夢見る子供 |
自分がいつ、どこで生まれて、こうしているのか少年には記憶がない。
というよりも、まだ生まれていなかった頃の他人の記憶しかない、という状況は普通の感覚で云えば不可思議な話なのだろうと思う。
一つ確かなことは、自分が『セフィロス』という男の思念で構成された虚ろな存在で、全ては『母』の意思で生まれたということだけだ。
傍らにいる二人の兄弟たちも少年と同じように生まれたが、二人は少年とは異なった性格と記憶を引き継いでいた。
大人びているのに他人の感情に疎いヤズー、泣き虫のロッズ。二人の性格も、かつて『セフィロス』の一部だったと思えば、口元の緩むのを禁じえない。実は少年自身よりもずっと人間らしいのかもしれないと思える。そしてこの三人の兄弟の中で、恐らく少年が最も『セフィロス』の性格や思考を強く引き継いだからこそ、こうしてリーダーとして動いている。
とはいえ少年には、かつて存在した人間たちの憎しみを『母』が増幅させ、それが今この星に星痕として形を成し、彼がリユニオンしたあかつきに何を成そうとしているか、その意図をはかることは出来なかった。
彼が戻ってくれば、母は長兄である彼以外を捨ててしまうのか、それとも彼とは別に、自分達は存在し続けることが出来るのか、それすら予測はついていない。
三人には母に会いたい、母と一体になりたいという、ただそれだけの願望がある。
『セフィロス』が強く母を望む気持ちによって生まれた思念が自分達であるならば、それは疑うことなく従える本能だった。
「兄さんだ」
ミッドガル…今はエッジと呼ばれるこの星の中心都市を見下ろす場所で、カダージュはもう一人の兄の姿を初めて目にした。
遥か下方の荒地に巨大なバイクを走らせる姿は、自分達とそう変わりないように見える。だが、彼はカダージュたちとは異なり、確かな肉体を持つ人間だった。
写真を見た訳でもない、兄の顔かたちなど知る由もないのに、そう断定したのは『セフィロス』の記憶なのだろう。彼を目にした瞬間に湧き上がった、憎しみとも親しみともつかない感情も、間違いなく『セフィロス』のものだ。
兄弟はみな鋼の髪かと思えば、兄の髪は強い日差しを浴びても黄金の色に見える。幼さを残す目鼻立ち、自分とさして変わらない細い体躯。腕は剣を振るう者に相応しいが、どうしてこれほど『セフィロス』が彼に執着するのか、カダージュには理解出来なかった。
同時に、彼の何が『セフィロス』をそうさせるのか、興味を覚えた。
ロッズとヤズーも同じことを思ったのか、言葉もなくアクセルを入れて兄のバイクを追っていった。彼が本当に兄であるならば、二人を以ってしても倒されないだろうが、実力のほどは試せるだろう。
召喚したファングに襲わせても、さすがに兄は一撃を簡単には受けてくれない。
振り回されているように見せかけて、反射的に操作するバイクは的確に反応して、ヤズーの矢継ぎ早な銃撃も、ロッズの渾身の拳も全てかわしている。運もあろうが、ニ度も『セフィロス』を倒しただけはある、実戦に裏付けられた剣さばきも、同じ剣を扱うカダージュが見ても確かに強い。
脅迫した元神羅の社長は母を兄に預けたと言っていた。しかし所持していないのは明白、兄自身は自分達の存在すら知らなかった様子だ。
そう思っても、カダージュはロッズたちを止めず、電話を取り出した。
遠くで土煙を巻き上げて交錯する三機のバイクを眺めつつ、ゆっくりとダイヤルする。
子供っぽい嫌がらせのようなものだと思う。
自分達のような虚ろな存在ではない兄に、少なからず嫉妬していた。
