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美しき其の人



 アルザビの中でもこの皇民街区だけは、人民区とも居留区とも大きく異なるものがある。それは通路や広場、小さな待合室までもが美しい石や玉で凝った意匠に飾られていることだ。
 石積みの建物の表面は大理石で化粧張りされて、扉の上、広い通路の壁はモザイクの細密な模様で鮮やかに彩られ、皇国の午後の強い陽射しに眩しく光っている。樫の分厚い扉に掘り込まれた獣や植物の彫刻も、白門の向こう側から来た者ならまず目にとめる。
 特に美しい模様を選んだ大理石をはめ込んでいるというのに、その様を見ることはできない。廊下の中央にはそれらを覆い隠すように、幾何学的な図案の絨毯が敷かれている。
 まったくもって無駄、歯に絹を着せて言うなら贅沢である。
 この皇国に生まれ育ち、下級とはいえ貴族の端くれとして生きてきたルガジーンをしても、将軍職以上の宿舎に移って、この芸術品のような装飾には驚かされた。
 昨今増えた中つ国の傭兵たちに、拝観料でもとって開放した方が、国庫の足しになるのではないか。そんなことを口にしたら、土蛇将には大笑いされたものだ。
『国ってのは見てくれを重んじるものだ。禁衛軍の長が、汚え小屋に住んでるとあっちゃ、迫がつかねぇからな』
 ガルカ族の彼が、かつて他国の軍隊に所属していたことは宰相も知る事実だが、公にはされていない。それでも経験豊富な彼を、ルガジーンは高く評価し、意見は大人しく聞くことにしている。
 皇宮に使える下働きの者らが精魂こめて磨き上げた床は、ルガジーンの行く先まで埃ひとつないようだ。務めを終え、本来なら帰るべき部屋はその廊下の突き当たりを、右へ曲がった奥の部屋だが、ルガジーンはふと、ひとつ手前のドアの前で足を止めた。
 他と同じように精密な彫刻がなされたその扉には、鹿と鳥が戯れる意匠が彫り込まれている。目線より少し下の位置に、室内から扉の外に立つ人物を確認するための、小さなレンズをはめ込んだ覗き穴がついている。
 そしてさらにその少し下には、他の扉にはない、掌ほどのサイズの魔法陣が、消し炭のような黒い色に浮き上がっていた。
 これは擦っても落ちない。部屋の主が描いたものだ。
 『敵』が入らないように仕掛けた『呪い』だという。
 無意識に耳をすませると、話し声が聞こえた。だが来客があるわけでもなく声の主はたった一人であることは分かっている。
 ルガジーンは一瞬躊躇した後、扉を叩いた。

 不思議なことに、部屋の主の「入れ」という一言で、扉は勝手に内側へと開いた。
 主自身が扉を手ずから開けた訳ではない。現にルガジーンが開いた戸口から室内を覗き込んだ時、彼は左手にある暖炉の傍に敷いたラグの上に胡座を組み、肩にひっかけただけのシャドウコートから突き出た指先が、分厚い、古めかしい本のページをめくっているところだった。
 物凄い速度で薄い唇が動いている。
 発されている言葉は現代語ではない。これは魔法の詠唱だ。
「何の用だ」
 突然通じる言葉が挟まれるが、返答する前に、既に彼は詠唱に戻っている。
 答えあぐねていると、ちらりと視線がこちらに向いて、詠唱が止まった。
「耳は聞いている」
 そして詠唱はまた再開された。
「いや。君も任務が明けたのなら、私の部屋で酒でもどうかと……」
 言いかけたところで、本の紙面から手が上がり、ルガジーンの言葉を遮った。
 いや、答えるから待て、というジェスチャーだろうか。
 息継ぎも殆どなく、長い文言は二十秒ほど続き、突然止まる。
 浅く鼻から息を吸い、静かに口から吐いて、指で簡単な印が結ばれたのは、詠唱を終えた合図だった。
「えらく、長い詠唱だな。魔道士殿」
「古代魔法の一つだ。威力はあるが、詠唱が今の速度で八十秒かかる」
「八十秒!」
 それほど長い間詠唱していたら、敵に中断させられるのは目に見えている。
「魔力の消費も多い。実用性に欠けるな。……酒はいいが、貴様の部屋ではなく、ここでいいなら付き合ってやる」
 彼の返答は常に、唐突で端的で簡潔だ。
「承知した。十分で戻る」
