リベラ・メ |
所々に苔を張り付かせている以外、乾いた瓦礫の壁が延々と続く。下へと進めば進むほど、僅かな苔の色あせた緑もまばらになった。何とか足場になる岩の突起は狭いので、足を滑らせる危険は減ってありがたいくらいである。
数ヶ月前、青年が仲間達とここに訪れた時とは明らかに岩の形が変わっていた。
幾度か通った道も変化し、以前のように最深部まで迷わず進むことは叶わなかった。
噴き上げた強大な聖なる力と、あらゆる場所から姿を現したガイアの力に、どれほど頑強に見える岩盤も耐えきれなかったらしい。
あの力は決して人間や地上に生きる生物たちのために、正義の矛を振るった訳ではない。敵意を持つ持たないを問わず、無作為に噛みつく手負いの獣と同じだ。
人々から隠れるようにここまでやってきた青年をしても、風の噂で新たに流行する疫病や、各地で見舞われた災害の話を耳にした。
最も巨大な都は完全に廃墟と化し、ここまでの道中見掛けた馴染みの街も、地震やそれによって起こった火災で被害を受けた。
何も思い出せなかった時のように、何も知らなかった時のように、青年自身に僅かな余裕があれば、復興に手を貸したかもしれない。
そうしたい気持ちが完全に失われた訳ではない。
だが、今の青年の目には、必死に街を立て直そうとする彼らの希望に満ちた姿も、途方に暮れる哀れな様子も、夕暮れ時煤けたガラスに物が映るように、ただ像を結ぶだけだ。
そうして辿り着いた北の果て、人間が訪れることはまずあり得ない深い穴を、あるとも知れないものを目指して徘徊する。
青年の半身を持つ男は、まだその気配さえも窺わせなかった。
朽ちた獣やモンスターの死骸が散乱している。根気よくその隙間に目を凝らす。
───きっとどこかに、あの男の亡骸がある。
大きく真っ黒な虚空を底まで覗かせていた空洞は、噴き上げた溶岩とライフストリームの結晶に塞がれていた。それ以上、下に進む糸口が掴めず、途方に暮れたクラウドはその場所に身を横たえ、久々の休養を取ることにした。
長旅の疲れもあったのか、すぐに重くなった瞼を逆らわず降ろし、固い岩石に薄いマテリアを張り付かせた床で、泥のように眠り込んだ。
これまで通ってきた道では、大型のモンスターにも遭遇し、周囲にある横穴からはそれらの気配もする。無防備に眠れば襲われることも想像できたが、躊躇もなかった。
それで息絶えられるのなら、ここにあるはずのあの男の亡骸と一緒に、朽ちていくのは理想的に思えた。
見たくもない夢を見る余地がないほど、深い眠りについたクラウドは、小一時間ほど後、悲しいほど身に付いた感覚で、何かが近付く気配を察した。
乾いた岩を踏みしめる、二本足の足音。不自然に関節を軋ませるそれは、ただの大型の獣とは異なる。
ほんの少し頭を上げた岩の影から現れたのは、奇怪な竜だった。露わになった骨には腐りかけ、襤褸布のようになった表皮が垂れ下がり、姿に見合った悪臭を放っていた。人間の存在を嗅ぎ取った鼻は、頭蓋骨に開いただけの穴だった。威嚇音を発する口には舌も顎の肉もなく、尖った牙だけが並んでいる。
地竜の屍に獣の霊が取り憑き、本能のままに徘徊させているのだろう。
立ちあがり、剣を抜き払ったと同時に、ドラゴンの屍霊は牙を剥き出して飛びかかって来た。屍霊は獲物を噛み裂き、まとわりつかせた腐肉の一部とするつもりなのだ。
剣の平で頭部を殴りつけただけで、屍霊はひるんで狼狽えた。巨体に見合った足を地団駄するように暴れさせ、幼児の上げる金切り声に似た甲高い咆吼は、空洞全体を震わせる。