「あいつ、強い」
単身の兄を襲い、戻って来たロッズは一言そう漏らした。
かなり全力で攻撃したにも関わらず、やっとの一撃はヤズーに奪われ、後一歩で仕留められると思った直前にカダージュにファングを解放され、彼はそれが不満だったらしい。
「兄さんだもの」
肩をすくめてそう返せば、眉根を寄せたロッズは何かをこらえるように唇をへの字に歪ませた。
「泣くなよ」
涙をこぼす前に止めたのはヤズーだった。表情に乏しい彼は、ロッズの泣き顔や声にうんざりした様子だ。
「母さんを隠したのが兄さんじゃないなら、意味がない」
「どうせ邪魔になるなら、今消しておけばいいだろ」
暴走しがちで戦うことが好きなのは、常にロッズだった。だがカダージュもまた、なぜあの時ファングを止めたのか、自分自身多少なりとも後悔している。
「多分」
「多分?」
「『彼』が止めたんだと思う」
セフィロスの意思や思考を最も強く引き継いだのは自分である。そして自分が止めたのは、彼の意識がそう告げるからだ。
「意味わかんねーよ」
何故なのか、理由を聞きたいのはカダージュも同じだった。
母がどこにいるのか、カダージュだけでなく二人の兄もまた常に気配を探っているが、ここに至って未だにその片鱗すら掴めない。
日に日に焦りが募る中、星痕を宿した子供達を集めていたヤズーから連絡が入った。そしてロッズからは、あの金髪の兄が隠していたというマテリアを見つけたと告げられた。
隠れ家にしている古代種の都で二人の帰りを待つカダージュは、泉のほとりに佇みながらもう一度、母の気配を探るために目を閉じた。
そうやって集中しようとする度に、カダージュは『セフィロス』の記憶を見る。
彼が母に会った時や、母と同化し、彗星を呼ぶ姿を目にすることが出来た。だが彼がジェノバの一族として目覚める前の記憶は、カダージュは殆ど見たことがない。
カダージュには、『セフィロス』が自分達に記憶を見せない為に、意識的に封じ込めているようにも思えてならなかった。
ぼやけた映像が脳裏をよぎる。
恐らく『セフィロス』がまだ神羅の軍部に所属していたころの記憶が、一瞬見えた。
母の細胞を引き継いだソルジャーの部隊や、周囲で働く兵士が見えた。その中に時折明るい金髪の少年を見かけるのだが、まるで映像の電源を切るようにそこから先を見ることは叶わない。
髪の色や雰囲気からして、おそらく彼が『兄』だ。
今の兄とは違う幼い表情や声、頷く仕草は『セフィロス』に向けてのものだろうか。
じんわりとカダージュの胸の奥に広がる感情が何であるのか、確認する前にまた電源が切れた。
「かくさないでよ、もう」
化石化した枝を折り、八つ当たり気味に泉に投げつけた。
苛立ちを隠せないのは、家族であるはずの『母』や『セフィロス』から、何も教えてもらえないからだ。さらに、それを不安に思う自分が苛立たしい。
母や彼にとって特別であるはずの自分達が、なぜこうも放って置かれるのか。カダージュらがまだ肉体を持っていないからであれば、早く母が望むリユニオンを果たし、母の意思を継がねばならない。
以前『セフィロス』が兄に阻止された母の望みを、自分ならば果たせる。何故ならカダージュは強く、ロッズとヤズーという兄弟がおり、星痕の子供達がいる。母が望んだ世界で、母が目指したものを築きながら、自分と家族はこの星を寝床に旅をするのだ。
この願いは誰のものでもない、カダージュ自身のものだと、少年はこの時信じていた。
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母の気配を探りつづける。
