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朧(おぼろ)に響く名



 皇都アルザビの空は、そこにじっと控える兵士らと同じく、決して晴れやかとは言い難い様子だった。
 低く、濃くたれこめた雲は今にも雨粒をこぼれさせそうで、しかも気温が高い。
 月で云うところ、アトルガン皇国はもう春になろうとしている。ワジャーム樹林の木々は新芽の緑も鮮やかな一方、夕方から朝にかけては、火が必要なほど冷え込んだ。
 昼日中とはいえ、さすがにこの熱気は異常気象といっていい。
 皇国軍が西側に設置した防衛ラインを突破した、『死者の軍団』侵攻が今朝報じられてから、もう四時間ほども経っただろうか。異様な高揚感と緊迫感の中、仁王立ちで兵士たちの前に立つ将軍たちの姿は勇ましく、じりじりと志気は上がっていった。
 しかし、この不快な天候の中、これ以上長時間待機が続けば、上がりかけた志気をも下げることになるだろう。
「ガダラル様」
 金に臙脂の象嵌を施したアミール装備に身を包む、若き炎蛇将ガダラルへ声を掛けたのは、副官のシャヤダルである。
 無言で、視線だけをシャヤダルの髭面へ向けたガダラルは、彼のすぐ後ろに控えているジェミを見て、微かに眉間をよせた。
 彼女は、ガダラルが東部戦線に駐留していた頃から、部下として働いているミスラの狩人だ。
「どうした」
「ジェミをはじめ、東部にいた部隊の者たちは、西の死者らとの戦いには不慣れです。どうぞ、ガダラル様から彼らにお言葉を」
 荒れた石畳のアルザビ人民区の正面広場は、皇国兵と義勇兵で埋め尽くされている。
 攻め込んでくる蛮族たちが破るのは、ワジャーム樹林とバフラウ段丘に面した、西と北の門だ。その最も外堀の郭に、総大将の天蛇将ルガジーン隊、土蛇将ザザーグ隊、そしてガダラルの率いる炎蛇将隊が集結していた。
 天蛇将と土蛇将は、禁軍の左右中翼隊を随えている。だが炎蛇将隊は、かつて東国で長期間ガダラルと共に戦った、魔滅隊の兵士たちが大半を占める。
つまり、元々籠城戦自体を得意とするわけではなく、しかも敵は、まだ数度しか相対したことのない『死者の軍団』だ。
 各々、恐怖を伝染させないように顔には出さずにいても、周囲を漂う不安な空気は隠せなかった。
 身体ごと振り返ったガダラルは、ジェミたちの背後に居並ぶ兵士らを、端から端まで見回した。
 隊列を崩さないよう石畳へ腰を下ろし、武器を立て、前方をにらみ据えている。ガダラルの視線に気付いた者だけが、何か指示があるのかと、首を伸ばしてこちらの様子を窺っていた。
「ふん」
 副官シャヤダルは、ガダラルへ助言をする時でさえ、何かを遠慮しているような顔をする。
 アルザビから離れたことのない都会育ちの彼は、恐らく、皇都では見掛けない少々風変わりな将軍の、副官に就任した戸惑いが、未だ抜けていないのだろう。
 一方ジェミは、シャヤダルの存在を気遣って自らガダラルへは告げず、シャヤダルへ進言の仲立ちを頼んだということだろう。
 ジェミ自身が突出すると、気にくわないと言い出すアルザビ出身の兵士たちが、必ずいる。
「揃いも揃って、しけた面をしおって」
 荒々しい上官の言葉に、下を向いていた兵士らも顔を上げた。
 ガダラルの暴言に慣れている東部出身の兵士たちはもとより、幾度かガダラルと市街戦を経験した者なら、さほど衝撃は受けない。
 だが今回、初の炎蛇将隊参加となる義勇兵たちは別だ。
 自分たちの上官の、まるで人民区をうろつく無頼のような口調に、すっかり目を丸くしていた。
「戦い方など、己の身体で覚える他ない。お前たちの隣の、アルザビに長くいる者から盗め。そこに山ほどいる天蛇将、土蛇将隊から盗め」
 目を白黒させて聞いていたシャヤダルが、一番近くにいるガダラルとジェミにしか聞こえない、ごく小さな声で囁いた。
「ガダラル様、『盗め』という表現は少々。せめて『学べ』と」
「不服か。盗むくらいのつもりでおらねば、何も手に入れられぬぞ。戦い方も。女も」
 兵士たちから下品な笑いが漏れ、シャヤダルは思わず渋面を隠せなかった。
「お前は妻も子もいるんだったな。ヒゲ」
「私は髭という名ではありません。ガダラル様」
 ほぼ同じ目線の将軍を見据えると、澄んだ青い眼が笑いを帯びてシャヤダルを見返した。
「ではシャヤダル、『死者の軍団』にはどのような敵が多い?」
 恐らく「講釈せよ」というよりは、兵たちが緊張しない雑談程度に語れという意味だろう。
 居並ぶ兵士らが期待と興味を込めた視線で、副官を見上げていた。
「そうですな。ラミア、メロー、彼女らの下僕といわれるクトゥルブ。それに呪によって縛られた骨、ゴーストなどでしょうか」
「キメラと不死の者らばかりということだな」
「左様でございます。状態異常にされることも多く、いずれも戦い難い相手ではございます」
 シャヤダルが言い切るのを待っていたように、遠くから鉦鼓の音が響いた。
 断続的に鳴り響く甲高い音は、城壁の上の、見張り台から聞こえる。
「警報! 警報! 北門方面より死者の軍団、敵兵を目視!」
 一斉に、各小隊が号令によって立ち上がった。
 鎧や武器の鳴る音が騒がしく、しかし整然と居並んだ兵士らの顔は、高揚感で赤みを帯びていた。
「不死の者らには」
 ガダラルは背負っていた両手鎌を抜き、片手で隊列の目の前の石畳へ斬りつけた。
 鈍い音と共に、鋭利な先端が石を砕いて突き刺さる。
 砕けた石片が、石畳を踏む兵士らの足元へ散った。
 ガダラルの周囲から吹き上がった熱気が、視界を歪ませた。
「聖なる光と、灼熱の炎を浴びせてやれ。貴様らが躯となったら、敵の骨と共に、このオレが拾ってやる。安んじて死ね!」
 既に彼らの顔に怯えはない。
 羅刹の名を持つ将軍の鼓舞に応えた雄叫びが広がり、槍の石突を石畳に打つ音が郭中に木霊した。

 混戦状態が続いている広場には、敵味方問わず兵士が入り乱れていた。
 その中心で、自らが剣をとって戦闘に参加していた皇国軍総大将にして天蛇将のルガジーンは、時折離れた場所で吹き上がる火柱に、その端正な口元を笑みで歪めた。
 ガダラルが暴れている。
 少し離れていようとも、彼の居場所だけはすぐに分かるのだ。
 巨大な火柱にまかれた骸骨やゴーストが、真っ赤に灼けた火の粉になり、上昇気流に乗って、高く舞い上がる。
 地上に落ちる頃には灰じんになり、その原型を想像することすら困難だった。
 ルガジーンは先日、半ば酔った勢いでガダラルの身体に触れ、慌てて逃げたきり、彼とは公務以外で言葉を交わしていなかった。仕事で顔を合わせても、ルガジーンにはそのまっすぐな眼を見返す事が出来なかった。
 二人と同席することも多いザザーグが、さすがに異変に気付いて、もめ事かと聞いてきた位だ。
 反対側で戦っている、その土蛇将隊の動きも、ルガジーンから手に取るように分かった。
 元々格闘を得意とするザザーグの前で、骸骨兵たちは無力だ。クトゥルブも魔法の詠唱を止められ、何も出来ずにザザーグの拳に沈む。
 敵の雑兵は、戦闘開始から一時間もすると、殆ど躯や灰の塊となって広場に転がっていた。無論味方にも被害は少なくないだろうが、味方の兵らは戦闘不能になると、次々後方支援の魔道士たちに運び出されて、安全な場所で蘇生を受けていた。
 そろそろ敵軍も潮時と見て兵を引くだろうと思った頃、北門の前にいた土蛇将隊が浮き足立ち、動揺が走った。
「なんだ」
 ルガジーンの近くで、共に剣をとって戦っていたビヤーダも顔を上げた。
 城壁の上で、状況報告に走る見張りの兵が、強ばった表情で広場の兵士たちへ叫んだ。
「メデューサだあぁぁ!」
 一斉に広場中から上がったどよめきと共に、恐怖が瞬時に伝染する。
 メデューサとは死者の軍団の総大将である。
 ラミアより二回り大きな身体はぬめる鱗に覆われ、蛇のような尾が長く伸びていた。端正で、人間にほど近い顔とは裏腹に、頭部は髪一束の代わりに、意志を持った毒蛇が幾本も生えている。遠目でも波打つその大量の蛇たちが見え、兵士たちはすくみ上がった。
 そして何より、メデューサの赤い視線に睨まれた者は、瞬時に石化される。白魔道士の魔法で呪いは解けるが、石化中に砕かれた身体は、蘇生魔法でも蘇ることはできない。
 メデューサは大きな長い身体をじりじりと進め、ルガジーンの方へ向かっていた。
 総大将同士の一騎打ちをさせてはならないと伝令が飛び、隊列を組みなおした兵士たちが壁になるが、メデューサの視線を浴びて、大量の兵士たちが石化される。
 微笑を浮かべた彼女は、広場に立ち並ぶ石像の間をぬって、まるで愛しい男へ会いに行くように、嬉々としてルガジーンへと迫った。
「下がれ」
 剣を構え立つルガジーンの目前に、見慣れた背が飛び出した。