この程度のモンスターであれば、幾度となく相手にしてきたクラウドは、恐怖も驚きも感じず、静かに屍霊の動きを見据えていた。
だが、何かが弾ける音に、一瞬背筋を強ばらせた。
屍霊の足元の岩盤が大きく揺らいだ。
大きな亀裂が放射状に広がり、屍霊の巨体が岩と一緒に亀裂の隙間に滑り落ちていった。
クラウドも、斜めに落ち込もうとする地面を蹴ろうとするが、辛うじて指先に当たった岩の端に掴まるのが精一杯だった。
真昼の太陽のように眩しい光が、足元から沸き上がっている。
何もない足元の遙か三十メートルほど下は、魔晄の淵だった。
ドラゴンの屍霊は崩れた岩盤と一緒に、その緑の光の中へ落ち込み、消えた。
クラウドが掴んだ場所も、今にも崩れそうで頼りない。身体を引き上げようとすれば、掴んだ岩が粉々に砕け、屍霊の後を追うことになりそうだった。
剣を背のホルダーに戻して、右の手でも足場になりそうな突起を探る。掴んだ岩の周囲からは絶え間なく細かな砂利や石が降り注ぎ、間もなく掴んだ場所の根元から、岩が傾いだ。
反射的に掴んだ場所を軸に、身体を振り、泳いだ手が今一度手掛かりを探していた。ふわりと身体が宙に浮く感覚の後、身体を追うように降ってきた岩盤が、首筋にぶつかる。
強烈な衝撃に意識が薄れる中、本能で伸ばした腕を、誰かに掴まれたような気がした。
後頭部の激しい痛みに飛び起きた時、クラウドは魔晄の淵からわずか二メートルほどの高さにある、狭い張り出しに横たわっていた。
落ちてきた岩盤に張り飛ばされてここに落ちたのなら、奇蹟というよりほかない。
少し動いただけで首筋から後頭部にかけて、ずきずきと軋むような痛みが走る。先に転落した屍霊が這い上がってくる様子はなく、緊張を解いてそのまま岩の上に今一度寝転がった。
ここは、この大空洞の最深部と思われた。
以前来たときよりも狭くはなっているが、丸い、巨大なプールを思わせる魔晄の淵は眩しい緑色の光を発して、水面はゆっくりと静かに渦を巻いている。
その周囲を取り囲む形で、幅数メートルの岩場がある。
所々は漸く人が通れる程度の狭い横穴に続いている。
落ちてきた場所を見上げてみると、ドーム状に覆った岩盤の中央が、丸い形にぽっかりと穴を開けていた。元々薄かった中央の床が、あの屍霊が暴れたことで崩れたに違いない。
穴の開いた天井部分までさしたる足掛りも見当たらず、到底上まで登れそうには思えなかった。
首筋の痛みが和らいでから、クラウドは慎重に岩場を廻ってみた。
魔晄の淵を囲む岩場は、人工的な建造物のようにきれいな円形を描いていた。周囲の岩の表面には、分厚い魔晄の結晶が張り付いている。何かの死骸やどこからか落ちてきた枯草が結晶に閉じ込められた様子は、緑色の琥珀に見えた。
特に注目すべきものもないので、三つ開いた横穴を覗いてみるが、一つは数メートルで行き止まりになり、一つは上へ、最後の一つは下へと向っていた。
クラウドは迷うことなく下方へ進む道を選んだ。
穴の高さは、クラウドがぎりぎり屈まずに進める程度、横幅も両手を伸ばすには狭い。地面は表面の滑らかな岩で、水道管の中を歩いているような気にさせた。
壁に手を置いて、慎重に足を進める。
ここでは完全に陽の光が届かない。頼りになるのは、魔晄の緑色の明かりだけだ。横道は左に折れ、背後から照らすそれも弱くなった。
視界にあるものが限定されると、クラウドは本能的に気配や音に敏感になる。これまでずっと混乱の中に置かれ続けていた性だ。だがここにはモンスターもいない。自分のもの以外、足音も息遣いもない。
思わず息を詰めてしまうような静寂の中を、十数メートルほど進んだころだろうか。
