしれない。


03.03.30(了)
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