 炎蛇将に任命されてから、常に身に着けているナシラターバンの飾り羽根が揺れた。
 すでに両手鎌を抜いた手を構え、魔法の詠唱が始まっている。
「ガダラル!」
 短い魔法の詠唱の後、メデューサの身体は雷電に包まれた。
「貴様は下がれ! 総大将だろうが!」
 スタンの魔法で硬直状態にされたメデューサが、一瞬広場の真ん中に立ち止まった。それを機に、ビヤーダと隊の兵士らが、ルガジーンの腕を引いて隊列の後ろへと下がる。
 代わりに進み出たのは、炎蛇将隊の魔道士と狩人たちだ。
 一斉に大弓へつがえた聖なる矢が、薄いオーラをまとわせる。詠唱を始めた黒魔道士、赤魔道士たちの手の中には光が生まれる。
 その先頭に立ち塞がり、メデューサと対峙したガダラルの足下には、仲間を守るナイトや戦士たちが、メデューサの視線を避けるように盾を構えて、姿勢を低くした。
 ほぼ同時に着弾した魔法と弓矢の嵐は、巨大な蛇女の身体を包んだ。
 人ならざる悲鳴を上げるメデューサの声に、呼応した生き残りのラミアやクトゥルブが恐怖の声を上げ、くすんだ色の身体を震わせた。
 滑らかに光る鱗の身体を焦がされ、傷つけられ、さすがのメデューサも四肢を折り曲げて、苦しみもだえる。数匹の頭部の蛇が燃えつき、黒く焦げた蛇が、バラバラと音を立てて石畳へ落ちる。
 赤い光の弱まった眼が、視線をそらせたまま次の詠唱を始めるガダラルを見据えた。
「エンジャショウゥゥ」
 子供が片言を漏らすように、メデューサがガダラルを呼んだ。
「ソナタハニガサヌ」
 傷だらけの身体をくねらせて、立ち並ぶ兵士たちを尾の先で弾き飛ばし、突然彼女はガダラルへ肉迫した。
 動きに驚いて視線を上げてしまった魔道士たちが、瞬時に石化する。
 己を犠牲に将軍を守ろうとするナイトや戦士たちは、構えた盾を割られ、えぐるように振り回す鋭い爪になぎ払われ、打ち倒された。
 目の前に迫ったメデューサにもひるまず、踏み止まったガダラルの古代魔法の詠唱が終わった。
 上がる火柱はメデューサと共に、間近に立つガダラル自身の身体をも包んだように見えた。
「エェンジャショゥ!」
 高く振り上げられたメデューサの手が、午後の陽を反射した。
 メデューサの長く尖った爪の生える手は、異常に大きく、それそのものがレイピアのような凶器だ。
 剣の打撃さえ跳ね返す、ガダラルの着けたアミール胴の胸あてに、鋭利な彼女の爪が突き立てられた。
 炎の柱の中、そのままメデューサの視線の高さまで持ち上げられたガダラルは、ついに眼を開き、全身を硬直させた。
 四肢は凍ったように動きを止め、小手のついた指は苦しげに曲がり、空をかいた。
「ガダラル様ぁ!」
「炎蛇将様!」
 誰かの叫んだ声が、ルガジーンの耳にも届いた。
 踏みだそうとする力より、部下たちが必死に腕や腰を、引き留める力のが強い。腹の底から沸き上がる気合いの声と共に、彼らの手を振り払った。
 ルガジーンが駆け寄るよりも早く、石化硬直したガダラルの身体は、撃ち落とされた鳥のように、メデューサの足下へ崩れた。



 戦いの終わった人民区には小雨が降っていた。
 しっとりと周囲を濡らす柔らかな雨は、えぐれた石畳や、魔法に破壊された城壁にこびりつく血痕や灰燼と一緒に、戦いの熱気と悲しみを少しずつ洗い流していった。
 執務室へ戻ったルガジーンは、鎧も下ろさず、両袖机の前に立ち尽くしていた。
 目の前には副官のビヤーダ、土蛇将ザザーグ、それにガダラルの副官であるシャヤダルが控えている。
 ルガジーンは彼らの存在を忘れ、ひたすら机の上に置かれた、ナシラターバンを見つめていた。
 混戦の最中、踏み荒らされた羽根飾りがもげ、鮮やかな色の羽毛が抜け落ちてしまっている。
「敵も将軍たるモンを捕虜にして、簡単に殺したりはしない。取引の材料に使うだろうな」
 常に朗らかな空気を消さないザザーグも、さすがに今ばかりは声が真剣だ。
 あの時ガダラルは、メデューサの爪に捕らわれ、石化の視線を浴びた。
 瀕死にまで傷つけられたメデューサを抱え、帰還魔法で戦場から離脱していく敵兵に紛れ、ガダラルの姿もまた消えていたのである。
 敵兵が残らず撤退し、息を切らす味方兵士たちをかき分けて、彼が倒れた場所へ駆け寄ったルガジーンは、石畳に残されたこのターバンだけを見つけた。
「取引? しかしこちらには彼らが解放を求める要人がいるわけでもない」
 ルガジーンが苦笑しつつ答えると、ザザーグはうなって考え込んだ。
「私がガダラル様をお止めしていれば、このようなことには」
 唇を噛みしめて俯いた炎蛇将の副官は、握りしめた拳を震わせている。
「あのガダラルだ。誰が止めても無駄だ。お前のせいではないよ、シャヤダル」
 ルガジーンは苦笑の表情を貼り付け、見つめ続けたターバンから視線を外した。
「どちらにしても救出隊を組まねばならないな。ビヤーダ」
「は」
「奴らの本拠地まではどのように行くのが早い?」
「船でナシュモを経由して、カダーバの浮沼からアラパゴ暗礁域でしょうか。もしくは、バフラウ段丘から封鎖されているアルザダール海底遺跡内を抜ければ、アラパゴ近くまで一気に行けます。しかし捕縛されている場所となりますと、判明している箇所は多くありません」
「アルザダール遺跡の管理は不滅隊がしていたな」
「御意」
「それは私が直接許可を取る。少数で向かうなら、遺跡を抜けた方が早そうだ」
 机の引き出しに入っていた地図を引っ張り出し、アルザダール遺跡の図面を広げ始めたルガジーンに、慌ててザザーグが噛みついた。
「おいおい、大将殿。あんたが救出に行くってのは駄目ですよ」
「……『駄目』か」
「駄目です。確かに他の勢力がすぐにでも攻めてくるって気配はないが、あんたは総大将だ。天蛇将不在となれば、蛮族どもも活気付いちまいます」
「では、君が行ってくれるだろうか。ザザーグ」
「おうさ。あの跳ねっ返りをしっかり担いで帰ってきてやりますよ」
「あまり大勢で動くと、あちらに気取られる可能性が高い。五名ほど、同行者を選んで貰って良いだろうか」
「了解」
「ビヤーダ。これから言うものを用意してくれ。六名分だ」
「はい」
「帰還呪符を数枚ずつ。薬品、特にパウダーとオイルを多めに。携帯食、医療品、それに専用のリンクシェル」
 ルガジーンは声に出して伝えながら、机の袖にあった紙へペンを走らせた。
「これらを全てここへ用意してくれ。ザザーグは同行者を決めたらリストを作ってくれ。今慌てて出ても、途中で真夜中になる。出発は十三時間後の明朝五時としよう」
「そうだな。夜に死者の本拠地とは笑えないぜ」
 しかし決して夜を恐れている訳ではなさそうなザザーグが、大声で笑った。
「それまでに、私は諸々の許可を取ってくる。行ってくれ」
 一斉に総大将へ敬礼した部下たちが散る。
 執務室の扉をくぐりながら、シャヤダルがザザーグへ同行を求める声が聞こえた。
 扉が閉まり、一人、執務室へ残ったルガジーンは表情を一変させた。
 机の上のターバンを握りしめる。柔らかなビロードの布地を掴み、わずかにでも残る持ち主の気配を探るように瞠目した。
「ガダラル……」
 小さく折り畳んだターバンを、鎧の下に着けた胴巻きの内側へ入れた。
 ルガジーンは意を決したように大股で歩き、扉を開ける。
 蛇将たちの執務室の更に奥、皇宮の中心を目指して、鎧を鳴らしながら急ぎ、足を運んだ。


 「聖皇様に御目通りを願いたい。リシュフィー殿にお取り次ぎを」
 最初にルガジーンが向かった先は、宰相の執務室ではなく、皇宮の奥深く、聖皇の住まう主殿の扉だった。
 二名の青魔道士が扉を警備している。
 青魔道士特有のターバンと、口元を隠すベールの隙間から、いかにも胡散臭いものを見る目で睨みつけてくる視線を、ルガジーンは微かな動揺も曇りもなく見つめ返した。
 彼ら不滅隊は、青魔道士のみで構成された聖皇の近衛隊である。
 一方で、不滅隊員は一般市民からは非常に評判が悪い。暗躍して非公式に容疑者を始末したりと、公平性に欠ける事は否めない。実際ルガジーンにも彼らの存在意義がよく分からないことも多かった。
 だが、聖皇を守るために、彼らは命をも簡単に投げ出すよう教育、訓練された者たちだ。
 特に聖皇の最も側近くにあるリシュフィーは、若いながら聖皇や宰相から信頼の厚い、不滅隊員だった。
「天蛇将殿。血塗れた甲冑で御目見(おめみ)とは如何にも無礼であろう」
「緊急事態と申し上げたい。まずはリシュフィー殿に取り次ぎを」
 二人の不滅隊員は無言で視線を交わし合い、しばらくすると耳に手をあて、リンクパールへ向かって何事かを囁いた。
「リシュフィーが参る。しばし待たれよ」
 ものの一分もしない内に、不滅隊員の守る両開きの扉の錠が外れた。
 分厚い樫材の扉には、ザッハークの紋があり、唐草の葉と蔦がそれを取り囲んでいる。
