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女神の祭壇

 少女はたった一人で緑のトンネルを歩いていた。
 本当にトンネルと呼ぶに相応しい、木々の生い茂った森は、不思議と少女を迎え入れんとするように枝を開き、先へと導いてくれる。
 数日前に古代種の神殿を後にして、ゴンガガに逃げるように移動した一行が眠りに就いた夜、少女は一人抜け出した。そしてコスモキャニオンまで歩き、そこから丁度北大陸まで向かうという船に便乗させてもらい、この森の入口にあるボーンビレッジに到着したのは今朝方だった。
 何か明確な目的や方法を掴んだ訳ではない。
 ただ、少女は知っていた。
 恐らく、黒マテリアに姿を変えたあの古代種の神殿を、見守って来た精霊たちが少女に囁きかけたのだ。これから彼女が何をすべきか、何所へ行くべきかを。
 光の溢れる道に不思議とモンスターは出現しなかった。ボーンビレッジの住人たちが、一人森に踏み込もうとした少女を「危険だ」と強固に止めたから、一体どんなに恐ろしいものがいるのかとそれなりに緊張して進んでいるというのに、コスモキャニオンまで徒歩で向かった時の方がよほど難儀したくらいだった。
 森を抜けると、いきなり拓けた視界には見たこともない街並みが広がっていた。
 貝殻のような家、骨を組んだような白い道、断崖をくりぬいた建物。
 どこにも人の気配すら感じられないのに、生活の匂いを感じた。つい先日まで人間が住んでいたような空気がある。
 そして街の上にはドーム状の天井のようなものがついていた。太陽の光を通す透明度の高いガラスのようなものが、まるで大きな樹木が枝を広げるような形でここを守っている。
 外側からはどんな風に見えるのか、彼女には想像がつかなかった。
 ここは古代種の町だった。
 脊髄の道を一歩一歩踏みしめる度に、懐かしい気配が少女の耳元をかすめ、見知らぬ者が囁いた。
 神殿にいた精霊たちと同じ気配で。
『おかえり、エアリス』
 ここは確かにエアリスの故郷だ。
 誰も住まなくなった時から、この街は時間を止めている。ドーム状の屋根に守られ、精霊たちに守られ、ただ静かに不動のまま数百年数千年を待ち続けている。
 エアリスは道の中央に膝をついて座り込み、硬質な輝きを見せる路面に口付けた。
「ただいま」