自分を呼ぶ声が聞こえない限り、実際に母を見た者の情報を頼りに探すしかない。
目の前にいる、かつてこの星を牛耳った大企業の社長がその行方を知っているはずなのだ。彼は半身を動かせない身でありながら、カダージュたちの力など脅威とも思わないらしく、至って飄々としている。カダージュが召喚したバハムート震に成す術もなく逃げ惑う人々と同じ人間が、どうしてこうも馬鹿にしたような態度を取るのか、カダージュは我慢ならなかった。
そして、必死に召喚獣と戦う兄とその仲間達を遠目に眺めながら、兄が、何故彼らの味方をするのか、その疑問も怒りを煽る。
『母』の遺伝子、『セフィロス』の肉体、それらすべてを受け継いでいるはずの兄であれば、カダージュたちが成せないことも出来るはず。もしかすると、カダージュたちがまだ聞くことの叶わない『母』の呼び声も、兄は今実際に聞いているのかもしれない。
鮮やかな青いその瞳は、迷いを宿し弱弱しく見えることもあり、また竦むほど強い意志を示すこともある。家族であるはずのカダージュらを拒絶するそれが不安を一層煽った。
彼はカダージュよりもずっと早くに生まれ、『セフィロス』が一族の目覚めを迎えたその時も立ち合い、この地上の愚かしい人間の所業も全て見てきただろう。人間たちに比べ、いかに母が強く、崇高な理想を持っているかも知っているはずだ。
一度は自分と同じ様に母の意思に従い、『セフィロス』に手を貸した兄がどうして裏切ったのか、その答えはカダージュを安心させてくれるに違いない。
知りたいと強く願えば願うほど、自分の内から『母』を求める憧憬だけが溢れてくる。
この好奇心をくれたのも母、理解の出来ない感情をくれたのも母だ。
「楽しいなあ、社長! 次は何を呼ぶ?」
腕に取り込んだマテリアの力が弱まる様子に気を取られ、カダージュはその腕を上げたままルーファウスの方へと振り返った。
これまで車椅子から身じろぎせず、ただ挑発的な言葉を吐きつづけてきた男が立ち上がっていた。星痕に汚された全身を覆い隠していた布を殴り捨て、現れた姿は『セフィロス』の記憶と殆ど変わらない。
その手に、小さな密閉ケースが握られている。
「母さん……?」
「気付けよ、親不孝者」
つり上がる口元、細められた目もカダージュを嘲笑っていた。
『母』は目の前の空間へ、無造作に投げ捨てられた。
手にした『母』は思ったよりも軽かった。
何よりも大事なものを抱え、追って来る兄から逃げる間もまったく苦にならないほどに。そして手にした今も、母の声は一言として聞こえなかった。
兄を食い止めようとしたロッズとヤズーとは離れてしまったが、この母を守る意思は三人とも変わらない。例え後方で起こった爆発で二人が息絶えていようとも、カダージュは母を守り切ることが使命のはずだ。
肩越しに振り返った視界に、兄と彼のバイクの影が迫っていた。
初めて脅威を感じた兄は数日前とは全く異なる信念を帯びた目でカダージュを捉え、その幅広の剣を躊躇なく突き出してくる。頭の横ぎりぎりを掠めたそれに一瞬ひやりとしたが、一方でカダージュの剣も兄の左袖を貫いていた。
車体が絡み合うように落下した。
兄がバランスを崩した隙にアクセルを入れ、必死に体勢を立て直しながら、母だけは絶対に離さないように、ケースにしがみついた。
時間稼ぎに飛び込んだ廃墟でバイクを急停止させる。
神羅社長の銃撃で傷ついたケースをゆっくり持ち上げ、破れた隙間から中を覗き込んだ。
「母さん!」