 文様が二つに割れるように、扉が内側から開いた。
「天蛇将様。入られませ」
 不滅隊員リシュフィーは優美な目元を伏せつつ、開いた扉の前でルガジーンへ腰を折り、頭を垂れた。
 リシュフィーは手足も細く、同じヒューム族のガダラルより余程魔道士らしい体格をしている。しかし彼もまた、魔法と同時に、腰の曲刀を使いこなす青魔道士の一人だった。
 彼に導かれた控えの間は、聖皇へ目通る者が必ず通る場所だ。
 ルガジーンの執務室ほどの広さがあり、天井が低く、通るたびに少し息苦しい感じがする。
 そういえば初めてここを訪れたガダラルが、わざと狭く作った室内に、魔よけの結界が張られていると言っていた。
「聖皇様が御目見を許されました。剣をお預かりいたします」
「ありがたい」
 リシュフィーに対し、最大限頭を下げ、背負った剣を下ろす。
 この先は警備につく不滅隊員以外の帯刀が許されていない。ルガジーンをしても両手で扱うアルゴルを、細い手で難なく受け取り、後ろから進み出てきた主殿仕えの従者に渡した。
「お進みください」
 更に奥へ進む両開きの扉には、先程の扉と同じ文様があり、リシュフィーが先に立って開けた瞬間、幾本もの蝋燭のまばゆい灯りと、焚きしめた香の匂いが、控えの間へ流れ込んで来た。
 まっすぐ、正面の玉座へと続く絨毯は、鮮やかな絹糸で描かれた図案に埋め尽くされ、切れ目のない巨大な一作品になっている。
 汚れた装備のまま踏んでしまうのが、惜しいようなそれの中央を進む。
 いつもよりも下がった位置、声が届くであろう範囲でルガジーンは跪き、頭を低く垂れた。
 御簾の降りた玉座の前に、聖皇の従者のように控えるオートマトンのメネジンとアヴゼンが立っている。その近くへ進み、こちらを向いて立ったリシュフィーが、御簾の奥の聖皇へ、小さく声を掛けた。
「ルガジーン。もそっと近う」
 御簾の奥から篭った声がルガジーンを呼んだ。
「いえ。野蛮な姿にてここでお許しを」
「そなたが自ら妾(わらわ)へ目通りを申し出るのは、珍しい。先の市街戦で何かあったのか?」
「まさにそのことにございます」
 ルガジーンが用件を語り出す前に、聖皇は御簾の奥からリシュフィーへ何事かを囁いた。頷いたリシュフィーは大きな澄んだ目で、ルガジーンを見下ろした。
「聖皇様はあなたのお顔が見たいと仰せです。どうぞもっと前へ」
 ルガジーンは一瞬躊躇い、もう一度深く礼を取ってから、数歩進み出た。
 リシュフィーが頷いた場所で立ち止まり、再び膝をつくと、これまで動かずにいたアヴゼンがカチャカチャと音を立てて、歩み寄って来た。
『コレハマタ、満身創痍デハナイカ。大丈夫カ? るがじーん』
 首を傾げて聞いてくるアヴゼンに、ルガジーンは思わず微笑んだ。
「大事ございません。周囲の者らが過保護なほど守ってくれる故、私が一番軽傷なほどですよ。……それよりも」
 ルガジーンは再び顔を御簾の方へと戻した。
「先程の市街戦にて、炎蛇将ガダラルと人民区の者らが敵の手に、捕虜として囚われましてございます」
「聞いておる。妾も炎蛇将と市民の安否が気に掛かっておる。しかもまだ五人の蛇将が揃わぬ今、炎蛇将が欠けては、皇都を守る五鏡のうち、封印はたった二つしか働かぬ」
「面目次第もございません。明朝にも救出隊をアラパゴ暗礁域へ向かわせるつもりでおりましたが」
 ルガジーンは言葉を切り、御簾の奥を見据える。
「どうか、今より一日だけ、私を天蛇将の任より解放していただけませんでしょうか」
 リシュフィーとマトンたちがはっと顔を起こし、ルガジーンを見つめた。
 その言葉の意味───しかも聖皇から直々に許可を得ようということは、宰相をはじめ不滅隊、その他一切の影響を受けない絶対的な容認がほしいということだ。
「炎蛇将を助けに、そなた自身が敵地へ参りたいと申すか」
「私はこの身、この命を聖皇様へ捧げる誓いを立て、常に前線へ赴いておりますが、炎蛇将は私にとりまして、最も大事な友人でもあります。以前、彼が私を助けに来てくれた恩を今、返したいのです」
「ルガジーン様」
 突然口を挟んだリシュフィーを見上げると、彼は少し動揺したような目をしていた。
「そのお話は、ラズファード閣下もご存じなのですか?」
「いいえ。宰相殿にも、部下たちにも話しておりません」
 つまり、宰相や土蛇将はじめ部下の一切に漏らさず、忍んで行こうということだ。
 ルガジーンは救出隊の出発を明朝とした。それは純粋に、アンデッドの多く徘徊する土地へ、夜間の出撃は余りに危険が多いからであった。
 だがそれまでの半日、ルガジーンは単独、己の足でガダラルを捜し出そうと思っていたのである。
 明朝の時点で、ガダラルを探しあてられなければ、救出隊を率いたザザーグへ引き継いでも、合流してもいい。ガダラルの行方が何一つ分からない今、それまでの時間だけでも何かせずにはいられない。
 実はビヤーダに準備させた物も、ルガジーンが拝借していくつもりでいたのである。
「無茶です。過去にも囚われた者たちは、敵地の奥深くの牢につながれ、それも牢を開けるには特殊な鍵を必要とします。一人で参られるのは如何にも危険です」
「重々承知の上」
 ルガジーンが制止を聞く気がないことに気付いたのか、リシュフィーは口を閉ざし、御簾の方に視線を上げた。
「わらわは」
 答えかけた聖皇は、珍しく言葉を止め、何か考えているようだった。
 ルガジーンは更に深く頭を垂れ、彼女の言葉を待った。
「そなたの身を案じておる。妾の為に、必ず無傷で、炎蛇将と共に戻ると約束できるか?」
「命にかえましても。いえ、ささやかながら我が命、御為以外に捧げるつもりは毛頭ございません」
「ならばそなたの言葉を信じよう。リシュフィー」
「は」
「アラパゴへは海底遺跡を経て参るのが近かろう。通行許可証を」
「御意」
「それと、宰相や他な不滅隊員には告げてはならぬぞ」
 御簾の奥で、聖皇の声が微かに笑った。
 笑う声はいつもの印象よりも、遙かに若い娘の気配があった。
 リシュフィーは困ったような苦笑で返した。
「ここにいる者以外へは内緒、ということでございますね」


 ルガジーンが聖皇の主殿を訪れてから二時間ほど後、禁衛軍の執務室近辺は何やら慌ただしい様子になっていた。
 天蛇将の執務室の扉は開け放たれ、警備の兵までもが室内を覗き込んでいる。
 そこには青い顔をして黙り込むビヤーダ、そして書類を手にした土蛇将ザザーグ、呆然としているシャヤダル、そして所在なげな数名の皇国兵が机を取り囲んでいた。
「どうりですんなり、オレに救出隊の隊長を振った訳だ」
 ザザーグは呆れた声で呟き、低く笑いを漏らした。
 彼にしては短時間で仕上げた書類は、救出隊に同行する兵士のリストだった。今、彼の横に居並ぶ兵士たちの名が連ねてあったが、どうやら無駄になってしまったらしい。
 渡す予定の相手がいないのだ。
 ビヤーダが手配し、執務室へ集めていた薬品や物資六名分のうち、二名分ほどが紛失し、ルガジーンの机にあった地図の類が消えていた。
 しかも外出の際に使う外套もマントも、クローゼットには見あたらない。
 そしてなにより、この状況の中、ルガジーンの姿はアルザビのどこにもなかったのである。
 ただ市街戦後の修復作業に出ていた市民や兵士たちから、天蛇将によく似たエルヴァーンの騎士が、人民区のチョコボ屋からチョコボを借り受け、バフラウ段丘へ走り去るのと見たという証言が、幾つか集められていた。
 彼がお忍びで視察へ向かうのは珍しくない。恐らく兵士や市民達は欠片も不審に思わず、手を振って送り出したことだろう。
「あんの野郎。あの温厚な顔で、オレたちまで騙しやがって」
「なんとも天蛇将様らしいと申しましょうか」
「見事にしてやられましたな」
 ザザーグの愚痴に、周囲の兵士たちも口々に呟きを漏らした。
 だがその愚痴にも、どこか彼らの総大将に対して愛着が滲み出ていることに、ビヤーダは密かに安堵していた。
 突飛な行動で周囲の度肝を抜くのは、炎蛇将だけで十分である。本来総大将という地位は、常時のルガジーンのように、不動の印象をもたらすものでなくてはならない。
「しかたねえ。オレたちは予定どおり明朝出発する。リンクパールは持って行ってるみてえだから、朝には連絡が来るだろう。宰相にはオレが許可をとってくる」
「ルガジーン様のことをどうご説明なさるんですか、ザザーグ様」
 ビヤーダが走り出しそうになる土蛇将を引き留めると、ザザーグもそういえばそうだな、と立ち止まって考え始めた。
「ううむ……炎蛇将が捕らわれたショックで倒れた、とでも言っておくか」
「ルガジーン様がですか!? ありえません」
「そんな無茶な」
 口々に呆れた声を漏らす。