 ルガジーンは自分の部屋へ駆け込んで、通信口から厨房へ酒肴を頼むと、甲冑を脱いでマネキンに戻し、浴室へ飛び込んでシャワーで汗を流す。ものの五分で湯を終え、まだ濡れた髪を手櫛で束ね、適当に引っ張り出したクロークを羽織って部屋を出た。
 再び、先程と同じ扉の前に立って、ルガジーンはノックの手を一瞬止めた。
 確かに十分で戻るとは言ったが、遅れたところで彼は文句のひとつも零さないだろうに、自分は一体、何を慌てているのか。
 そしてこの扉を叩く時は、いつも心弾んでいる。
 任務の最中ですら、一つ向こうの城壁の上の定位置に佇む彼の姿へ、目を据えている時間が長くなった。箭眼(せんがん)の隙間にある影が動く度、何かを期待する自分がいた。あちらが、自分に気付きはしないかと。
 ルガジーンはこの部屋の主が好きだった。
 気付いたのはニ、三日前のことだ。いつからそんな気持ちで見つめるようになったのかは、もう覚えていない。彼の何が好きなのかも、考えても分からない。
 愛想笑いなど浮かべることも知らない、不機嫌そうな顔でもいい、その姿を、ただ見ていたかった。




 「ガダラル、入るぞ」
 今日二度目のノックをすると、扉は開いていた。
 十分前まで彼が居た石造りの暖炉の前の絨毯には、開かれたままの本だけがあった。
 正面の壁には露台に出る南向きの窓があるが、鍵も閉じてあり、カーテンもかかったままだ。戸口のすぐ右脇から壁沿いに連なる書棚は、そのまま右手奥の寝室に繋がる扉の横まで連なり、天井近くまでみっしりと新旧の書物が詰まっていた。 独特な古い紙とインクの匂いのするこの部屋が、ルガジーンは嫌いでない。
 寝室も書物で埋まっているという話だが、さすがにルガジーンはそれを直接見たことはない。
 大量の蔵書は埃とは無縁と言い切れるほど神経質に掃除がなされ、貴重な書と巻物の棚には、扉がついている。部屋の主は、これらに全て目を通しているというから驚きだ。
 彼が何者が知らなければ、あの口調や態度からどこの無頼漢かと思われても仕方がない。だが彼は確かにこの皇都一、ニを争う魔道士だった。
 当の部屋の主は一向に姿を見せず、何故か厠で使う白い巻き紙が、長く、部屋のど真ん中を横切って伸びている。
 紙の端は奥の寝室まで続いているようで、そちらの方で人の動く気配がした。
「ガダラル……?」
 部屋へ踏み込もうとしたところで、背後から突然声を掛けられた。厨房に頼んでいた酒肴が、ワゴンに乗って運ばれて来たのである。
 ルガジーンは女官へ礼を言ってワゴンごと引き受け、それを押して改めて部屋へ踏み込み、後ろ手に扉を閉めた。
 ワゴンの上には三種類の果実酒を満たしたピッチャーと陶器製のカップ、蓋のついた揃いの器には揚げ物から生野菜や果物、チーズなどが盛られていた。蓋を開けて中身を確認した途端、食欲をそそる香りが漂った。
 それと同時に奥の部屋の扉が動く気配に、ルガジーンは顔を上げた。
「ガダラ」
 二つの青い目とルガジーンの金の目が合った。
 だがその視線の位置は人間より低い。というより、床に近い。
 しかも酷く小さい。
 不思議な魔法の力で少なからず驚かされているルガジーンだが、いくらガダラルであっても、この物体に化けるのは無理だろうと思う。
「猫だ」
 寝室の扉の影から顔を覗かせ、ルガジーンを見上げているのは紛れも無い猫だった。
 真っ黒な艶のある全身に、ガダラルと同じ青みを帯びたグレーの瞳が二つ輝いている。
 まだ子猫から脱せずにいる小さな顔の中心で、三角形の鼻がひくひくと動いていた。その口元には、白い巻き紙の端が咥えられている。
「犯人はお前か」
 どうやら彼(?)の悪戯の結果、巻き紙が転がって散らかっているらしい。
 走りながら咥えた端をひっぱると、厚紙の芯に巻かれた部分が解けながらコロコロと転がって行くのが、子猫にはたまらないのだ。
 未使用の白い紙がますます部屋に広がって行くのを、さすがにルガジーンは見過ごせなかった。転がる芯の部分を捕まえようと、小走りで子猫を追いかけた。
 ルガジーンが掴んだ芯を捕り合おうというのか、真っ黒な子猫は駆け戻り、巻き紙に飛びついた。尖った歯でかじりつき、立てた爪で必死にしがみつく。