 エアリスは長旅で疲れた身体をとりあえず休ませようと、通りに面した貝殻の家の一つに入り、その寝台に横たわった。
 シーツや掛け具まで残されたままの寝台には、不思議なことに埃も積もっていない。かび臭くもない。まるで昨日ベッドメイクしたばかりのようだ。
 この現象には興味があるが、深くそれを追求するつもりもまたなかった。
 それよりも、彼女には今考えるべきことがある。
 仲間たちを置いて出て来たことに意味はあったが、心残りがない訳ではない。特に黒マテリアをセフィロスに渡してしまったあの青年のことは、旅を始めてからずっとエアリスの心を占領し続けていた。
「クラウド、泣いて、ないかしら」
 横たわったまま声に出して呟き、エアリスは小さく笑った。
―――可愛い人。かっこいいのにね。
 彼女が大事に育てていた教会の花壇に彼は突然空から降ってきた、それが出会いだった。人間が降ってくることなど勿論初めてだったが、その彼の整った容貌に少しだけ見惚れ、そしてその懐かしいようなソルジャーの制服と剣にどきりとした。
 ずっと以前、エアリスの唇に軽くキスをして仕事に出かけていったソルジャーの青年を思い出したからだ。
 そして一緒に過ごせば過ごすほど、何もかもが一緒だった。顔や声こそ違うのに、太刀筋や仕草までがよく似ている。偶然にしては奇妙な一致だった。無口で冷静なクラウドに比べ、彼は性格こそ能天気でおしゃべりだったが、それでも。
 彼らがどういった関係で、何故クラウドが彼を忘れているのか、彼は今どうしているのか、どれもエアリスにはわかっていない。
 知りたいけれど、怖い。
 どちらの青年も気がかりなエアリスに、真実を知るのは恐ろしかった。
 そのクラウドを置いて独りここへ来てしまったのは、彼を伴ってくれば、必ずそこにセフィロスが現れるからだ。
 クラウド自身の意思ではないことは最初からわかっている。だが、古代種の神殿でセフィロスがクラウドを操って見せたときに、エアリスは確信した。
 セフィロスとクラウドの間には、互いを引き合う秘密があるのだと。
 もちろん顔見知りであることはクラウドの口から聞かされていた。具体的な記憶が混乱しているとクラウドは言うが、浅からぬ関係だったことはきっと間違いない。
 肉体的な、精神的な、まるで親兄弟の縁にも似たものが、あの二人の間にはある。
 冷静なクラウドがあれほど激情を露に執着するのは、エアリスだけでなく誰の目にも奇妙に映る。そしてあの神羅の英雄と呼ばれた人物が、何を悔やみ、憎み、そこまでの狂気に駆られたのか、そうなってまであの孤高の男が何故クラウドには執着を見せるのか。
「哀しい人」
 セフィロスを思ってエアリスは呟いた。
 黒マテリアに対抗し彼を止めるためには、今手にする白マテリアを発動させる必要がある。そしてそれを行うには、エアリス自身の身を捧げる必要があるのだと察知していた。
 その為に自分が生まれて来たのなら、覚悟というより、投げやりにでもならざるを得ないではないか。
 だからこそ、ここで自分が果てるなら、大事な人たちを少しでも幸せにしたかった。例え星の意思に反しても、それくらいの我儘は許して欲しかった。
『聖母にでもなったつもりか』
 耳元に囁かれた言葉に、エアリスははっと、寝台から上半身を起こしていた。
『お前に哀れまれるとはな』
 聞き覚えのある、男の低い声だった。
 精霊たち――古代種や星の囁きとは異なる、人の声だ。
「誰?」
『知らないとは言わせない。お前らが追って来ているというのに』
「セフィロス」
 顔を向けた場所には、長身の、美しい男の姿があった。
 背後にした貝殻の家の柱や壁が半分透けて見えている。実体ではないが一瞬でエアリスは総毛立った。
「なぜ、なぜあなたが、ここに」
『古代種の力とは侮ったものではないな。こんな遺跡の町にまで結界が張られている。潜り込むことすら一苦労だ』
 皮肉に言って笑い、実体があるかのように肩を払う仕草に、エアリスは寝台の上で身を竦めた。幾ら白マテリアを持っているからとはいえ、エアリスは肉体的にはただの娘だ。神羅の英雄と呼ばれたセフィロスと、真っ向から戦えば、勝てる確証はない。
『怯えずともいい。この身体では何も出来ない。例え殺してやりたくともな』
 恐ろしい言葉を吐きながら、何故か彼からは殺気の一欠けらも感じることは出来なかった。それが実体のない姿だからか、それとも殺すつもりでなく現れたからなのか、エアリスには判断できなかった。
「何故、来たの」
『白マテリアを……ホーリーを発動させるつもりか』
「あなたが、黒マテリアを手にした以上、私達に残された、唯一の手段だもの」
『そうか』
 セフィロスは静かにそう言って目を閉じた。
 エアリスは目の前にいる男が、実体ではないとはいえセフィロスその人であることが信じられなかった。
 多くの人を殺め、陥れ、人とも思えぬ所業を繰り返した狂人が、何故こんな悲しげな顔をするのか。これではまるでエアリスが虐めているようだ。
「なぜ、どうしてメテオを呼ぼうとしているの」
『知れたこと。全てを壊すため』
「分からないわ。あなたの言葉は私や皆を惑わせる。あなたほどの人が、どうしてジェノバなんかに操られているの」
 必死に言い募るエアリスを見下ろして、セフィロスは唇を歪めた。
『オレが操られていると? 馬鹿なことを言うな。これはオレの意思でもある。オレはこの世の全てが憎いのだからな』
 低く押し殺したような笑い声を立てて、セフィロスは広い肩を揺らす。
「クラウドも? 彼は、あなたにとって大事な人間ではないの?」
『あれは、お前を愛しているのだろう』
「『愛』?」
 エアリスはその言葉を繰り返し、それがセフィロスの口から飛び出たことに酷く違和感を覚えた。
 確かにエアリスはクラウドを愛している。仲間として、友人として。恋人のように、兄弟のように。
 エアリスを置いて行ってしまった青年よりも今は彼が大事だった。クラウドを守ることを、あの青年もまた望んでいるような気もした。
 だがセフィロスの言葉の様子からは、クラウドの心が以前は彼のものだったという主張に思えた。
「クラウドの身に、一体何があったというの? 彼は、あなたの、何?」
『先ほどからお前はオレに問うてばかりだな。そんな事も知らないとは、お前もまだ只の人間に過ぎないということか』
 静かに告げた言葉の調子とは裏腹に、これまで敵であることを忘れるくらい気配の薄かったセフィロスから、僅かに殺気のようなものを感じた。
 見据える目は魔晄の色。
 エアリスの愛した青年たちと同じ色でありながら、余りに異なる輝きを帯びている。
『お前はこの星の希望。古代種の血を受け継いでいるというだけで、どれほど多くの人間に愛され、求められて来たと思う?』
「……どういう、こと?」
『オレには唯一、クラウドだけだった。オレ自身が求めたのも、誰かにオレ自身を求められたのも。その唯一すらお前は奪おうとしている』
 強烈な風となって吹き付けた殺気にエアリスは身を竦めながらも、セフィロスの言葉の意味と、そこに秘められた執心を理解し、呆然となった。
 この男はクラウドを愛しているのだと。
 クラウドもまた、かつて彼を愛したのだと。
『あれはそのことを忘れた。だから罰を与えてやる。オレにはその権利がある』
 そういって低く笑いを漏らす男は、どこか恍惚とした表情も視線も口調も、狂気を露にしていた。
『お前にはあれの前で死を与えてやろう。お前がホーリーを唱える時間をくれてやろうというのだ。どうせそのマテリアに命を捧げるのなら、オレがとどめを刺したところで構わないだろう』
 優しげな声で呟き、セフィロスはエアリスへと指を伸ばした。
 背筋を震わせる殺気は消えていたが、幽体の彼の手から思わず身を引いていた。指先はやはり実体なくエアリスをすり抜け、まるで頬を撫でるようにして離れていく。
「クラウドは、あなたを許さないわ、きっと」
『構うものか。忘れ去られて遠くで生きられるより、オレを憎ませ傍に置く方がいい。全てが滅び無人となったこの星で、オレはあれと二人きりで生きる。それこそがオレに与えられる「約束の地」』
「負けない。皆できっと、あなたを止めてみせる」
『試してみるがいい。残された時間は少ないぞ』
 嘲笑を上げ、セフィロスの姿が薄らいでいった。
 そして音が途切れ、後には気配の欠片も残さず消えた。
 知らず頬を伝っていた涙を拭い、エアリスは手にしたマテリアを握り締めて寝台から立ち上がった。
 今この場でエアリスを殺すことは、セフィロスには実体がないから不可能だった。
 そして彼が操る実体…つまり番号のイレズミを持つ者が一人でもいれば、それが可能になるということだ。
 セフィロスの言うとおりなら、クラウドたちが、そしてイレズミの者がここに到着するまでがエアリスに与えられた時間だった。確かに残された時間は少ない。
 エアリスは貝殻の家を後にした。