「無茶でもなんでも、まさか『オレたち全員を騙して、大将一人でガダラルを助けに行っちまいました』と正直にゃ云えねえだろうが」
 ザザーグの言葉に、誰もが確かにと頷いた。
 ビヤーダ、シャヤダルはただ一人皇都に残されたザザーグへ、なんとも申し訳なさそうな視線を送った。
「全く……お前らも苦労するな。なんとかうまく口裏合わせて取り繕ってくれよ」
 咎めるでも、八つ当たりするでもなく、苦笑して副官たちを慰める。
 二人の副官は深く頭を垂れ、最大の敬意を払った。




 空気の冷え込み具合から、明け方もそう遠くないとガダラルは察知していた。
 頬の触れる床には腐りかけた板が張られ、カビ臭が漂っている。周囲は鉄格子に囲まれている。格子は、床と同じように腐食が進んでいるというのに、触れようと指を伸ばした瞬間、何かに阻まれ、強引に掴もうとすれば、肘や肩まで電撃が走った。
 内側から破られないよう、封印の呪が施されているのだ。
 ここに連れてこられてから、どれくらいが過ぎただろうか。
 アルザビでメデューサの視線に縛られ、胸に傷を負わされたのが午後のことだ。
 ガダラルが意識を取り戻したのは、ここへ運ばれる途中だった。
 クトゥルブたちの引く台車に乗せられたガダラルは、治療の為に外されたのか、アミール胴は着けておらず、代わりに切り裂かれた上衣の上から、分厚く包帯が巻かれていた。包帯の下の傷は僅かにひりつく感触だけを残し、内臓まで貫かれた痛みはすでにない。
 当初、薬か麻酔で意識が混濁していたが、周囲の状況を少しでも見取ることは忘れなかった。
 自然が作った鍾乳洞に手を入れて、ラミアたちの砦の一つになっているようだ。
 編み目のように張り巡らされた小部屋と通路を通り、ひとつの岩屋で台車は止まった。
 四方と天井を囲む格子、足下は簀の子状になった板の床で作られた巨大な檻が、岩屋の中に置かれている。
 そこへクトゥルブ二匹がかりで運び込まれ、錠を下ろした扉の前でラミアが一匹、呪を施していった。
 ガダラルが意識を明瞭にし、自力で起きあがれるようになった頃、彼らは既に去り、見回りの骸骨兵やラミアが、この牢屋からも見て取れる場所を、時折うろつくだけだった。
 怠惰に床の上に倒れたまま、時折過ぎる見張り兵のタイミングを計る。
 どうにかこの檻を壊せば、逃げ出せる隙もありそうだが、少なくとも牢の内部で魔法は唱えることはできなかった。施された呪は、一切の魔法や通信を遮断するためのものらしい。
 しかも、強引に格子を壊そうにも、武器や道具がない。
 板床であれば、素手でもどうにか壊せるだろうが、その下は固い岩盤だ。
 最近アルザビの街に増え始めた、中つ国の傭兵たちでも通りかかれば、鍵だけでも開けさせることは可能だろうかと考えるが、ここはアラパゴ暗礁域の中でも最深部に違いない。まだアルザビ周辺をうろついているだけの新参の彼らが、ここまで辿り着くのにどれだけ時間が掛かるだろうか。
 絶望的だと思うと同時に、ガダラルは自力で脱出することを、ほぼ諦めていた。
 ラミアたちもこのままガダラルを飼い殺しにしておくとは思えない。
 取引の材料にするなり、殺すなり、いずれにしてもこの牢から移動させる必要があるはずだった。
 どこかで機会さえ生まれれば、その時に考えればいい。今は体力を温存し、瞬間のために備えておこうと、開き直ったのである。
 時折視界の端をかすめる見回りの兵を観察しながら、四肢を投げ出したガダラルは、先の戦闘のことを思い起こしていた。
 自分の選択した方法や手順に後悔はないが、先日から次々皇都へと移住してくる中つ国の傭兵たちは、ガダラルにとって予想外の戦力だった。
 決して彼らが戦力にならないと思っている訳ではない。
 個々の戦闘能力の高さは、ガダラル隊の歴戦の者と、引けを取らない者も多い。皇国側の戦力が増えることは、恐らく皇都の人民も歓迎することだろう。
 だが、爆発的な戦力の増強は、より一層ラミア、マムージャ、トロール各所を刺激し、後の戦いそのものが苛烈になっていく危険も孕んでいた。
 今日のメデューサの参戦もそうだ。
 これまで、総大将がメデューサであると知れてはいたが、皇都まで現れたことはなかった。魔笛を狙って皇都へと押し寄せる以上、彼らの戦力もまた、日に日に増強される可能性があった。
 しかも、今皇国に身を寄せている傭兵たちが、大挙して寝返らないという保証はどこにもない。
「敵も味方も、何を考えているのやら」
 思わず漏れ出た独り言に自嘲する。
 数ヶ月前、東の地から戻ってきたガダラルにとって、久々の皇都は激変していた。
 彼を取り巻く人物や環境も。皇国そのものも。
 気付けばかつて皇太子であり、東部で共に戦ったこともあるラズファードは宰相の地位にあり、ガダラルが皇国に仕える覚悟をした前聖皇は他界した後だ。
 貴族、皇族ばかりだった軍部の人事は一新され、下級貴族のルガジーンが総大将に、土蛇将が選出されたと思えば、過去バストゥークの軍籍にあったガルカ族のザザーグである。
 そしてガダラル自身も、昔の記憶より荒廃した人民区の被害の大きさに、嘆く間もなく戦いに借り出されて、いつの間にか炎蛇将とやらに祭り上げられていた。
 心落ち着く間もない。
 戦いの中の方が、よほど平安であると思えるほど周辺が騒がしい。
「面倒事は、ごめんだ」
 今ガダラルにとって、一番の面倒事といえば、敵地に捕らわれていることでも、炎蛇将の地位でもない。
 上司であり、戦友であるルガジーンのことだ。
 いつ頃からだったか、ルガジーンのガダラルを見る眼は明らかにおかしくなった。当初は気にしないようにと努めていたが、共にいる時間が長いこともあって、次第に無視できなくなった。
 何のつもりかと真っ向から見返してやると、ルガジーンはその琥珀色に光る鋭い眼の奥に、何やら思い詰めた気配を漂わせて、ガダラルと視線を合わせる。
 何か言いたいならはっきり言え、と、普段のガダラルであれば怒鳴っただろうが、それすら阻む、真剣そのものな眼差しだった。
 そしていつからか、ルガジーンの視線に出会う度、これまでガダラルへ、似たような視線を注いで来た者たちに感じた情とは、違うものが発露していた。
 ただの緊張感とも異なる。
 注視されることによって生まれる、精神的な優越感のようなものだったのだろうか。
 つまり、ガダラルは彼の視線が不快ではなくなっていた。
 そんな気にさせるルガジーンへ、こちらから何か行動をとってみたら変化するのだろうかという興味と悪戯心が沸いた。
 酒の勢いを若干借りて、その身体に触れてみた。
 二回りも大きな他種族の身体は、エルヴァーンの標準的な体型で、筋肉の堅さも骨格も、見慣れた普通の男だった。
 だが、ルガジーンの手がガダラルの肩を掴み、腰へと廻り抱き寄せられた時、胸の奥に生まれたものは、かつて感じたことのない衝撃だった。
 過去に男女問わず抱き合ったことはある。一時の感傷や激情を慰め合った者が殆どだった。ガダラルがそうしてつきあってきた彼らと、ルガジーンは何かが大きく違う。
 抱き寄せられ、包み込むような腕の中で、ガダラルの心拍数を上げる何かに気付き、これ以上関わることは危険だと本能が察知した。
 それなのに。
 初めて触れた唇に酔った。
 身体を弄る熱い、大きな掌に恐怖に似た感情が芽生えた。
 いつしかガダラルは、冷たく冷えた板床に横たわったまま唇を噛み、胸に腕を抱え込むように縮こまっていた。
 思い出された記憶に、身体の奥で火が灯る。
「馬鹿な」
 一時の気の迷いだと、今なら笑い飛ばして忘れられる。
 恐らくルガジーンもまた同じことを考えたのだろう。ガダラルから離れ、あれからすっかり距離を置くようになった。
 初恋のように、何かに執着する気持ちなど、距離さえ置けば薄れゆくものだ。
 己の考えに溢れた自嘲を声に出して、ガダラルは板の上の身体を震わせた。
 微かな振動が、包帯の下の傷に響く。
 実際のところ、初恋など経験しないまま、物心着いた頃既に戦いの中にあったガダラルは、それがどのようなものか知らない。
 初恋だと告白され、熱っぽく見つめられ、彼女らの真剣さを無碍(むげ)にもできず、一度きりのはずが馴染みのように幾度も身体を重ねた相手と、度々別れを繰り返してきた。
 相手の身体も心も、全て己のものにしたくなるのが恋であれば、ガダラルがルガジーンに感じるものは恋ではない。
 ルガジーンに対して、いつか真剣勝負をして、己の鎌でその首をはねてみたいと不謹慎ながら思っても、かつて関わった男女がガダラルへ望んだように、あの大きな男を愛でて、大事に慈しみ、時に誰の目にも触れぬように隠してしまいたいとは、ガダラルは思わなかった。
 では当のルガジーンは、自分に対してどんなつもりでいるというのか。
