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左 腕


 出血が酷い。
 血管が断たれただけでこれほど体液が流れ出るのは、生命を繋いでいく獣たちにとって、あまりに不利だ。ヒトにもっと昆虫のような堅い鎧があれば、いっそ刃で断ち切れないような、堅い管に血液が流れていれば、こんな風に死を近く感じることも少なくなるだろうに。
 だが堅いということは、つまりは細胞が密集して結合しているからで、それではヒトや獣のもののような、複雑な臓器の働きも柔軟さも得ることはできない。
 何かを手に入れるには、何かを手放さねばならないということだ。
 柔軟な皮膚と臓器を持ちながら、爬虫類以上の再生能力と昆虫類並のしぶとさを持つ己の身体は、明らかにその摂理から外れている。度々それを思い知らされる。
 自嘲の笑みを口元に刻みながら、クラウドは斬りつけられた左腕の傷を、腕と一緒に断たれた袖の布地で止血し、枯れた幹に上肢を預けた。
 彼らは何故ジェノバの首を手に入れようとしているのか。
 あれは北の果てにあったはずだった。誰も手に触れることのない、洞穴の奥に、あの男の亡骸と共に。
 彼らを追跡したいところだったが、この腕ではまだバイクに乗ることはできない。
 暫くここに留まるしかない。
 脈打つ度に傷はしびれ、熱さに似た痛みが波となって襲う。だが普通の人間ならば数日間熱に苦しめられ、生死の境をさまようような傷でも、クラウドのこんな傷が痛むのはせいぜい半時。ましてや厄災の細胞が色濃く根付く左腕であれば、回復魔法をかけてきっかけさえ作ってやれば、血が止まるころには傷も塞がりかける。
 この土地の地面は、季節に関わりなく立ち枯れて化石化した木々の影になり、冷えて固かった。
 腕の回復の為に体内の細胞が活発になれば、クラウドとて体温が上がり、その冷たさがむしろ心地よく感じる。こめかみを伝い落ちる汗が頬を流れると、冷えた地面に誘われるようにそこに横たわった。 
 負傷した時の熱さは、あの時の熱さに似ている。
 頭の芯がぼんやりと霞む感覚も、乱れる息も。傷口の焼ける痛みは抉られる狭間の感触にも。
 その瞬間、脳裏に浮かんだ男の姿を認め、クラウドは唇を噛んだ。
 木々のすぐ向こうにある泉は、彼女が眠る場所であるのに、そこでそんな想像をする己が腹立たしくもあり、そして幻の男が憎かった。
 そうこうしているうちに出血は止まり、ミミズ腫れのような傷跡と、腕を伝った血液だけが赤黒く残る。そしてまるで異物の存在を誇示するかのように、黒い染みが奇怪な紋様になっている。
 おまけにいつもよりもその形状ははっきりとしており、傷の治りも一層早くなっているように思われた。
 青年達の存在に起因しているのか。一所に同胞を呼び合う細胞が活性化しているのだろうか。あのオリジナルの意志は、もう疾うに失われているはずなのに、彼女は息子達を呼び寄せるのだろうか。
 負傷に呼び覚まされた細胞は、クラウドの心臓が脈打つ度に震えを大きくした。
 炎に焼かれる熱さが腕から全身に広がった。
 『帰りたい』と身体の中のなにかが叫ぶ。
 この二年、忘れていた声が聞こえる。
 耳鳴りに森の中で反響する古代種の嘆きが唱和し、クラウドの暴走を止めようと呼びかけるが、逆らいがたい熱さに左腕を右手で押さえ込み、その場に突っ伏した。
「う…あ」
 走る衝撃にうめき声を上げながら飛び起きて、今度は仰向けに転がった。ブーツのかかとが地面を削り、土まみれになりながら七転八倒し、押さえ込もうと足掻く。
「助け」
 右手が自然と空を掻いた。
 傷が痛むのではない。既にクラウドの身に残るのは瘡蓋程度だ。激痛は、あるべき半身がそこにないから。
 これは生きながら半分を裂かれる痛みだ。
「痛、い」
 木々の間に覗く空を見据えるように、見開いた両目から涙が溢れた。その目をもう一度きつく閉じ、叫んだ。
「セフィロス!」
 虚空を掴み締めた右腕を地面に縫い止められる感触があった。
 そして誰かに抱きしめられたように、クラウドは思った。