薄暗い道は、通路よりもほんの少し拓けた場所で終わり、その行き止まりに何かが蹲っていた。
周囲の岩に張り付いた結晶の微弱な明かりだけでも、その彫像のような滑らかな胸の輪郭ははっきりと見えた。
拓けていると云っても、道幅がニ、三メートルほどに少し広くなった程度である。
長い手足と、常に見上げていた長身には、手狭な石室だとぼんやりと思った。
「セ……」
呼び掛けた声が思わぬ音量で反響して、クラウドは口をつぐむ。
眠りを妨げることを憚ったのか、それとも彼の名を口にすること自体に後ろめたさがあったのかもしれない。
静寂の中響いた声にも、影は身じろぎする気配など感じられなかった。
すぐ横まで歩み寄って、膝をついて屈み込んだ。
怜悧な顔は穏やかに目を閉じ、口元は僅かに微笑んでいるようにも見える。みずみずしい肌の表面とは異なり、整った唇は乾いている。
しみ一つない額やこめかみから流れ落ちた長い髪は地面に広がっている。
クラウドは踏みつけてしまわぬよう、地面に散っていた髪をかきよせた。髪がまとわりつくのにじれて、グローブを脱ぎ捨てる。束ねた髪は胸のあたりにのせる。
動かない胸は以前と変わらず理想的な形にもりあがり、わきについた乳首は血の通った色を保ったままだった。
髪を置いた左手をそのまま胸に這わせてみれば、冷たかった。右手で額に触れ、頬にかかった髪を整える。
見下ろした裸体は、五年ぶりに再会した時とは違い、大腿部も二本の足も備えていた。
普通の死体のように腐敗が進んでいる様子はない。冷凍状態になっている訳でもない。だが完全に活動を止め、呼吸も、血液の流れさえ止めていることは、胸や腕、足に残る幾つかの傷跡が物語っていた。
腕や足は、指で肉をこそげ取ったような大きな傷があった。
その投げ出した男の右手が、何かを持っていることに気付く。暗がりで目を凝らすと、動物の死骸のように見えた。
顔を近づけて、それがこの男が『母』と呼んだ生物の頭部であると分かった。
干からびて、ミイラのような様相の頭部は、首の半ばから断ち切られ、額より上から後頭部にかけて脳髄の部分を完全に欠いていた。覗き込んだ奥には内臓らしき色も見えたが、周囲は完全に焦げ茶色に渇き、以前感じた畏怖など欠片もない、惨めで、矮小な姿だった。
このジェノバ、そして変異したこの男と戦った時、仲間と共にその圧倒的な力に全力で抵抗した。これまでの戦いで覚えた反射的な動きと判断が、身体の限界までの力を引き出させ、思いの強さが後押しした。でなければ、あれほど強大な力を手にした彼に、これほどの傷を負わせることは出来なかっただろう。
ジェノバの頭部と違い、男の方はどの傷も、剥き出しになった筋繊維や脂肪の表面は乾いたような色になっているが、ちぎれた血管は、赤い生々しい色を保ったままに固まっている。
シンメトリーに配置された胸の中央には、他の傷とは異なるもう一つ傷があった。あの最後の対決で、クラウド自身が穿った剣の痕だ。
数ヶ月前の戦いの頃を、酷く昔の記憶のように思うようになっていたクラウドは、その傷跡に、鮮明な、あらゆる感情を呼び戻された。
仲間たちと共に、変異した男と戦ったクラウドは、自分とは遠いところにある衝動に支配されていた。
引きとめようとする力が強くとも、このままにはしておけないという使命感だったのかもしれない。クラウドが目覚めたと同時に、内なる場所から呼び続けた男の意思に従っただけなのかもしれない。
だが、打ち勝ったと思った後にも、戦いの地にクラウドを留めようとする声は止まなかった。本当の終わりはまだなのだ、と。
呼びかけに答えて出向いた場所は、男が最期の力で作り上げた幻覚なのだと思っていた。