 床から片手で持ち上げた芯に、子猫の軽い身体はぷらりとぶら下がった。
「何を遊んでいる、天蛇将」
 子猫をぶら下げたまま顔を上げた目の前に、ガダラルが立っていた。
「遊んでいた訳じゃない」
「なんだこの紙は! 貴様か」
 背後に散らかった白い紙を見て一瞬眦を吊り上げ、ルガジーンを見上げた。
「私の訳がなかろう」
 未だ巻き紙にかじりついたままの子猫を持ち上げて示すと、ガダラルは小さく溜息をついた。
「まったく。目を離すとすぐこれか」
 子猫の口と手を外させて、首のあたりを摘むと、そのまま寝室へとそれを運ぶ。
 ルガジーンは声を立てて笑いながら、かなり解けてしまった紙を丁寧に巻き戻し始めた。
 なぜここで酒を飲むことにしたのか、ようやく合点がいった。
「目を離すといかんというなら、こちらの部屋に置いてやればいではないか」
「む」
「私は構わんよ」
 奥の部屋との間の戸口で足を止め、ガダラルは一瞬迷う。
 襟首を摘まれた子猫は彼らの習性なのか、比較的大人しくしているが、ルガジーンが巻き取っていく紙に、目は釘付けになっていた。
 ガダラルの部屋は、黒魔道士のものらしく書物と巻物に埋もれている。恐らくそれは寝室の方も変わりない。貴重な巻物で、この厠用の巻き紙と同じように遊ばれては大変なことになりそうだった。
 あるべき形に直し終えた巻き紙をガダラルへ手渡し、扉の近くに置いたままのワゴンへ戻る。
「いいか。大人しくしてないと、首の長い化け物に食われちまうからな」
 背後で子猫を下ろす気配がして、しゃがみこんだガダラルは、子猫の両の前足を持ってゆっくりと言い聞かせている。
 まったくもって酷い言い草である。
 だが、さしものルガジーンも猫の飼い主の方がうまそうに見えるとは反論できなかった。


「まさか、本当に猫を飼うとは」
 本来の目的であった酒にありつきながら、ルガジーンは主の足の近くで寝そべった子猫を顎で示した。
 暖炉前の絨毯はほどよく暖められ、大きなクッションを肘に当てて寝そべったガダラルの足に密着していれば、子猫にとっても暖かく快適なポジションだろう。満足そうに身体を伸ばしたり丸めたりしながら、目を細める姿は、彼の主人の姿とよく似ていた。
 ガダラルは袖だけ通した黒いシャドウコートの前を開け放していた。
 コートの下に着けた前ボタンの袖なしのシャツは、下肢を覆うイギト脚と同じ墨染めの絹布で出来ている。開いた襟の隙間から、魔道士らしく色白でありながら、鍛えた腹筋の上あたりまで見えてしまい、ルガジーンは無意識にそこに止まる視線を何度も反らした。
 当の本人はそれに気付かず、クッションに肘を乗せた手に頭を預け、もう片方の手には陶器の盃を持って、足元の小さな生き物を見つめている。
 将軍職の宿舎は皇宮の奥に位置するため、本来生き物を飼うことを禁じられていた。
 だが、彼がこの皇都へ戻るにあたって示した幾つかの条件のひとつが『猫を飼う』ことだったのだ。
 あらゆるものに無関心で保守的な彼が、なぜ猫を飼う発想に至ったかは、初めてルガジーンがガダラルに出会った頃の出来事が発端だと思われる。
 いずれにしても彼は、確かに結ばれた約定にのっとり、その権利を行使しているというわけだ。
「一体どこから連れて来たのだ」
「ナジュリスの知人の家で生まれたうちの一匹」
「随分と小さいものだな」
「うむ。まだ生まれてふた月だ」
「守ってやらねば」
「うむ」
 答えながらも、濃い睫毛の下に見える青い目は子猫から離れない。
 ルガジーンは少なからず子猫に対し嫉妬心を感じていた。
 半身を起こし、手を伸ばせば届く範囲にいるというのに、ガダラルは他人を余り近寄せない。ルガジーンだけでなく他の蛇将でも、彼の副官であるシャヤダルさえそうだ。肉親を早くに失い、過酷な東国の前線に長く居れば、他人に対して用心深くなるのも分かる。そんな彼が触れるほど近くに寄せる生命あるものは、ルガジーンの知る限り、この子猫が初めてかもしれなかった。
 そしてルガジーンは、その子猫のように、彼に触れてみたいと思っていることに気付いた。
 寄せ合った肌の手触りは。