―――ようやく会えた。ずっと会いたかった。母から肉体を授かり、きっとカダージュたちは更に強く、母の思いと共に生きられるはず。
期待が高まり、ケースの陰にある母を見つめ、その瞬間カダージュは凍りついた。
存在するはずのない心臓がぎゅっと締め付けられるように痛み、首筋の鼓動は眼球を圧迫するほど強く、カダージュは喘いだ。
『母』の頭部は頭頂部を欠いていた。脳の部分はえぐりとったように欠け、耳の上あたりで断ち切ったように半球の形になっている。先程の銃弾がかすめたのか、頬骨のあたりに新しい傷があったが、それは些細な傷でしかなかった。
黒い焼け焦げに染まる断面に、わずかに内臓らしき赤い色が覗くが、頬や、首の根元に見える肌の表面も、腐った後に乾いたようなくすんだ鼠色になり、元がどんな肌の色だったのかすら想像がつかない。
なによりも、『母』からはなんの意思も感じ取れなかった。
ここにあるのは亡骸だ。
かつて『セフィロス』ですらその意思で呼びよせた『母』は死に、これはただ肉片だった。顔を限りなく近寄せてかすかに感じ取れるのは、統合と増殖の本能だけ。
カダージュは呆然と母の躯の一部を見据えたまま、自分達兄弟へずっとリユニオンを囁きつづけたものが何だったのか、必死に考えた。
リユニオンの後に、母に捨てられることを案じていたカダージュだったが、最初からそんなことは不可能だった。
考えるまでもない。母の意思など、もうどこにもない。
カダージュらを産んだ者の思念、それは『母』ではなかった。『母』の存在を囁き、その肉体を得てリユニオンし、帰ってくるのは『セフィロス』しかいない。ならば星痕を発露させる思念も、カダージュらにリユニオンを促すのも、すでに『母』すら凌駕した『セフィロス』以外にあり得ない。
カダージュらが母の生存を信じる気持ちも、ただ『セフィロス』がその肉片を手にするためだけに与えられた意識でしかない。
腹の底から喉を通って、絶叫が湧きあがった。
「母さん」
カダージュの全てが『セフィロス』の思念の一部でしかないなら、この亡き母を求める悲しみも、全てが虚無でしかないのだろうか。
絶望に打ちひしがれる間もなく、バイクの排気音にカダージュは顔を上げた。
少しだけ開いたままの廃墟の扉の隙間から、遠く、兄の姿が見えた。
『セフィロス』の細胞を引き継ぎ、生かされ、なお己の意思を保つ唯一の存在。
カダージュの望む全てを手にした兄は、車体ごと爆音を響かせて猛進してきた。
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なぜ兄はそれほど強い目で自分を見るのか。
家族であるはず、例え決裂した相手だろうとも。
どこかでそれを期待していたカダージュは、だからこそ彼が憎くて仕方なかった。
廃墟の扉を前輪で吹き飛ばした兄の車体を押しつぶさんと、巨大な柱を雷で打ち壊せば、もとよりもろくなっていた石のそれは轟音と共に倒れかかってくる。
アクセルを入れて前輪を持ち上げ、斜めに倒れた柱の上と乗り上げた。カダージュのバイクの重みで一層崩れる柱の足元を、兄は器用にすり抜け、車輪を滑らせながら停止した。
思わず笑いが漏れた。
一族に相応しい強さを持つ兄。ここで兄を殺したら『セフィロス』はどう思うのだろうか。
カダージュを引き止めるものが『セフィロス』に違いないのなら、いっそ逆らってみせようか。
止まった兄のバイクに向けて、再び雷を降ろす。弾けた衝撃で一回転するバイクから飛び退き、兄は星痕を浮かび上がらせた左腕を押さえてうめいた。