自分と、男の未練や執着が作り出した仮想世界、そう思っても見慣れた顔と身体を目の前に、クラウドは上げた剣を振り下ろすことも出来なかった。
決着を。
何よりもそれを望んでいる男の意思は分かっても、クラウドの腕は動かなかった。
本気であることを見せつけようと男が薙いだ刀は、クラウドの頬を掠め、僅かな痛みと傷を残した。反射的に返した剣が、男の胸の中央に埋もれ、剣の刃からクラウドの腕を伝って地面に流れ落ちた。
五年前とは、丁度逆の立場だった。
『仕方のない』
血液と一緒に伝ってきた声に顔を上げ、男の顔を間近に見た。
あの後、洗っても洗っても、指先に残った血の色と感触は忘れようもない。
メテオの消滅に喜ぶ仲間たちと相反して、クラウドは彗星以上の大きな何かを自分の中から失っていた。聖なる力は亡き少女の命を賭けた悲願であったが、同時にあの男の完全な死をも意味していたからだ。
抜け落ちたものの余りの大きさに、立ち上がる力を失い、息すら出来ない気がした。悲しいのかどうかも自覚のないまま、涙だけが壊れた蛇口のように流れ落ち、体内のものを胃液すら吐き戻した。肉体の制御を手放してしまえば、人間はいとも容易く壊れることができる証明だった。
これまで大事な者と引き裂かれたのは、初めての事ではない。幼い頃から唯一の肉親だった母、思春期を共に過ごし分かち合った友ザックス、本気で守りたいと思ったエアリスもまた、クラウドの中を今も大きく占める存在である。
彼らを思い出して涙した日も多くあったが、その彼らを奪った男を失ったことが、クラウドに人間の本能すら忘れさせた事実は衝撃だった。
そして彼が、クラウドにとってなんだったのか、未だに位置づけることすらできない。
こうして探しつづけた亡骸を前にしても、クラウドには分からなかった。
「セフィロス」
遂にその名を口に出し、ただそれだけの行為に不思議とわだかまりが溶けていく自覚があり、クラウドは口元を笑みに歪めた。
もう一度冷たい額を撫で、髪に指先を絡め、もう一方の手で彼の手を探った。
以前したように強張った指を交互に握り取る。握り返す力が篭められることはなくとも、記憶にあるその感触は忘れようがなかった。
間近で美しく整った顔に目を据えたまま、セフィロスの固い胸元に耳を押し当てた。
「やっと会えたな」
思わず声を立てて笑ったと同時に、目頭から熱い雫が零れた。
こめかみを伝って伏せた男の胸へ流れていく涙は、まるでガラスに降った雨が落ちていくさまに似ていた。雨足が早まり、絶え間なく流れるものを、止めようとはしなかった。ここにはそんなクラウドを咎める者も、笑う者も、居はしない。
「セフィロス」
囁く音量で、そう何度か名を呼ばわった。
応えを期待しての呼びかけではない。名を呼ばれる本人を含め、応える者が誰一人いないからこそ、クラウドはこうして泣くことも出来たのだ。
何度も飽くほど名を呼んで、漸く満足して口を閉じても、涙だけは留まることなく流れつづけた。
いつからか涸れたと思っていたそれが、今更こうして流れ始めたのは不思議だったが、同時にクラウドはやっと人間に戻れたような気さえした。
時間の感覚を完全に失っていたクラウドは、セフィロスの胸元を枕にそのまま眠って、目覚めては再び流れ落ちる涙をそのままに、彼の顔を見つめ続けた。
幾度か眠り込み、目覚めてを繰り返し、時折彼の身体に沿うように姿勢を変えたりしても、何をするでもない。冷たい胸や足を撫でては、頭をのせた肩や胸を濡らし、また眠り込む。