 張りのあるその表皮の下にどんな温度があるのか。
 鼓動の、呼吸の速さは―――
「ザザーグに」
 乱れていく思考を諌めるごとく声に中断された。
「黒魔道士に黒猫とは面白いと、笑われた」
「確かに、君の服は子猫と同じで黒いな」
 頭の中の妄想を振り払うように声を立てて笑い、盃を空けた。
 果実酒の酸味が、くすぶる妄想を洗い流してくればいいのだが。
 色鮮やかな図案が描かれた陶器のピッチャーから、自分の盃へ酒を汲み、ガダラルにも三杯目を促してピッチャーを持ち上げた。
 ガダラルは片方の眉だけを上げ、残りの酒を呷って、盃が空になったことを覗き込んで確かめる。
 それだけの動作が酷く可愛らしく見えてくる。
 絨毯へ腰を下ろしたまま片手をつき、距離を縮める。反対の手に持ったピッチャーから彼の盃へ赤い酒を注ぎながら、近くなった眼を覗き込んだ。
「瞳の色も同じだな」
「そうか」
「ああ。ブラックオパールのような美しい色をしている」
 口にした瞬間、しまったと胸の内で呟いた。
 まるで陳腐な口説き文句だ。人民区の酒場で、寡が酌婦を誘うかのような。
 慌てて子猫の方へ目を反らした。
「毛づやもいい」
「あたりまえだ。毎日きちんと梳いてやってる」
 言い添えたことで、褒め言葉は猫を賞するものに聞こえたようだ。再び心中で安堵の溜息を吐いて、盃の中の酒を呷った。
 だが、正面に戻した視線を待ち受けていたのは、ルガジーンを見据える希少な色の瞳だった。まるで戦いを前にした時のように、奥歯に力を入れて平静をなんとか保ったルガジーンを、躊躇なく見つめるまっすぐな視線に怯みかかる。
「どうした?」
「貴様の髪も梳かし甲斐がありそうだな」
 思わず己の頭に手をやると、まだ少し湿っていた。
「先程洗って、そのまま結んだだけだからな」
 手櫛で梳いただけでは、如何にもおかしかったかもしれないと、ルガジーンは思わず赤面していた。どうにも、惚れた男のところへ通う娘のようではないかと思い至り、酷く居たたまれない気持ちになった。
 突然、ガダラルは羽織っていたローブを脱いで放り出し、座っていた場所から本や巻物が積まれた部屋の隅へ這って行った。
 襟と袖のないのシャツでは、開いた胸だけでなく、首筋や長い腕まで露わになる。今のルガジーンには目の毒極まりない。
 何が始まるのか、何をしようというのか、ガダラルの挙動の端々に眼を据えながら、ルガジーンは混乱していた。
 ガダラルは棚に並んだ本の手前に置いた小さな籠に手を伸ばすと、その中へ乱暴に手を突っ込み、銀のブラシを取り出した。
 ガダラルの掌ほどの長さの楕円の台座に、同じような楕円の取っ手がついている。銀の台座と取っ手には植物と鳥の姿が彫りこまれて、クリーム色の毛は豚毛だろうか、いずれにしても貴婦人が持ってもおかしくない上等な細工物だ。
「そいつの毛を梳いたブラシだが、かまわんだろう」
 意味を図りかねて呆然としているルガジーンの背後へ進んだガダラルは、突然その肩に流れる束ねた髪を手にとった。
 クッションへ肩肘をついて寛いでいたルガジーンは、飛び上がるように座り直す。
 ガダラルは存外に丁寧な手つきで、ルガジーンの髪を束ねる飾り紐を解き、頭頂部から背中へとブラシを通した。
 他人に髪を梳かれるという独特の感覚に、ルガジーンはじっとしていられるのが不思議なほど動揺していた。いや、むしろ硬直して動けなかった。
 絨毯に尻をついて、胡座をかいたルガジーンのすぐ後ろに、ガダラルは膝で立ち上がっている。頭のすぐ横にある腕は白く、視界の端をちらちらと動く。その度に、弾力のあるブラシの獣毛が、優しく髪の隙間を通り過ぎて行った。
 丁寧に、しかも手早く全体を梳き通し、それから左右の毛髪をブラシで寄せ集めて、首の後ろでまとめる。床に落としていた飾り紐を拾い上げると、数度巻きつけてからしっかりと結んだ。
 少し乱暴な、だが状況を忘れるほど上手い結い方に、ルガジーンは思わず感心の溜息を漏らした。
「君は、器用だな」
 横目で見上げると、酒で少し赤い顔と眼で、不敵な笑みを浮かべる。ちょっと得意そうな顔でもあった。