 ガダラルに恋をしているとするならば、彼にとっては余りに代償が大きい。
 その地位も、立場も、彼自身の性別も生まれも、何をとってもガダラルが彼の相手として相応しいとは思えなかった。
「少し考えれば分かることだろうに」
 ルガジーンは少しばかり茫洋としている所があるが、馬鹿ではない。
 ガダラルが何か言わなくとも、すぐに自らリスクに気付き、踏みとどまるだろう。そうすることが、ルガジーンにとっても、ガダラルにとっても正しいことだと納得するだろう。
 傷痕ではない、胸の中央を抓られたような微かな痛みが走り、その理由にガダラルは気付かないふりをした。
 目を瞑り、首を二、三度横に振れば、何事もなかったように忘れられる、ほんの微かな痛みに過ぎなかった。


 冷えた空気に頬を撫でられ、ガダラルはいつの間にか浅い眠りにいた目を開ける。風もない岩屋の中で、空気が動いた気がした。
 周囲を取り囲む格子の隙間から、様子を窺う。巡回しているはずのラミアや骸骨兵たちが、待てども近づいてくる気配がない。
 訝しげになる眉間を隠せず、ガダラルは片肘をついて横たえていた上肢を起こした。
 狭い、岩屋の入口には古びた木戸があり、開け放たれたままになっている。その木戸の向こうに、一瞬何かの気配がした。
「何モンだ」
 人の形に、背後の岩が歪んで見える。
 敵の視覚感知を遮断するインビジや、プリズムパウダーを使用した際、稀に起こる視覚現象だ。
「アンデッド……じゃあるまいな」
 姿の見えない人の気配に敵意はないらしい。
 音もなくまっすぐ、ガダラルの捕らわれた牢の扉に近寄ると、その場にしゃがみこんだような気配がした。
「何の用だ」
 ガダラルは板床に半身を横たえたまま顔だけをそちらへ向ける。
 姿なき者はただうずくまり、格子の間からこちらを見ているようだ。微かに、紙を擦るような小さな音がした。
 そしてしばらくすると、フードを目深に被った頭を平伏させ、岩の地面に片膝をついた人物が姿を現した。
 使い古した革のマントの下には、鎧をつけている。背には武器も背負っているようだった。
 体格は大きく、男に間違いない。
 アンデッド特有の妖気や腐臭はなく、獣人の獣臭もない。明らかに人間だった。
 何かの拍子にフードの中からこぼれた黒髪が、床に横たわったままのガダラルから見えた。
 男は一言も発せず、手甲のはまった右手を出し、格子の隙間から何かを差し出してきた。
 薄茶の羊皮紙に描かれた魔法陣と古代語は見慣れた配置で、デジョンの呪符であることがすぐに見てとれた。
「オレに逃げろというのか」
 静かに問うと、男は微かに頷いて見せた。そして懐から取り出した、骨で作った鍵も示す。
 牢の鍵である。
 ガダラルはゆっくりと身を起こして近付き、格子の隙間から差し出された呪符を受け取ると見せ、突然その片手を内側へ引っ張った。
 バランスを崩した男の頭からフードが外れ、黒髪をぴっちりと撫でつけた頭部と顔が露になった。
「ばれないようにと思っていたのに、気付いたか」
「き、貴様……! なんでここにいる!」
「静かに。今、鍵を開ける」
 格子の間から、見慣れた琥珀色の目と口元が、暢気に笑みを浮かべていた。
 奪い取った呪符を床に投げつけ、鍵を差し込む男へ地団駄を踏みながら怒鳴った。
「阿呆! ルガジーン、貴様何しにきた。すぐに皇都へ帰れ!」
 錠のはずれる音がして、外側へと格子戸が開いた瞬間、ガダラルは傷の痛みも忘れて、男の胸倉へ掴みかかっていた。
「ここまで来た者を追い返すのか?」
「バカヤロウ!」
 反動をつけて振り上げたガダラルの拳が、上半身だけで避けたルガジーンの左頬を掠った。
 怒りに震える握ったままの指の関節が、摩擦で燃えるように熱い。
「何故殴る」
 僅かに掠っただけで痕も残さなかった頬に手を当てて、ルガジーンは苦笑している。
「貴様が正気に戻るように殴ったんだ。このアホが。貴様がやられねえように守ったオレの隊の働きを無駄にする気か!」
「待て、ガダラル。まずは身を隠さねば、すぐに他の見張りが来る。とにかくここから逃れよう。この岩屋の中では呪符が使えんのだ」
 ガダラルが牢の床へ叩きつけた呪符を拾い上げ、どこから出したのか、薄いマントをガダラルの肩へかける。
 続けて渡されてたのは、身を隠すための薬品だった。それもかなり量が多い。
「用意周到だな……」
「ここまで、鍵を手に入れる為以外は、全く戦わず来た」
「貴様、供も連れてきてないのか。まさか」
「一人だ」
 さらりと言い切ったルガジーンは、すぐに薬品を使うよう促し、ガダラルは渋面を崩さないまま、パウダーとオイルを体へふりかけた。
 靴底が岩を踏む音が消え、姿も明瞭でなくなる。これで、殆どのモンスターや蛮族に気付かれずに済むはずだった。
「岩屋の出口まで一気に抜ける」
 姿なきルガジーンがそう呟いたと同時に、手繰り寄せるように、ガダラルの手が握られた。
 反射的にルガジーンの手を振り払ったガダラルの近くで、彼は苦笑のような溜息を漏らした。
「嫌か。では遅れずについてきてくれ」
 確かに姿が見えないと、道を案内されても分かり辛い。
 だがその手を振り払った手前、遅れを取ることもできない。
 ガダラルは見え難いルガジーンの背を必死で追って、狭い、迷路のような通路を走り抜けた。傷のせいなのか、少し走っただけで息が上がった。
 しばらく行くと、岩屋の出口の格子戸があり、外が僅かに明るくなっていた。
 とはいえ、アラパゴ暗礁域は常に雲がたれこめ、薄暗い。多くの船が昼夜問わず、今でもよく座礁や遭難する曰くつきの場所だ。
「ここまで来れば呪符は使えるが、もう少し行くと少し安全な場所がある。帰還する前に、ザザーグへ連絡したい」
 互いに姿が見えないものの、頷くとルガジーンは察知したようだった。
 狭い岩場を進むと、水辺にクトゥルブが数匹うろついているのが見えた。視界に入らないように薬品を再度使い、その背後を通り抜けようとすると、何故か一匹のクトゥルブが顔をこちらへ向け、ガダラルを追いかけ、背を浅く斬りつけて来た。
 一瞬立ち止まりそうになったガダラルの腕を、ルガジーンは力強く引いた。
 そのまま岩場を走る。足がもつれそうになると、太く長い腕で腰を抱えられ、ガダラルは荷物のように持ち上げられた状態で運ばれていた。
「き、貴様! おろせ!」
 足元の悪い岩場だと云うのに、ルガジーンはガダラルの重量を全く感じていないかのように、揺るぎなく走った。そして敵の姿がない場所で立ち止まり、乾いた岩の上にガダラルを降ろした。
 背後から、思いの外素早い足取りで、先程のクトゥルブが追いついてくる。
 片手に構えたナイフは血糊と油が固まって鈍く光り、落ち窪んだ小さな目がガダラルを見据え、唇のない口から歯を剥き出して笑う。
 生理的に嫌悪を覚えるような顔を向けられ、ガダラルは力の抜けていく足をかろうじて踏みとどめた。
 見かけは治癒しているとはいえ、メデューサに貫かれた胸の傷は、今でもガダラルをじわじわと痛めつけていたようだ。抱えられて、運ばれたことで、また息が速くなっている。手のひらに滲む汗が冷たく体温を奪う。
 自分で自覚する以上に奪われた体力の減少を、このクトゥルブは感知して追いかけてきたのだ。とかくアンデッドのモンスターは、人間の生命力の弱まりを、遠く離れた場所からでも察知して襲ってくるものだ。
 マントを跳ね上げ、背に差したアルゴルを抜いたルガジーンは、フラッシュの短い詠唱と共に、剣先で向かってきたクトゥルブを迎え撃った。
 最初の一撃で、ナイフを持ったクトゥルブの右手が切断された。濁った体液と一緒に少し離れた場所へ飛ばされた右手は、ナイフを握ったままである。クトゥルブは一瞬怪訝な表情を浮かべ、慌てて、自分の右手の元へナイフを拾いに走った。
 まるで痛みを感じていないように、水に濡れた己の右手を踏みにじり、左手でナイフを拾う。
「哀れな」
 ルガジーンの思わず漏らした呟きを聞きながら、ガダラルは炎の魔法を詠唱し始めた。
 胸の前へ挙げた手の中に、赤い光が生まれる。渦を巻くように、水の中を踊るように明滅する白い光が、その中を飛び跳ね、詠唱が終わると同時に、火蜥蜴の形をとった炎がクトゥルブへ襲いかかった。
 クトゥルブの全身を巻く、包帯のような襤褸布が最初に燃え上がり、次第にその身体を焼く。叫びともつかない声を上げながら岩場を転げまわった。
 ルガジーンの一閃で首が払われて、右手の近くに落ち、頸部を失った胴体は燃えながら、水飛沫を上げて水辺に倒れた。
「ラミアたちに惑い、自らを捧げた下僕どもが。全く、こうはなりたくないものだ」
 ルガジーンが剣を収めるのを眼にしながら、ガダラルは思わず呟くが、とどめを刺した当の男は、中途半端な表情になった。
「我を失うほど夢中になれるのなら、それはこの者にとっては幸せであろうよ」