「ちくしょう」
 恨みを込めた声で吐き捨て、慌てて目を閉じるが、幻の男はクラウドの両腕を捕らえたままだった。
 もしここで顔を上げて、幻だと理解しながらも男の姿を直視してしまえば、クラウドは自己を手放すことになる。男の与える死も快楽も、炎に身を投げ自らの身体を燃やす蛾のように、クラウドにとっては逆らいがたい誘惑で、同時に例え幻でも彼に抱かれる行為は、常に激痛を与え続ける現実からの逃げ場だった。
 目を閉じたまま、誘惑から逃れる為に友人達の顔を思い描く。
 暖かな聖母のような娘と自分を守って散った戦士へ、もう一度、クラウドの己との戦いに力を貸してくれと。
 死を求めるなら未だどこかに戦場がある。ただ肉欲を晴らすためなら、自慰で十分だ。
 憎みながらも、結局望んでいるのはその男の意識と身体だなどと、自覚したくはない。
 でなければ。
 己の手でそれを壊した矛盾と後悔に、クラウドは押しつぶされ、壊れるしかないではないか。
『ひとつに、なりたいのだろう』
 忘れもしない低い音声に、目を開きそうになったクラウドは唇を噛みしめた。
 きつく噛んだ唇を湿った舌に嘗められ、瞬間背筋を走ったものに、詰まらせた息を吐こうとそれを開いた。そのすき間に入り込む感触は、どこか優しくもある仕草で歯列を追い、クラウドの舌を吸い上げる。
 不思議と口づけの間は苦痛が引いた。
 繋がっていれば、裂かれた痛みから逃れられるということなのか。
 痛みを忘れようと無意識に身体が動いたのか、クラウドは口づけに答えて自ら唇を開き、相手の舌を追った。

 そもそも二つに引き裂かれたのは、彼のせいではない。研究者たちの好奇心と探求心の犠牲であって、分け与えられたクラウドにも責任はない。恐らく彼の側に居続けることができたなら、クラウドらの関係も、この世界も、こんな歪みを帯びることはなかったろう。
 何よりも、こうして側にあると平穏な気持ちになることが証明している。
『何故繋がることを躊躇する』
 身体の痛みも忘れ、力強い腕と、ごく自然と流れ落ちる涙を拭う優しささえ感じる指先に、一層涙がこぼれた。
 もしかすると平穏な約束の地は目の前にあるのに、それから目を閉じ背け続けてきたのはクラウドの方だったのかもしれない。だがクラウドにとっての約束の地は、それ以外の大勢にとっての地獄だったのだ。それは二年前に証明されている。
 だからこそ受け入れないことがクラウドの免罪符であり、唯一残された良心だった。
「だって、おかしいだろ。あんなことやってきたオレが、こんな…こんな」
『安らぎを得るのは罪だと?』
「許されない。そんなこと」
 頬に男の息がかかっても、どうしても開けてはいけないように思え、クラウドは瞼に力を入れる。グローブの手の平を握りしめる。
「許してくれる人たちはもう、この世界にはいない。だからオレはずっとそれを負っていくんだ」
『共に負えばいいこと。全ての憎しみも、悲しみも、オレと共に無に還せばいい』
「そんな言葉が慰めになると思っているのか!」
 怒りをあらわに叫びながらも、大きな手を振り払うことも出来ず、固く瞑った両目ときつく握った拳だけが抵抗の意志だった。
 男はクラウドの頑なな様子に小さく溜息を吐いた。
 その音は懐かしいものだった。幼いクラウドの強情に、そうやって溜息をつく様を、昔はよく隣で眺めていた。
 瞬時に瓦解しそうになったクラウドの手首を、男は漸く解放した。だが安堵するまも与えず、離した大きな手が首筋を這った。
『哀れな子供に、せめて一時の安らぎなりとも』
 暖かい息が耳にかかり、耳の下に口づけながら男の手が襟元に伸びる。
 微かな音と共にシャツのファスナーを静かに下げられ、ベルトの隙間を縫うように、グローブの手が胸を撫でた。
 性交への愛撫とはほど遠い、まるで母が子を宥めるような手つきに、クラウドは自然と身体の力を抜いていた。
 破けた片袖を外し、止血に巻いていた布を取り去り、むき出しになった左腕を大きな手がひと撫でし、そこにもっと柔らかいものが伝う。目を瞑っているクラウドには傷跡の経過を確かめることもできなかったが、傷を唇が辿る様子は明確に想像することはできた。触れた部分から伝わる微かな電流が、傷だけでなくクラウドの痛みを拭い去る。
 男は己の半身をそこに見出しているのだろうか。
 今はその存在があるのかないのかも分からない男と、クラウドを繋ぐ唯一の細胞を。
『信じなくともかまわない』
 男の掌がクラウドの目元を覆う。
『いつか。そう遠くないいつか、お前の下に戻るだろう』
 安堵なのか、それとも再び始まるだろう苦痛になのか、もう一度目尻から涙がこぼれ落ちる。
 彼の手でそれが隠れることを期待しながら、意識を途切れさせた。


 クラウドが次に目を開けたとき、辺りは相変わらずの霧に包まれ、静かに立ちつくす木々の化石が、たった独り、地面に伏せた人間を見下ろしていた。
 周囲にはクラウド以外の足跡があるわけでもなく、顛末が単なる夢か、ジェノバが見せる幻だったのは明白である。
 だがすっかり跡形もなく消えた左腕の傷と、男の存在を意識させる黒い染み、そして上衣がはだけられ、まだ暖かさを覚えているような剥き出しの胸と、そこに残る口づけの跡が、クラウドには何かの兆しのように思えた。
 軽く頭を振って立ち上がり、衣服を直して剣を背負う。
 青年達の陰謀を阻止する決意はすでにある。
 もしかするとそれは、あの男の半身は己だけだという自負がもたらした決断かもしれなかった。


04.07.15/05.11.02改稿(了)
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