 結び目に手をやってしっかり結われていることを確認していると、ガダラルは再び膝立ちのまま移動し、今度は暖炉の前で寝そべっていた子猫の近くへ寄った。
 親を見つけたように起きあがってガダラルに近づく子猫は、ガダラルの差し出したブラシに前足と口でかじりついて、そのまま絨毯に寝転がった。
 毛を梳いているのか、それとも遊んでいるのかわからない有様ながら、程よい弾力のブラシで撫でられるのは気持ちがいいのだろう。次第に大人しくなり、梳き終わる頃、子猫は半分寝かかった状態になっていた。
「しかし……私も子猫も同じブラシなのか」
 思わぬガダラルからの接触に、幾ら本心は天にも昇る気持ちでも、そのブラシが獣と共用で、魔法の印を結ぶあの繊細な手が己の髪を梳いたのも獣のグルーミングと同列だとは心中複雑ではあった。
「オレもこれを使っている」
「君が? よい細工だが、女物ではないか」
 苦笑気味にガダラルへ問うと、一瞬その面に陰りが差した。
「前に使っていたオレの櫛を、そいつがじゃれて壊した。これは母の遺品だ」
 それまで穏やかな顔つきで子猫をじゃらしていたガダラルの面から、表情が消えていた。暖炉の炎に赤く染まるそれからは、感情が読み取れなかった。
 ルガジーンはガダラルの個人的なことを殆ど知らない。
 東極にある皇国の属国に生まれ、幼いころに両親を亡くし、早くから軍隊で魔道士として働いていたという事しか、知らされていないのだ。
 ガダラルをアルザビに召還することを提案した宰相ラズファードは、自身が前線にいた時分、ガダラルと共に戦いに参じる機会があったらしく、戦場での彼を知っていた。
 一方、ガダラルを将軍に任命するにあたって、不滅隊などが過去の仔細を調べてはいるだろうが、詳しくはルガジーンには知らされていない。
「大事な遺品をこんな風に使ってしまっては、亡き母君に申し訳なかろう」
「かまわん。物は物でしかない」
 無理をしている風でもなく、遺品だというブラシを絨毯の上に放り、ガダラルは再び盃を取り上げる。彼にとっては肉親の遺品だろうが、見ず知らずの他人の持ち物だろうが変わりないのかもしれない。
 子猫は半分夢の中にいるようで、すっかり動かなくなった。小さな爪のついた両手足を絨毯に投げ出して、うとうとしている。
「君にとって母君の記憶はどんなものだ?」
 問いかけながら、ルガジーンは自分の母を思い出して、視線を遠くに据えていた。
 ルガジーンの母もまた、彼が幼い時に他界している。長患いの末、家族全員に看取られながら静かに逝った。十代半ばで物事の分別はつく年頃だったルガジーンには、母親の記憶は汚されたくのない、優しく清らかな記憶だ。
 ガダラルは肴の器を手にとり、開けかけた蓋を持ったまま言い放った。
「貴様、その歳になってまだ母親が恋しいのか」
 ルガジーンは再び苦笑した。なんとも口さがない男である。
「男は幾つになっても、誰しもそうだと聞くが」
「そういうものか」
 器から炒った豆とドライフルーツを掴み、その手で一粒ずつ口へ放りこんで咀嚼する。その間、ガダラルもまた、昔の記憶をたぐっているように、絨毯の柄を見つめていた。
「オレの母は」
 言いかけたガダラルが口をつぐむ。
「うむ?」
「やめた」
「なぜ?」
「……話してもいいが、ここを出たら忘れろ」
「……努力はしよう」
 顔を上げた彼の目は険しく、ルガジーンは思わず背筋を正す。もしかすると彼にとっては、あまりいい記憶ではないのかもしれないと、今更気付いたが、謝る前にガダラルは語り出した。
「オレのいた街は、オレが生まれる以前から皇国軍と敵軍の前線の最中にあった」
 ルガジーンが幼い頃、アトルガン皇国に属する東の小国は、隣接する蛮族たちの国からの激しい攻撃に晒されていた。
 ガダラルが生まれた国は、その最も東極にあった。
 おりしも、中つ国でもクリスタル大戦と呼ばれる戦が広い範囲で勃発し、この地上全土が乱れた少し後の時代でもある。
「母が死んだ日は、街の左右から双方が押し寄せて来て……オレたちは逃げる間もなく、母は蛮族の兵士に嬲り殺された」
 ルガジーンは盃を持つ手を下ろした。
「蛮族ども二匹がかりで母を押さえつけて、喉を浅く切った。そうすると魔法を詠唱出来ない。魔道士を無力にするには効果的だ」