何度目かそれを繰り返すうちに、喉の渇きや飢えも感じたが、まるで赤子がするように彼の髪や指先を口に含んで紛らせた。
変化するはずのない陰茎をいつまでも撫でてみたり、胸に頭を乗せたまま間近にある乳首を咥えて弄んだりもした。それもクラウドは欲情していた訳ではない。
他人が見れば、死体を玩ぶ狂人と恐れられたかもしれない。それでも、この時クラウドはなんの疑問も不快感も感じなかった。
いつか二人で過ごした休日のように、他愛のないことを話して聞かせた。話には何の脈絡もなく、話の途中で眠り込んでしまうこともあった。
幾日過ぎたかもすっかり分からなくなった頃、遂にクラウドは立ち上がることもしなくなった。いつしか涙は出なくなったが、クラウドは自分のことながら、物理的に水分がなくなったのだろうと思った。
口腔や目が異常に渇き、むろん水も浴びていない髪や身体は埃と砂と垢に強張っている。身体を起こす力も尽き、彼に語り聞かせる声を出すのも疲れて止めるようになった。
このままこうしていれば、クラウド自身も彼のようになるかもしれない。
目を覚ます時間が極端に短くなり、眠り込む時は半ば意識を失っていた。
『死ぬ気なのか』
聞き覚えのある声に驚き、髪を撫でられる感触に飛び起きたつもりだったが、周囲は完全な闇で姿は見えなかった。
そもそも現実であるなら、僅かながら魔晄の放つ光があり、クラウドが視界に不自由することはない。これは夢だと瞬時に判断したものの、声や息遣いは奇妙なほど現実感がある。
『せっかく拾った命を、ここで捨てるのかと聞いている』
人に命令することに慣れた言い様が、クラウドを正気に返した。
「なんでそんな風に思うんだ」
『飲まず食わずで、こんな場所に居座るのは、死ぬつもりでいるのかとな』
男が鼻で笑う気配を睨みつける。
「お前のために居たわけじゃない」
『そうだな。お前はお前の欲求を晴らすために居るだけだ』
「あんたに言われたくない」
『……そうだな』
再び漂った笑いの気配には自嘲があった。
途端にその気配に懐かしさを覚え、クラウドは動揺する。それこそがクラウドの求めていたひとつであった事に、今気付いたからだ。
亡骸からもそれを僅かには感じることが出来た。彼を見失ってから訪れた神羅屋敷の地下でも、廃墟となった神羅ビルでも、彼が実在した証拠となるべきもの全てから、クラウドは感じていた。
失ってしまった人達は、悲しくともいずれは忘れ、クラウドの胸の奥で小さな塊のようになって生き続けている。
だが、この男だけは、セフィロスだけはどうしても、忘れることも諦めることも出来なかった。
未練なのか。だとしたら、どうしていたら未練が残らなかったのか。
今目の前に存在する気配が、例え生前の彼が残した意識の欠片でも、ただの幻でないとしたら。
「あんたは、何がしたかったんだ」
気配が変わり、クラウドは緊張に固まった。
セフィロスは以前から口よりも、気配でものを語った。短い期間といえど、密に接したクラウドはそれをよく覚えていたし、彼の気配を測るのも慣れている。
『お前は、何度も同じ質問をする。本当に分かってないのか』
「あんたの言うことなんか、いつだって伝わらなかった」
押しのけようと闇の中に払った手が、何かに触れた。
男の腕と思われるそれに両手でしがみついた。
「あんたは―――死体になったって、寂しそうなままだ」
『オレの躯が、か?』
黙りこむクラウドを男の気配が見下ろし、突然笑いを弾けさせた。
『ではお前もオレの横で、人類が死に絶えるまで眠るといい。この地にオレとお前だけになったら、起こしてやろう』
「あんたはまだ、そんなことを!」