「なんだと」
「いや、戯れ言だ」
 苦笑と一緒に話を打ち切り、ルガジーンはガダラルの立つ岩の近くまで歩み寄った。
 いつもなら、ガダラルが見上げる高さの男の顔は、少し下にある。
 正面から見据え、ゆっくり上げた指を向ける。微かな青みを帯びたケアルの光が、音もなくガダラルを包み、瞬時に全身が軽くなったように感じた。
 戦場では幾度も、幾人もの魔道士から受ける回復魔法が、酷く暖かなものに思えた。
「ザザーグに、どうやって連絡するんだ」
 無理矢理、視線を引きはがす。
「リンクシェルがある」
「何のシェルだ?」
「君の救出隊に持たせるはずだったものだ」
 にやりと笑ったルガジーンへ、ガダラルは思わず視線を戻し、呆れて開いたままになった口を、数度開閉し、吐き出しそうになる罵倒を押さえ込んだ。
 パールを耳にはめ込み、ルガジーンがザザーグの名を呼ぶと、すぐに応答があった。
『一体何やってたんだ! 五体満足なんでしょうね?』
 耳にはめ込むと、周囲には聞こえないはずのパールだが、すぐ近くに立つガダラルにも、年上の同僚の声は盛大に響いてきた。
「悪かった」
 ルガジーンは余計な言い訳もせず、姿は見えないのに頭を垂れて素直に謝っている。
『ガダラルはどうしました? 見つけたのか!?』
「ああ、今目の前にいるよ。無事だ。君たちはどこに?」
 しばらくやりとりが行われていたが、それ以降の声はガダラルに届かなかった。
 こちらも皇都へ戻ると告げて、すぐに通信を終える。
 パールを外したルガジーンは、浮かべた笑みをそのままガダラルへ向け、頭を掻いた。
「ザザーグたちも丁度こちらへ向かおうと、騎鳥してバフラウを出た所だったらしい。無駄足にならずによかった」
「よかった、じゃねえよ」
 思い切り殴りたい気持ちを抑えたのは、仮にも助けられたのが自分自身に他ならなかったからだ。
「貴様は本当に馬鹿だな。総大将がこんなとこまで来る理由が見当たらん。どうしてザザーグに任せなかったんだ」
「いや一時は頼もうかと思ったんだが」
「何だ?」
「君に、恩を返したかった」
 ガダラルは本気で首を傾げた。
 大任を放り出してまで来させるような貸しなど、思い当たらない。
「あれほど嫌がっていた炎蛇将の地位と引き替えに、私を助けに来てくれた君を、私自身の手で救い出したかった」
 確かに以前マムークに捕らわれたルガジーンを、ガダラルが救出に向かったことはある。だがあの頃は、ザザーグもまだおらず、激化しつつある蛮族の攻撃にアルザビは混乱し、救出隊を組めるのはガダラルしかいなかった。
 かつて東部に駐留していたガダラルの旅団を、ルガジーンが援護に来たように、最も有効な手段として選択しただけだった。
 見上げてくる男の両目に視線を据え、真意を探ろうとする。
 一縷の曇りもないルガジーンの眼と、口元にある笑みに、ガダラルは脱力した。
 気が萎えた途端、体力が限界だったのか、岩に上へそのまましゃがみこんだ。
「馬鹿だ。マジ糞馬鹿野郎だ、貴様は」
「それで、構わない。私は満足だ」
 見下ろしてくる顔はこれ以上ないほど嬉しそうだった。
「殴ったことは謝らねえぞ」
「ああ」
「戻ったら、ザザーグと宰相に口やかましく言われる。覚悟しとけ」
「元より」
 目の前に差し出されたデジョンの札を受け取り、その呪の文字とルガジーンの顔を見比べた。
「まあ……奴らの小言は、オレも一緒に聞いてやる」
 琥珀の眼が一瞬見開かれ、すぐに細められて、もう一度ルガジーンは笑った。
「ありがとう。君も一緒なら心強い」
 ガダラルは憮然と口を噤み、背後から差してくる朝陽に振り返った。
 もやに滲んだ弱々しい光だったが、この暗い場所には一条の希望の光にも相当する。
「帰るぞ」
 頷いたルガジーンも、もう一枚呪符を取り出した。
 ほぼ同時に札の上部に描かれた円陣の中央を破く。
 封じ込められた呪が動き出す。羊皮紙に書き連ねた文字が全て消えると、破いた円陣が燃え、デジョンが発動するのである。
 その間三十秒ほど、ガダラルは滲んでは消えていく文字を追っていた。無意識に古代語を口の中で呟いた。
「ガダラル」
 変異し始めた周囲の空間に阻まれ、呼びかけられた声がぼんやりと籠もって聞こえた。
 顔を上げると、腰を屈めるようにして、程近い場所にルガジーンの顔があった。
 皇都では老若男女問わず、誰もがこの公明正大な天蛇将を好きになる。
 エルヴァーンらしい端正な面立ちには、彼らに多く見られる過剰な気位の高さはなかった。常に微笑んだ眉と口元は、鎧を着けていなければ武人だとは気づけない穏やかさだ。
 文官のような風貌のこの男が、戦場では驚くほど猛々しい。
 守備を主とする聖騎士でありながら、襲い掛かる者へ向ける大剣は容赦なく敵を屠り、時に冷徹にその躯を踏みつける。
 共に戦うようになったガダラルは、ルガジーンの目に時折、自分と同じ種類の荒ぶる獣が宿る瞬間に立ち合うことがあった。
 恐らく、ルガジーン自身が気付いていない存在だ。
 土曜日の月を思わせる彼の金の目は、剣呑にも見える吊り目だが、独特な形と金属質な色の瞳孔は優しい。 
 今そこに、ガダラル自身の顔が映っていた。 
 同じように切れ目を入れた札を手にした男は、その場でガダラルの立つ岩に両膝をついた。
「皇都へ戻る前に、聞いてほしい。君を」
 片手で掲げていた札の文字が全て消え、円陣が青い炎を上げた。
 一瞬、その青にルガジーンの頬が染まった。
「愛している」
 燃え尽きる札を手放した片手が、ルガジーンの大きな手に取られた。
 そこに唇が触れる直前、ガダラルは転移魔法の異空間へと運ばれた。



 「貴公が自ら顔を出すとは、皇都に雪が降りそうだな。傷はもういいのか」
 皮肉な言葉を口にしながら、口調は決して嘲るものではない。
 嬉しそうな笑い声を上げるラズファード宰相は、完全にふてくされた表情のガダラルをしばし眺め、ゆうに三十秒ほどは笑い続けていただろうか。
 処理中だったのだろう書類とペンを放り、執務用の両袖机に置いた拳が震えている。
「東部なみの寒波に雪でも積もれば、腐抜けた皇都の連中の背筋も、少しは伸びるだろうよ」
「それはいい。───して、貴公が来た用は天蛇将の件か?」
 ようやく笑いを止め、ペンをペン立てへ戻し、ラズファードは椅子に座りなおした。
「あたりまえだ。オレと、一緒に連れていかれた人民区の連中四名を全員、牢から解放して、怪我人のひとりも出さなかった。それが何故五日も謹慎処分なのか、理由を聞かせろ」
「本音を聞かせても構わぬが、貴公はもっと怒るだろうな」
 上目遣いに立ったままのガダラルを見上げる男は、出会った頃の僅かな可愛げもなくなり、すっかり肝が据わってしまった。
「何でもいい。早く言え」
「せめて教えてくれと、頼めんものか」
 ガダラルが黙っていると、ラズファードは諦めたのか溜息をついて椅子から立ち上がり、窓辺へ近づいて、幾何学模様の織り込まれた厚いカーテンをめくった。
 先程まで夕陽をぎらつかせていた外は、すっかり陽が落ち、暗いガラス窓の向こうに、警備のために焚いている篝火が揺れている。
 宰相の執務室は蛇将の部屋とも近いが、他の部屋の灯りは見えなかった。


 ガダラルとルガジーンが、アラパゴ暗礁域から戻ったのは、今日の明け方のことだった。
 デジョンの間際に突然告白されたガダラルは、投げ出された空間で一人憤慨し、怒鳴り散らしていた。何かを蹴りつけたくとも、亜空間には石のひとつもないらしい。
 そして足の裏が硬い石畳の地面を捕らえた瞬間、ガダラルは突然、巨大なものに抱きつかれた。
 太い腕、巨木のような胴に加え、幾人かの手甲をつけた腕が我先にとガダラルにしがみついた。
「よかった、よかった。ガダラルめ、心配したぞ!」
「ご無事で。ガダラル様!」
「傷はまだ痛みますか? 早く医師を手配して!」
 到着した場所は白門の傍近く、皇民区の端に浮かぶクリスタルポイントである。蛇将や皇宮に仕える者は、全てここを帰還ポイントにしていた。
 デジョンで戻るとルガジーンが告げた後、関係者全員がここで待機していたらしい。
 最初に絞め殺されそうになったのはザザーグの腕だったが、そのまま続けて、副官のシャヤダルや元魔滅隊の兵士たちの泣き笑いに揉みくちゃにされ、反論する間も跳ね退ける余地も与えられない。
 背後のポイントに、ほどなくルガジーンも到着した。
 早速ザザーグが怒鳴り散らし、ビヤーダが泣き喚いている声が聞こえたが、すでに皇宮奥にある治療院の方へと引きずられて行ったガダラルには、彼の表情ひとつも窺うことはできなかった。
 そして密かにほっとしている自分に気付いた。


 二人がアラパゴから戻り、大団円となったかというと無論違う。