 ガダラルは苦笑のような笑みを浮かべて、指で首を横に切るようなジェスチャーをする。
 ルガジーンは思わずその光景を想像し、無意識に片目をしかめた。
「無抵抗になっているところを、服を剥ぐ。人間の女にとって一番の屈辱だと、奴らは知っている」
「もういい、ガダラル」
「興を削いだか?」
「悪かった」
 うなだれ、耳を垂れたルガジーンを見下ろす気配がして、目の前のピッチャーが取り上げられた。
「オレは七歳だった。正直あまり覚えていない。城壁の守りから戻ってきた父に、母の亡骸といるところを見つけられるまで、殆ど記憶がない」
 血の色をした、果実と氷で割った酒が、盃へ注がれる音が頭の上でした。
 視界の端から手が伸び、ルガジーンの盃も取り上げられ、同じように四杯目が注がれた。
「すまなかった。興味本位で辛いことを聞いた」
「興味?」
「君のことを、何か知りたいと思って」
 ゆっくり顔を上げると、ルガジーンの目の前にしゃがみ込んだガダラルは、その姿勢のまま盃に唇をつけていた。
「何を知りたいだと? 知ってどうする」
 問われて、ルガジーンは言葉に詰まった。
 彼を知って、彼を少しでも理解できればと思った。何かを共有できればと考えた。だが、それを口にすべきではないような気がした。
「貴様が何を思って過去の話など聞いたのかは知らないが、話などするより、戦場で共に剣を取って、魔法を操るほうが、会話よりも余程相手を知ることができる。敵でも味方でも」
 ガダラルは笑っていた。
 この男は魔道士でいながら、根からの武人なのだと気付かされる。ガダラルのいう乱暴ながら、戦地に赴いた者にしか理解しえない感覚は、ルガジーンにはとても共感できるものだった。
 初めて彼に出会った時、刃を交え、感じたものこそがそれだ。
 ルガジーンの口元にも笑みが戻る。
「そうだな」
「少なくとも、オレに必要なのはそれだけだ」
 この男は支えるものなど必要としないのかもしれない。
 隣に並び立ち、等しく戦う者にしか興味もない。
 そういう点では、ルガジーンは彼の興味の対象になっているはずだった。
「ああ」
 思わずそう声に出したルガジーンを、ガダラルは訝しげに窺い、小さく首をかしげた。
 苦笑と仕草で『なんでもない』と伝え、照れ隠しに己の盃の中を覗き込み、そこを満たす深い色の酒の奥に、記憶を呼び起こした。
 初めて東の地で出会ったあの時、あの最初の一太刀を受けた瞬間から、ルガジーンは彼に魅了されていたのだと、思い出したのだ。
 彼に会う以前に写真で見た姿は、静かで凛々しくさえあったのに、ルガジーンへの敵意も露わに刃を合わせ、間近からそのぎらぎらした眼で覗き込まれた瞬間から、『羅刹』の名を持つ男の激しく周囲を焼き尽くすような炎に、ルガジーンは既に焼かれていた。
「気味の悪い奴だ。独りでにやにやしおって」
 近くでしゃがみ込んだままだったガダラルは、顔全体をしかめて後退り、最初の位置に戻って腰を据える。
「いや、そうそう戦いばかりに身を置いている訳にもいかぬだろうから、他に相手を知る方法がないものかと思ってな」
「ふん」
 ガダラルはルガジーンの問いを鼻で笑い、なんだ、と呆れた声で小さく呟いた。
「貴様の女の話か」
 なぜそういう誤解をされたのかは判らないが、ルガジーンは曖昧に笑った。
「女であれば肌を合わせれば分かるだろう」
 少々びっくりして眼を見開いたルガジーンへ、ガダラルは視線だけを向けて意地の悪い笑みを浮かべている。
「君にとっては戦いも恋も同じか」
「縄張りを争うこと、女を手に入れること、生き物を殺して食うこと、すべて獣の本性だ」
「そのような……乱暴な思想だな。その本性を制御してこそ人間たる証ではないか。男女の関係を持たずとも、知り合うことは出来るだろう。そう信じているのだが」
「貴様は真面目な男だな」
 ガダラルはルガジーンを見つめたまま、手に掴んでいた豆とドライフルーツを全て口へと放り込み、塩のついた指を舐める。
「天蛇将ともなれば、言い寄る女も多いだろうに」