思わず声高に叫んだクラウドの肩を、今度はセフィロスの両手が掴んだ。
『それが嫌ならば、振り返らずにここを立ち去れ。立ち上がる力が、お前に残っているうちに』
長い両腕が抱え込むように巻きついた。
記憶にある匂いは彼の亡骸からは感じられず、再び懐かしさをかきたてた。
思い出したように湧き上がる涙に、何も映さない闇すら滲んだ気がした。
「いやだ。もう、無理だ」
『お前がオレに執着するのは、単にオレの一部を持っているからに過ぎない』
「違う」
『違わないさ。オレのインコンプリート』
気配が降りて、唇がクラウドのそれに触れた。
ぶつかり合った高い鼻を避けて、より深く合わせようと動くと、腰を抱いた腕の力が強まる。柔らかく濡れた舌が口内を深く蹂躙しては、優しく噛み、角度を変えてもう一度貪るように。
鼻先に触れた肌と、自ら抱き寄せた頭を流れる滑らかな長い髪に、涙は一層溢れた。
『もう行け』
どこからが夢で、どこまでが現実だったのか自覚もないまま、気付けばクラウドは微弱な魔晄の明かりに満ちた通路を、自分よりも大きな男の身体を引きずっていた。
力を失った腕に男の身は重く指先は強張り、すぐに息が上がる。少し進んでは休み、息が整ってから再び僅かな距離を動かし、従来のクラウドの力であればあっという間だろう短い通路を抜けるまで、相当な時間を要した気がした。
魔晄の淵のほど近くまで移動させたところで、クラウドはその場にしゃがみこみ、同時にセフィロスの右手に何かがひっかかっていることに気付いた。
ジェノバの頭部である。
ヘッドギアのスチールの輪を掴んで引っ張ると、かろうじて填まっていたらしい渇き切った頭部は簡単に抜け落ち、足元を転がって魔晄の淵に落ちる。
クラウドにとって、既に興味も恐怖もないものになっていた。
セフィロスの指に絡んでいたコードを外して、ヘッドギアも投げ捨てた。
「あんたをここに捨てるのは、もったいないな」
思わず漏らした自嘲の笑いは、零れ出た本音に対してだった。
「やっぱり、ここで一緒に眠っていようか」
応えない男へ語りかけ、名残惜しげにその額を撫でた。鼻筋を辿って唇から顎へ撫で下ろし、固まったままの唇に己のそれを触れさせる。
それから最後の力を振り絞って、すぐ下の魔晄の淵へ男の亡骸を押しやった。
水と異なり、魔晄の水面は音も立てずに男を受け止め、静かに光の渦の中へ長身を沈ませた。
男の姿が見えなくなっても、これまでとは少し違う喪失感を覚えながら、クラウドは岩場にしゃがんだまま魔晄の流れを見つめていた。
黒く汚れた頬に残る涙の塩分は、肌にひりひりと刺激を与える。
恐らく再びその感触を味わう時は、この先訪れないだろうと虚ろに考える。
クラウドにはもう、彼の半身の男に習い、全ての感情を飲み込んで、この地と生物の滅亡を見届ける生き方しか残されていなかった。
これまで一度も足を踏み入れなかった、上へと上る横道を潜る。
次第に狭くなっていく岩の間になんとか身体を押し込むと、通ったことのある道の、思わぬ壁の隙間から這い出すことが出来た。
幾日前かも分からぬ記憶を辿り、頂上へと向う道を進めば、次第に朝の空気が辺りを包み、白み始めた空が窺えた。
この最北の地に立つ、巨大な墓には不似合いな朝日が昇ろうとしていた。
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06.5.15(了)
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ガブリエル・フォーレ作曲 レクイエムOP.48 [リベラ・メ] より |