 旅装を解く間もなく、ルガジーンはラズファード宰相に事情説明のため招喚され、ガダラルは治療院へ放りこまれた。
 治療院は、皇民区に住まう者たちが利用する病院だ。
 シャヤダルや部下に連行された先で、待ち構えていた魔法医たちに取り押さえられた。
 ラミアに巻かれた包帯が解かれ、傷口が洗浄された。入れ替わり、何人もの医師に傷口が癒された。
 昼過ぎになって、ようやく服を着ることを許されたが、医師たちは頑としてガダラルへ安静を言いつけた。
 彼らの説明によれば、ラミアたちはメデューサの毒を抜き、傷口を塞ぐ処置を施しただけで、ガダラルの身体は瀕死の状態まで衰弱していたらしい。
 宰相たちの小言は一緒に聞いてやると発言しただけに、ルガジーンの行方が気になっていたが、まるで見張りのように、交替で魔法医が枕元に張り付いていては、逃げ出すことも出来なかった。
 昼餉を摂り、再び午後の治療を受け、自室での療養を約束して治療院を解放されたのは、つい先程、西の空が真紅に染まる夕刻のことだ。
 急ぎ、自分の執務室へと戻り、待ちかねていたシャヤダルと対面した。
 髭面の副官に帰還の口上を述べられて、ガダラルは忌々しげにそれを制止した。
 上げた副官の顔は泣き出しそうなほど歪んでいた。
「いい年の男が泣くな。うっとおしい」
 恥ずかしそうに顔を撫で、ようやく立ち直ったシャヤダルにこれまでの経過を説明させると、ルガジーンは再三宰相とザザーグに小言をやられた挙句、五日間の謹慎処分だという。
 今日の職務を終え、帰宅するようにシャヤダルへいいつけたガダラルは、一直線に宰相の執務室へ向かった。
 ラズファードの元に乗り込むのは、この皇都へ来て半年で、たった二回目だ。
 その理由が二つとも、ルガジーンに関わることだと、ガダラルはラズファードの前に立って、初めて気付くことになった。
「貴公も知ってのとおり、慢性的な兵力不足を補うために、国交を断っていたミンダルシア大陸やクォン大陸から、正式に傭兵を招くことにした。既に先の戦闘でも百人は登録を終えて、参戦している。だが戦闘は出来ても、彼らの行動単位はせいぜい六人から二小隊ほどの規模でしかない。軍としての統率は全く取れていない」
「傭兵たちの講釈はいい。それがルガジーンの謹慎と、どう関係ある」
「ある。つまり、その傭兵たちを、襲い来る蛮族たちを退けるための戦いに参戦させるには報酬と、名誉が必要だ」
 ガダラルは大きく鼻で笑った。
「どこの者ともしれない傭兵どもに名誉など。そもそも、金で動く奴は信用できん」
「そう見くびったものでもない。確かに、彼らへ馴染みのない我らの聖皇陛下を守れと言っても、聞き入れはしないだろうな。だが、中つ国の者らは己の腕と、何よりも腕の立つ戦士の魂を尊ぶ」
 まだ皇都に傭兵の姿は少ない。
 だが船で渡ってくる彼らは、日に日に数を増し、その誰もがそれなりに鍛え、己の財力で武器装備も揃え、ガダラルが東部で出会って来たような流れ者たちとは明らかに違った。
 街で立ち話をする中つ国の傭兵たちは、戦闘の知識も豊富だ。
 何気ないそれらの会話に、こっそり聞き耳を立てていたガダラルには、ラズファードのいうように、力だけを信用する彼らの理論が、決して自分と相容れないものでもないと、早くから気付いてはいた。
「既にルガジーンをはじめとする、ザザーグ、ガダラル、貴公らの人気は大したものだぞ」
 ラズファードはカーテンをめくったまま、視線だけをガダラルの方へと振った。
「……何の話だ」
「禁軍三蛇将は、自分だけが安全な場所で、兵の尻を叩く卑怯者ではないと、彼らはもう気付いているということだ。彼らは貴公らを守って共に戦い、名誉を得、撃退に成功すれば皇国から報酬を得る。そして貴公や人民区の者が捕虜になれば、敵地へ奪還に向かうだろう」
「あのような流れ者が、そこまで我らに忠も義も通すわけがなかろう」
「『律儀で忠誠心溢れる天蛇将は、友人であり、部下である炎蛇将を助けにアラパゴへ単独で赴いた。だが総大将の任にあって、皇都を空けたことを咎められ、謹慎処分を受けた』───身軽な彼らは、重責にある将軍たちに代わり、自ら進んで救出隊を組む」
 ガダラルは声もなく、気付かれないよう奥歯を噛み締めた。
「……ルガジーンとオレを、スケープゴートにしやがったのか」
 震える拳を上げることもできず、窓辺に立つラズファードをただ見据える。当の男は薄く笑みすら浮かべて、もう一度窓の外へと顔を向けた。
「人聞きの悪い。たまたま起きた状況を前例として、利用させてもらっただけだ。天蛇将の謹慎は三日で解く。聖皇様の温情をもって、な。ルガジーンは貴公を救出に行くために、前もって陛下へ直訴していたらしい」
「直訴?」
「理由がなんであれ、もしも許可なく総大将の任を放置したならば、逃亡に等しい行為だ。軍からの除籍でも軽い。天蛇将はそれを承知で、陛下に直接許可を頂いた上で、貴公を救いに行ったのだ」
「陛下に……」
 ルガジーンは確かに、ガダラルが彼を救いにいった恩に報いる為に、助けに来たと言った。
 だが聖皇へ直訴し、もし不興を買えば、ガダラルを救出するどころか天蛇将の地位さえ危うい。それに臆せず彼を動かしたのは、聖皇への信頼の高さか。それともガダラルへの仁義を通したい一心だったのか。
 一瞬でも、彼が来た理由は下心からだと疑った自分を、ガダラルは恥じた。
「忠義に厚く、頭のいい男だ。ガダラル、貴公もせめて謝辞のひとつも言っておけよ。失うには惜しい友となろう」
 形ばかりの礼をとることも忘れ、ガダラルは無言のままラズファードへ背を向け、執務室を足早に後にした。




 ルガジーンは久しく座る間もなかった長椅子の埃を叩き、暖炉の前へ持ち出し、ビヤーダが暇つぶしにと運び込んだ本をめくっていた。
 執務と雑務をこなし、視察に出かけ、兵の演習を指導し、天蛇将の地位について以来、ルガジーンの周囲は常にめまぐるしく動いていた。こうして緩やかにローブを着け、本を読む時間を持つことさえ、遠く昔のことのように思えた。
 ガダラルの部屋に比べて、ルガジーンの自室には殆ど物がない。実家から持ち込んだ僅かな本はあったが開いた試しがなく、部屋を飾るのも、人民区の学童が描いてくれた自分の似顔絵くらいのものだった。
 先程火を入れた暖炉で、マツ材の薪が大きな音を立てて爆(は)ぜた。アルザビはまだ今の季節、陽が暮れると途端に気温が下がる。こうした暖炉の火はかかせない。最近は火鉢のような暖房器具もあるが、ルガジーンは昔から薪の燃える炎が好きだった。
 ビヤーダが置いていった本は、皇都で人気のあるキキルンの作家が書いた絵本で、美しい色彩が心をなごませる。鮮やかな紫に染められた革の表紙を撫でていると、もう一度薪が爆ぜた。
 謹慎など不名誉な処分ではあるが、ルガジーンにとっては思いがけない休日を恵んでくれたものだ。
 積み上げた薪が燃え崩れた。
 ふと、普段の音と違うような気がして、本から顔を上げて辺りを見回したルガジーンは、露台(ろだい)へ出るための大きな窓ガラスの向こうで、何かが動く気配に気付いた。
 もう一度、先程と同じ音が響く。
 どうやらガラスを叩く音だったらしい。
 椅子の上へ本を置いて立ち上がり、窓にかかるカーテンをめくる。外は暗く、様子はわかり難かったが、カーテンの隙間から漏れ出た室内の灯りが、その姿を照らし出した。
「君……」
 ガラスの向こう側で、声なく開閉された口が『開けろ』と告げていた。
 慌てて錠を外し、押し開けた窓の隙間から、冷気と一緒にガダラルが滑り込んで来た。
「寒い」
「ガダラル」
 ガダラルは、よく見る黒い薄手の室内着を着けているだけで、コートもローブも羽織っていない。
 しかも人が出入りするようには作られていない露台の、窓から侵入してくるとは想像もしなかった。
 蛇将たちに与えられた宿舎は、皇宮の中ほどにある。
 ルガジーンとガダラルの部屋の露台は、たまたま同じ中庭に面しているので、恐らく彼も自分の部屋の窓からやって来たに違いない。だがどちらの露台にも柵があり、簡単には侵入できないよう高さがある。どうやって昇ってきたのか、ガダラルの足元は室内履きのサンダルだった。
 冷気が忍び寄る窓を閉め、カーテンを戻した。
「早く、暖炉の前へ。一体いつからそこにいたんだ」
 逆らわずに暖炉の目の前でしゃがみこんだガダラルは、ルガジーンの質問には答えなかった。
 己の膝を抱え込むように、炎へ手をかざす彼の背後に立ち、開いた襟首から覗いた襟足の白さを目にして、少しだけ距離を開けた。
「謹慎、だってな」
「あ、ああ。なんというか、いい休日を貰ってしまったと、丁度思っていたところだ」
 苦笑しつつ頭を掻いたルガジーンは、ガダラルが肩越しにこちらを見上げていることに気付いた。