 確かにルガジーンが天蛇将の名を頂いてからというもの、同じ皇国軍の女性将校から皇族の娘に至るまで、思わぬ告白をされる機会は増えた。それが本当に恋心を抱いてなのか、それともルガジーンの地位に某かの価値を見出してかなのか、それは分からない。
 いずれにしても、彼女たちに振り回されずに居れたのは、ルガジーンの視線が彼女ら異性へと向いていなかったからだろう。
 それは君のせいだ、と告白したら、無邪気に肴を果実酒で流し込んでいる彼は、どんな表情になるのだろうか。
 一瞬、ガダラルの言葉に応じることを忘れて、ルガジーンは目の前の姿に見入っていた。
 決して伝えることはない、出来ないと思いこんでいたルガジーンの秘めた気持ちを、言ってしまいたい衝動に駆られる。
 それまで口にすることはないと思いこんでいた時と異なり、衝動は薬物中毒の症状のようにルガジーンを突き動かし、揺さぶった。名前のついてしまったルガジーンの気持ちは、今、何かの形を成して、外に放出されることを切望している。
 驚きに歪む顔でもいい、嫌悪と怒りの表情でも構わない、彼がどんな表情になるのか知りたい。
 そもそも名前をつけてはいけなかった。
 伝えようなどと考えてはいけなかった。
 何も聞こえず、何も見ない、そんな振りをすべきだった。己に気付いてしまう前に、彼に近寄らないよう、この思いが募ってしまわぬように、彼から距離をおくべきだった。
「ルガジーン?」
「炎の」
 ガダラル、とその名を声に出して呼びかけるだけで、何かの魔法にかかってしまいそうだった。
「すまん。酒が過ぎた。部屋へ戻ることにする」
 正面を見据えたまま、唇から自然と言葉が紡ぎ出された。
 まるで感情の籠もらない声に出来たのは、ひとえに戦場で鍛えられた精神力の賜物だろう。
「……そうか」
「邪魔をした」
 立ち上がったルガジーンは一瞬ふらりとよろめいた。
 本当に酒が過ぎたように見えたかもしれない。
 見送るつもりだったのか、続いて立ち上がったガダラルもまた、どこかふらふらとしているようだった。絨毯に寝そべる子猫を避け、扉へ向かうルガジーンの後を追ってくる。
「二人して飲み過ぎたか」
 苦笑しながら扉を開け、その場で立ち止まって部屋の主を振り返った。
 頬や目元をうっすら赤くしているガダラルは、酔っていても無表情のままだった。それはこの部屋を訪れた時と、何一つ変わらない。
「オレは酔ってない」
「そうか?」
 笑い声を上げて、ガダラルを見下ろす。
 剥き出しの手や胸元が寒くないのだろうか、と、少し不安に感じた瞬間、倒れ込むようにその身がルガジーンへともたれかかった。
 顎の先に触れた柔らかな髪、引き締まった胸がルガジーンの腹あたりにぶつかる。
 ルガジーンは息を飲んだ。心臓は鼓動さえ止めたように感じた。
 反射的に持ち上げた腕で、もたれかかった肩を掴み、そのまま抱きしめる。
 跳ね除けられると思った腕の中に、何故かガダラルは大人しく収まったままだ。反らしていた視線をちらりと向ければ、ルガジーンの胸の辺りで仰向いた彼の眼はこちらを見上げていた。
「君は」
 問いかけを止め、正面からその顔に見入る。
 気の強さをそのまま体現したようなきりりとした柳眉、鋭い視線を向ける双眸、目元だけで視線を外すことを躊躇うような引力があった。
 いつも不機嫌そうな、もしくは何かを企んでいるような情の薄い印象の唇が動いて、先ほどと同じ言葉を繰り返す。
「オレは酔ってない」
 ルガジーンは喉を鳴らして湧き上がったものを飲み込んだ。
 ごく真面目に反論して見上げて来る彼に、何を言おうというのか。一時の欲求に従って、それを口にした途端、これまでのような和やかに過ごす友人の時間も、同じ武人としての連帯感も、上司と部下の関係も全てが瓦解するだろう。
 その欲求を今一瞬我慢すれば、これまでと何も変わらない日常が明日もやってくる。
 確信があるのに、何故口にしてしまおうとするのか。
 再び喉元まで競りあがる言葉を飲み込もうと、ルガジーンは喘ぐように口を開き、息を吸った。
「そんな目でオレを見て、酔いを言い訳にするつもりか」
 胸をえぐるように言い放った唇が、薄く開いたルガジーンのそれに迫る。