吹き上がる嘲笑をこらえず、カダージュは母の亡骸を抱いたまま、今一度彼を狙って手を上げた。
たなごころに魔法の熱を最大に高め、振り降ろそうとしたその時、足元に広がる荒れた花畑の中央から、巨大な水柱が吹き上げた。
生き物のように立ち上がり、廃墟の屋根近くで拡散し、ドーム状に流れ落ちる。まるで兄を守ろうとするかのように、ますます広がる水のシールドの飛沫に触れ、カダージュは思わず背筋を凍らせた。
清らかに澄んだ水は、ほんの少し触れただけでカダージュの存在を曖昧にする。思念体であるカダージュにとって、剣の刃よりも恐ろしいのは己を溶かしてしまおうとする、この星のライフストリームそのものだった。この水はそれと同じ力があるのか。
振りかかる水を必死で跳ね除ける。自分よりも、『母』の肉体がこれに触れてしまうとどうなるか分からない。
ケースを守るように抱え込んで、カダージュは慌ててそこから逃げ出そうと、アクセルを入れた。
兄の姿が見えなくなり、カダージュは漸く平静を取り戻した。
溢れた水が床に広がって行くように、静かな気持ちと、やりきれなさが胸の内に拡散していく。
打ち捨てられ、荒れ果てた廃墟の町は人影もなく、静かに少年を迎え入れるが、そもそも歓迎されていた訳ではない。どんなに自分達の純粋な望みであろうと兄弟たちは、この地上の生物全てにとっての『敵』なのだ。
「母さん。なんで、こんな…こんな星に来たんだよ」
もっと自分達を優しく迎えいれてくれる星はなかったのだろうか。
最初の民たちがこの星に辿り着いたときのように、他に知的生物が居ない無人の星に行き着いていれば、自分達家族は静かに暮らせたのかもしれない。
バイクを止め、瓦礫を上って見晴らしのいい場所を探す。妙に急く気持ちを押さえて、倒れたビルの壁面を登り、夕暮れ時の廃墟を見下ろした。
兄はすぐに追いかけてくるだろう。
───それまでに何とかしなければ。何をどうすれば? 誰がそれを教えてくれる?
そう思った先に、瓦礫の隙間に出来た道の、遠くにバイクの巻き上げる砂煙が見え、カダージュは薄い唇を噛み締めた。
「どうすれば…母さん」
初めて生まれた迷いの中で、カダージュは成す術もなく立ち尽くした。
兄と彼のバイクの影はみるみる内に大きくなる。恐らくどんなに遠くへ逃げたとしても、兄はこうして自分を追ってくるに違いない。
彼は強い。カダージュ一人で倒すことはできないかもしれない、あのバハムートさえ退けた。助けを求めたくとも、ロッズとヤズーの意識は遠い。
グローブに包まれた掌にぬめる汗を感じた。
これは恐怖なのか。
「母さん」
抱えた躯に幾度問いかけても、答えはない。
兄はバイクを静かに停止させ、剣を片手に降り立った。
彼の目に最初の頃の迷いは欠片もない。自分に対しての殺意は一度も感じなかったが、彼が母の遺体を取り上げようとしていることは確かだった。
「僕、やっと母さんに会えたんだ」
苦渋の篭る声は押さえ様もなく、まっすぐに見上げる兄に向けて叫んだ。
「何が始まるんだ」
「母さんが教えてくれるさ」
見下ろしたケースの割れた隙間からは、体液の一部が流れ落ちている。割れ目を覗きこみ、今一度母の意識を探ろうとするが、やはりカダージュには何も感じ取れなかった。
「思念体は何も知らない、か」
自嘲と共に吐き出された兄の呟きに、カダージュは後頭部を強打されるような衝撃を受け、顔を上げた。
兄は、やはり知っている。
母の声を、いや、『セフィロス』の声を聞いている。
知らされていないのは、カダージュや兄弟二人だけなのだ。
―――『セフィロス』!