 眠りも得ず、無論水さえ口にせず、どうしてこうしていられるかと問われれば、自分がその為に生まれてきたからだとしか答えようがない。
 水を満たした巨大な水槽に囲まれたような、その不思議な空間にある、冷たい石造りの祭壇に跪き、手の中に穏やかな輝きを放つ玉を握り締め、ただ無心に祈る。
 時折目を開けると、深海の底から水面を見上げるような光の帯がエアリスを照らしていた。
 ここにそうして何時間も何日もいる内に、それまでは理解出来なかった精霊たちや星の囁きが、具に感じ取れるようになっていた。以前は騒然としていたものが、まるで整理して説き伏せられているようにはっきりと、エアリスに知識を与えていく。
 愛して、待ち続けた青年が既に息絶えていたことも知らされた。
 彼の友であったクラウドを庇い、銃弾を一身に受けた彼の最期までを目にして、エアリスは声もなく泣いた。
 クラウドの失った記憶も、エアリスは感じ取った。己の記憶を封じ込めるほどの激情と激動は、想像する以上のものだった。
 そしてこれまで知らなかったセフィロスの出生の仔細や、彼の周囲で起きた出来事も垣間見た。自分の実父によって生み出され、かつては自分の義兄でもあったことも知った。結果的に父は彼に惨い仕打ちをしたのだ。
 生きていることはこれほど悲しい。
 その悲しさを振り払う為に人間は他人を虐げ、奪い、破壊する。その中には星が望まなかったものもあるのかもしれない。
 だが今のエアリスにはその人間たちの、愚かと知ってなお、そうせずには居れない嘆きと力強さが、愛しいものに見える。
 自分達人間はこれだけ足掻き、必死に生きているのだから。
 だから救って欲しい、無心にそう祈り続けた。