 腕の中で背伸びした身体が、まるで棚の上の本でも取り上げるように、唇が重なり、弱い力で吸い上げられる。思いのほか柔らかく、乾いた感触がルガジーンの上唇を吸い取った。
 触れ合った瞬間に、ルガジーンの中でくすぶっていたものが目を開いた。
 今まさに獲物に襲い掛からんとしている獣の本性が、食い止めていた喉元から溢れる。
 離れていく柔らかなものを引きとめようと、ルガジーンは上げた片手で肩に掛かる程度のガダラルの髪を鷲掴み、小さな頭を固定した。より深く合わさるように顔を傾け、押し付けた唇と舌で、隙間を割る。一瞬くぐもった声で抗議したものの、彼もまた上げた手でルガジーンの束ねた髪を掴み、喉を反らして応えた。
 危険だ、と警告したのはルガジーンの良心か、それともガラダルの本能か。
 脳裏に浮かんだ言葉を足で踏みにじって見ないふりをし、貪るように、噛み付くように口付けを繰り返す。
 苦しげに鼻から漏れる互いの息が、一層ルガジーンを呷る。
 背に廻していた掌を前へ滑らせ、薄いシャツの上から大胆に胸や腹を探った。
「ニャー」
 着衣を剥ぎ取る意志で弄る手を止めたのは、あまりに日常的な幼い獣の声だった。
 戦意を喪失させる愛らしい鳴声に、絡み合っていた腕を互いに解き、一歩ほどの距離を開ける。その二人の足元に、体重を感じさせない柔らかな毛玉が、身体を摺り寄せて数度鳴いた。
 同時に子猫を見下ろした二人だったが、ガダラルがふと視線を上げた。
 その先を追ったルガジーンは、柔らかな生地のローブとズボンの下の、己の股間が顕著に反応していることに気付いた。瞬時に頬が熱くなる。
 そこを隠す代わりに、足元にまとわりつく子猫を片手で抱き上げた。
 親と認識しているであろうガダラルへ、その小さな身体を差し出し、ルガジーンは耳を萎れさせた。
「すまなかった」
 両手で子猫を受け取ったガダラルの返事を待たずに、開け掛けたドアを押して廊下に出る。
 早い速度で自室へ足を進める間も、背には彼の視線を感じた。
 もつれそうになる手でローブのポケットから鍵を取り出して扉を開け、振り返らずに背中でそれを閉めた。
 灯りのない室内で、乱れた息をつく。そのまま息を止める。
 呼吸をそのものを止めてしまいたいほど、恥ずかしさと後悔と、怒りにも似た感情が腹の辺りから湧き上がった。
「私は」
 息を乱し、湧き上がる力の源は、己に対する怒りだ。
「馬鹿だ」
 武人として己を制御する術は幾つも知っていた。
 常人であれば悲鳴を上げるだろう、強烈な敵の攻撃や魔法を受けても、うめき声ひとつ立てずに、仲間を鼓舞するのが将軍たる役目だった。キメラたちの強力な魅了(チャーム)や睡眠攻撃を受けても、抵抗することも出来る。それが聖騎士たるルガジーンの力だったはずだ。
 そのルガジーンが執拗に、欲望もあからさまな眼で見つめるのに気付き、ガダラルは真意を探ろうとした。彼はきっと試したのだ。
 背中を密着させた戸板の向こうで、開け放したままだったガダラルの部屋の扉が、パタンと静かに閉まる音が聞こえた。
 ルガジーンは慌てて身体を返し、扉に頭を押し当てるようにして、彼の足音に耳を澄ませる。防音性の良い厚い二枚の扉に隔てられ、望む物は聞こえず、彼があの行為をどう思っているのか知る要素はどこにも存在しなかった。
 ルガジーンは大きく息をつき、強く握り締めた拳で、閉じた扉を殴りつけた。
 似通った意匠の扉でも、ガラダルの部屋の扉がルガジーンに向って開かれることは二度とないに違いない。『敵』を排除し、彼の部屋に隠された秘密を守る魔法陣は、ルガジーンがその扉に手を掛けた途端、裁きの雷を落とすだろう。
 いや、怒りの炎だろうか。
 思わず湧き上がった自嘲の声を低く漏らしながら、じりじりと痛む拳を彼の唇を吸ったそれに当てる。
 触れ合った場所は、まさしく炎が宿っているように熱かった。
「ああ、子猫の名前を聞き損ねてしまったな」
 時間をおって冷えつつあるそのぬくもりを、最後まで感じ取ろうかというように、ルガジーンは長い間その暗闇に立ち尽くしていた。


2007.11.05 (了)
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