強く念じた瞬間、彼の記憶が脳裏を走った。
下肢をもぎ取られた『セフィロス』の肉体とそれへリユニオンしていく過去の兄弟たち、黒マテリアを差し出す兄の姿。その黒マテリアと母の細胞を得て復活した『セフィロス』が、肉体を得た腕で意識のない兄を抱き止め、火口の底に立ち尽くす姿が。
ふっと、カダージュの口元にも自嘲の笑みが浮かんだ。
何も迷うことも、恐れることもない。
最初から、カダージュという自分は存在しない。
「どうせ僕はあやつり人形…」
少年が『セフィロス』の思念が三つに分離した内のひとつでしかないならば、母の肉体をリユニオンすれば、『セフィロス』は復活する。
「昔のあんたと、同じだ!」
瞬時に高めた魔力を遥か下に立つ兄へ振り下ろした。
兄はその光弾が到達するより早く跳躍し、光の合間を縫ってカダージュに飛び掛る。抜いた刀で最初の一撃を弾き返した時には、すぐに次の攻撃が繰り出されていた。
幅広の剣は重く、その大きさがハンディになるかと思いきや、速度もカダージュと同等だった。風を切って突き出され、それより速く反撃しても、確実に止められる。
幾度も跳躍して間合いを取ろうとしても、追いすがる兄はこういった場所で戦うことに慣れているのか、地の利を得る猶予がない。切りかかっては追い込まれそうになり、次第に間合いを自分から取ることも出来なくなる。僅かな足場を見つけて飛び退っても、兄の容赦ない剣に、仕舞いには刀が取られそうになった。
ドーム状の屋根のに飛び移り、カダージュは息をついた。
生まれて初めて息が乱れるほどの斬り合い、しかも片手に抱える母の躯も重荷になった。
そう長くは持たせられないと思ったその時、遥か下方ながら、ロッズとヤズーの気配を感じ取った。
―――せめて兄を足止めし、リユニオンを。
カダージュは気合いを声にして高く跳躍し、刀を大きく振りかぶる。
兄は掲げた剣を水平に構えた。
気合いがオーラとなって刃を燃え立たせ、大きく振ったそれから竜巻のような風が吹き上がった。渾身の一撃は兄の体に到達する前に弾かれ、風圧に浮き上がる体が廃屋の屋根から落下する。手から離れた刀が落ちていくのを横目に、かろうじて伸ばした指先が張り出した軒の一部に掛かった。
手放した愛刀がみるみる小さくなり、瓦礫の隙間に消える。這い上がろうとする間もなく、軒を掴んだ手のすぐそこに、兄のブーツが降り立っていた。
斬り合いが激しくなるにつれ、反比例して静かな光をたたえていた兄の瞳がカダージュを見つめていた。瞳孔の周囲の緑に近い輝きは兄弟の証だったが、青い色は澄んだ水のそれで、カダージュよりもずっと鮮やかだ。
やはり殺気は感じられず、同類を哀れむような悲しげな視線だった。
―――同情などいらない。裏切り者め。
完全に優勢にあると思ったのか切りかかる気配のない兄へ、密閉ケースを突き出す。
案の定とっさに払った兄の剣がケースの端を一閃し、弾き飛ばされた。空いた手で軒を掴み、壁を蹴って飛び、空中でケースを抱きとめた。
―――母さん。
黒いケースから転がり出た肉塊は、無残な様子を陽の下にさらし、哀れさを一層高めた。初めて触れた母の醜さは気にならず、暖かな気持ちが胸の奥に灯った。
今度こそ、望みを叶えてあげられる。
母を超えた息子の存在が復活すれば、きっと母にとってもそれ以上の喜びはないに違いないだろう。もしもこれによって『カダージュ』という自分が消え去っても、後悔はない。
―――それでいいんだろう!『セフィロス』!