 そうしてどれだけ時間が経ったのだろうか、静かだった空間にエアリスは近づく人の気配を感じた。
 それも一人ではない。三人はよく知った仲間のもの。そして見知らぬ者が一人はあからさまな殺気を抱き、時折それにセフィロスの気が被る。
「エアリス」
 祭壇に上る階段の中途あたりから、ずっと案じていたクラウドの気配と声がした。
 己の身を蝕むジェノバの支配から逃れようと、必死で抵抗する彼の苦しみは、目を閉じていても伝わって来た。クラウドの剣が空気を切って振り上げられ、だがそれは抵抗が功を成して床に落ちた。
『そうまでこの娘が大切か』
 強烈な殺気がエアリスの頭上から吹き上がった。
 まだホーリーは発動していないのに、もう時間は尽きたのだ。
 閉じた瞼を上げ、目の前に立つクラウドを見た。せめて最期に彼の顔を見つめていたかった。
 殺気はすぐ背後に迫り、エアリスを衝撃が貫く。
 死の天使は黒い翼を持つ鳥のように、濃い陰を伴って舞い降りた。
 肩越しに横目で見やった、セフィロスの意思で動き、彼の姿をした男は、見覚えのある狂気の笑みを浮かべて、目を見開くクラウドを見ていた。
 男は容赦なく貫いた刀を引き、その反動でエアリスの身体は前にのめる。
「エアリス!」
 悲鳴交じりの声に抱きとめられ、驚愕と悲哀に引き攣ったクラウドの顔が間近に覗き込んだ。一瞬で膨れ上がった涙を目尻に溜め、大きな美しい目がエアリスを見下ろしている。
――泣かないで。
 声にはならなかった。
 忘れたはずの悲しい過去を、整った面に押し隠すのは辛いだろうに。何かを失う度に、その面から笑顔も失ってしまったのだ。
――笑って。
 彼はクラウドの笑顔が好きだったのだから。もちろんエアリス自身も。
 あのセフィロスでさえ。
 だから、この白いマテリアの力が、クラウドに笑みを取り戻してくれると信じたい。
「エアリス!」
 暗くなる視界の中を、掌から離れたマテリアが淡い緑の光を放ちながら祭壇から転がり落ちていった。

 彼の為に、聖なる光でこの地上を。
 全てを浄化し、闇を打ち払う古の魔法を。

 呟いたつもりだったが、もう唇は動かない。



『大丈夫。あんたはちゃんと務めを果たしたよ』
 懐かしい声につい微笑みが浮かんだ。
「本当に? マテリア、落ちたとき緑色だったのよ」
『大丈夫だよ。あとはクラウドがなんとかしてくれる。あいつは意外としっかりしてるんだ』
「ザックス! ザックス!」
 手を伸ばして駆け寄れば、太く力強い腕がエアリスを抱きとめ、揺ぎない足で踏みとどまる。
 漸く辿り付きたかった場所にやってきた。
『褒めてくれよな。あんたが来るまでずっと待ってたんだから』
「うん」
『さ、行こうか』
 どこへと問いかけようとして、エアリスは口をつぐんだ。
 ああ、と溜息のような声が代わりに漏れた。
 約束の地。
 全ての生命が帰る場所。
 少しの間別れることになっても、きっとクラウドらもいつかこの流れに戻ってくる。この星が生まれてからの年月に比べれば、きっとそれはほんの僅かな時間でしかないだろう。

 エアリスはこれ以上にない安らかな気持ちで目を閉じた。
03.09.09(了)
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【FF7 TOP】
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