「僕のリユニオン。見せてあげるよ」
見つめる兄と視線を合わせながら、母の躯を胸に押し当てた。
マテリアを取り込んだときよりも、ずっと抵抗感を感じたが、肌に沈み込むように体の中に入ってくる。反対に、カダージュの意識が数メートル上に置き去りにされるような感触があり、身体は内から何かが張り出してくるような感覚に襲われた。
そして少し離れたところに居たはずの、ロッズとヤズーの気配が急激に近寄ってくる。彼らの思念も、カダージュと共に、『セフィロス』へリユニオンするのだろうか。
それまで実際には聞くことはなく、恐らく過去の記憶だけに残されていた心臓の鼓動が、カダージュの耳の奥で響いた。
最後に見た視界に、追って来る兄の姿が映る。
一度は恐怖さえ感じた兄の強さに、今はなんの怖気もない。
そのはず。『セフィロス』は彼と戦うためにこうして戻ってきたのだ。刃でその胸を再び貫き、血潮を浴びるために。その血溜りの中で、引き裂いた身体を喰らうために。
空中で体勢を変え、下方にある廃屋の屋上部分に着地した時の衝撃は驚くほど少なく、代わりに口元が限りない喜悦に歪んだ。
仰いだ視界に接近する彼を、刀で抱きとめる。
斬撃を受ける度に肘まで痺らせていた兄の剣圧が、突然軽くなったように感じた。否、自分の力が上がったのだ。事実、自分のものより遙かに長い刀がその手にあり、それを支えるのも、ずっと大人の男の腕になっていた。
「久しぶりだな。クラウド」
誰かの声が兄の名を呼んだ。
名を口にした時、背筋を這い上がった悦びに全身が震えた。
同時に意識が遠のいた。
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景色も音も、何もない空間にいたカダージュは、背中を突き飛ばされる勢いで突然光の中に放り出された。
限りなく近く、強く感じていたセフィロスの気配が急激に遠ざかり、廃墟の屋上らしき場所に落下する。支える力もなく、カダージュはその場に膝をついた。
上目遣いに見上げた先に、まだ剣を構える兄がいる。萎える膝を叩き起こし、刀を振りかぶろうとしても、既にそれを持ち上げる力さえカダージュには残っていなかった。
前のめりに倒れこんだ身体が地面に叩きつけられるかと思ったが、差し出された兄の腕に抱きとめられた。
カダージュの中に、もう『セフィロス』はいなかった。
兄が彼を討ち取ったのだろう。多分兄だけにそれが可能なのだ。
「兄、さん」
見下ろす端正な顔が、少年を見て眉をひそめる。
哀れむ視線にあれほど覚えた嫌悪はなく、意識が途切れる瞬間に感じた残酷な欲求もなく、ただその腕に縋りたかった。
カダージュの中から『セフィロス』が完全に消え去った今、こうして形を保つことすら苦しい。空気に霧散していきそうな意識を、この強い兄だけが保ってくれそうな気がした。
本当は、誰よりも兄に一番味方になってほしかった。自分が何をすべきか、共に考えることもできたはずだった。その望みを伝えることも出来ないまま、自分は消えるのか。
消えたくない。
何かが抜け落ちたような感覚はあるが、ここにいるのは確かに『カダージュ』という自分自身で、やっとこうして己だけがここにある。何かに操られる人形でない自分が。
残ったところで何ができるでもない。
それでも、こうしてこの星に降り立ち、兄の姿を目にしている自分が、消えて行くためだけに生まれたとは思いたくない。何より、一人で消えていくことが、寂しい。
食いしばる奥歯が本当に存在しなかったとしても。兄の、慈愛と哀れみしかない眼差しを見返す自分の目が、暖かい腕が抱えるこの肩が、本当は存在しなかったとしても。
『カダージュ』
突然、呼びかける声が脳裏に響き、カダージュは戸惑いを声にして漏らした。
天空から雨が一滴、カダージュの頬に落ちる。
『もう、頑張るの、やめよう』
「母さん…なの?」
ずっと聞きたかった声は問いを否定せず、カダージュは思わず口元に笑みを浮かべた。
『みんなのところ、帰ろう』
優しく暖かな気配がカダージュの頬を撫で、誘うように離れる。幾度も幾度もそれを繰り返し、漸く僅かに形を取った気配が、カダージュの額に口づけた。
帰る場所があるならば、ただ消えてしまうのではないならば、そこには母がいて、ロッズやヤズーも向かう先なのだろう。
「うん」
小さく頷いた瞬間、何かが目尻から流れ落ちた。
段々と降り注ぐ暖かな雨足が速くなり、カダージュの視界を放射状に埋め尽くしていく。
その先に白い、滑らかな手がカダージュに向かって差し出された。
力が入らず、もどかしく震える手を必死で差し伸べる。
雨と同じ温度の指は静かにそれを包み、カダージュを天空へ引き上げた。
兄の腕の中から飛び立ち、母の胸に迎え入れられ、カダージュは薄赤い夕暮れの大気に意識を溶かした。
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05.09.18(前編) 05.10.01(了)
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