「悪かったな。オレのせいで」
 珍しく殊勝な言葉に驚いて目を見開いた。
「貴様に借りを返しておこうと思ってな」
「借り? いや、そもそも君が助けに来てくれた時の、恩が返したかったと言っただろう」
「それでは気が済まん」
 ガダラルは突然立ち上がり、所在なげに立つルガジーンへ詰め寄った。
「貴様が口にするような愛だとか、オレにはわからんが、結局貴様はオレをどうしたいのだ」
 彼の頬にかかる髪の一筋さえ見分けられる距離から、強い口調で問われる。
 ルガジーンは今朝の己の告白を思い出し、瞬時に頬へ血が沸騰するのを止められなかった。
 額に噴き出した汗を拭うこともできず、見上げてくる青い瞳から目を背けることも叶わない。
「そもそもあんな、臭いミイラ野郎の死体の転がる場所で告げる話か」
「それは……悪かった。君が、ムードを重んじる主義とは思わなかった」
「そんなわけあるか!」
 大変な剣幕で怒られた。
 手が振り上げられなかったことを幸いと思うべきか、ルガジーンはしどろもどろながら、なんとか問いに答えようとする。
「いや。私の思いは一方的なものだし、君に何かしてほしいと、言うわけではないんだ。ただ、私の気持ちを君に知っておいてほしかった」
「オレは───正直、聞きたくなかった」
 胸を鷲掴みにされるような衝撃を受け、ルガジーンはガダラルを見やる。
 彼は視線をそらせて、何もない壁を見つめていた。
「聞いたら、もう元には戻せないと、貴様も知っていたはずだ」
「……ああ。そうだな」
 やはりこれが決別となるのかと、ルガジーンは無理に笑おうとして失敗した。頭の先まで上っていた血液が、瞬時に降下していくのが分かった。
 以前のように、彼と酒を酌み交わしたり、マムークでカエルを追いかけたりすることは、もう出来ないのだ。彼への気持ちを言葉にしてしまった途端そうなると、ルガジーンも確かに分かっていた。
 目の前にあるその身を、無理矢理にでも引き止めたい気持ちが、表情に出そうになるのだけは留めた。
「オレは貴様が嫌いじゃない。前のように、貴様と酒を飲むのもやめたくない」
 冷え切った心臓が僅かに動き出した気がした。
 これほど彼の言葉に一喜一憂する自身が、ルガジーンは滑稽に思えた。
 あのまま告白せずにいれば、ガダラルの云うように、友人としての日々を失うことはなかったのだと、微かな後悔が胸をよぎった。
「それで考えたんだが」
 ガダラルは反らしていた視線を戻し、曖昧なルガジーンの顔を窺うように、首をかしげて覗きこんできた。暖炉の炎に透ける髪が、常より赤みを帯びて、肩から流れ落ちた。
「貴様はオレに抱かれたいのか? 抱きたいのか?」
 上がったり下がったり多忙な血が、ルガジーンの頬を再び熱くした。
 狼狽えるルガジーンと対照的に、問うガダラルの表情は至って真面目である。
「いや、その……」
「はっきりしねぇ男だな。まさか貴様、童貞か」
「……私を幾つだと思っているんだ、君は」
「じゃあ、男が初めてなのか」
 ルガジーンは控えめに頷いた。
 確かに後にも先にも、男に惚れたのはガダラルが初めてだった。
「まあ、女とやるのとそう変わらん。助けられた礼がてら、抱かれてやる」
 まるで煙草の火はないかと聞くような気軽さで告げたガダラルは、自分の手で部屋着のボタンを外し始めた。
 驚いて、思わずその手首を掴んで止めたルガジーンを睨みつける目は、何故止めるのかと責めてさえいる。
「待て。私の理性を試す気なら、やめてくれ。こんなことをして欲しくて君を助けたのだと、誤解しないでほしい」
「試してない。誤解もしてない。貴様も早く脱げ」
 ルガジーンの手を振り払って、更にボタンを外そうとする手首を強く握りしめた。
 外気に冷えたままの肌は、いったいどれほど窓の外にいたというのか。彼もまた、これほど思い切った行動に出る為に、凍えるような屋外で長時間悩んでいたのだろうか。
 幾つか外れた胸ボタンの隙間から、数日前にも衝動的に触れた肉体があった。
 女のような香や化粧の匂いはない。微かに香るのは傷を洗った薬湯だろうか。
 二回りほど小さいながら、己と同じ男の身体であるのに、不思議なほど触れたい欲求は消えていなかった。
 見上げて来る目に欲望を見透かされる気がして、ルガジーンは眉間を緊張させた。
「手を、放せ。痛い」
 引き止める目的以外で、より力が篭った。
 この手を解放した途端、ルガジーンの元から飛び去ってしまいそうな恐怖があった。
「言っただろう。もう元のさやには収まらん。このまま別れて、職務以外で口も聞かぬか、試しにオレを抱いて、なるようになるか。貴様が選べ」
 両手首を捕らわれたガダラルは、己の顔の近くまでルガジーンを手ごと引き寄せた。
 ガダラルの手首に食い込んだルガジーンの指先に、薄く乾いた感触の唇が触れ、そっと歯を立てた。
 逆らえず指が外され、眩暈のするような光景を眺めながら、湧き上がった唾液を飲み込んだ。
「決めたか?」
 外れた指から口を離し、ガダラルは今一度ルガジーンを見上げる。
 吐息が触れる距離で、長い睫毛が瞬くのを、時間の流れが遅くなったような空気の中で見つめていた。
 掴んだ両手首を持ち上げるように開かせて、顔を近寄せた。
 頬に鼻先が触れるほど近くで、視線を合わせたまま。
 思いを口にした時と同じく、触れてしまえば引き返せないと知りながら、制止するもう一人の自分を既に見失っていた。
 齧りつくように、唇を覆った。
 鼻孔に触れた頬から肌の匂いを確かめる。
 ガダラルはようやく目を閉じたのか、長い睫毛がルガジーンの頬をくすぐった。
 手首を解放した代わりに、流れ落ちる冷たい髪に指を差し込んで後頭部を支えた。小さな頭はルガジーンの片手の中に収まる。
 舌先で探った唇の間に侵入して、並びのよい歯に触れる。探り当てたガダラルの舌を捕らえ、その柔らかさに酷く掻き立てられた。
 衝動のまま強く吸い上げる。
 柔らかく、それでいて程よく弾力のある極上の肉を思わせた。
 夢中で吸い上げていたのが苦しかったのか、鼻から漏れる吐息に、ぐずるような、甘えたような声が混じった。
 舌先を触れ合ったまま、唇だけを僅かに離すと、ガダラルは少し酔ったような表情で呟いた。
「貴様の、接吻は、気持ちがいい」
 ルガジーンは思わず笑った。
「それは……ありがとう」
「この間も流された。スルトが鳴かなかったら、あのまま貴様に食われていたかもな」
「スルト?」
「猫だ」
「それが、あの子猫の名か?」
「ああ」
 少し身体が離れると、ガダラルは再び自分の上衣のボタンを外し始めた。手首を軽く引き止め、ルガジーンは残りのボタンを引き受ける。
 ひとつ外す度に、薄い墨染めの布の隙間から、陽に焼けていない肌が露になる。
 だが、胸の下から腹にかけては、傷の上からさらしが巻かれ、それ以外の場所も新旧の傷で隙間もないくらいだった。
「炎の国の王の名だな」
 ボタンを全て外して上衣を絨毯の上へ落とし、それを追うようにガダラルの足元へ膝をついた。
 目の前の薄赤い乳首を戯れに触れ、反応を確かめるが特に表情は変わりない。
 さらしの上から少し膨らんだ傷痕に口付ける。
 細かな古い傷の上に舌を動かし、へその窪みを辿り、腰を抱き締めるように両腕を廻した。
「君自身にこそ相応しい」
 簡単に腕が廻ってしまう細い腰を包む、下衣の紐を解く。常態より膨らみを帯びている股間を避けるように、ズボンを引き降ろし、中に着けた下着にも手をかけた。
 特徴のない白い下着を取り去ると、髪よりも明るい茶の繁みに、微かに反応した陰茎がある。申し分のない形と大きさがあったが、いざ触れるとなると微かに躊躇が湧き上がった。
 仰ぎ見たガダラルは、頬を僅かに火照らせ、両腕で己の上肢を抱いている。何かを堪えているような表情だった。
「貴様の手は、熱い」
 重い足枷を外されたような開放感の中、湧き上がる愛おしさに任せて、贅肉のない腹へ頬を埋めた。身を起こしかけた陰茎を、舌で掬い上げるように含むと、ガダラルの指がルガジーンの髪を掴んだ。
 心配していた同性のへの嫌悪感は欠片も沸かず、ただ彼を形作る部位ひとつひとつが、胸を締めつけるほど愛おしい。
 両手で背から尻、足へと撫で下ろし、確かめるように触れる。
 出会った頃の彼の姿が一瞬脳裏をよぎる。
 自分の元から消えてしまいそうに思えたそれらは、今、ルガジーンの手の中にあった。


 ルガジーンが己をガダラルの中へ埋めるまでは、それから随分と長い時間と根気を要した。
 とにかく、指の一本すら拒む狭く硬い場所が、ルガジーンの焦がれて膨張したそれを飲み込めるとは、到底思えなかった。
 暖炉の傍に常備していた軟膏を潤滑油代わりに使い、時間をかけて愛撫を施す。
 きつく、指を噛み締めていた場所は、排泄の為とは思えないほど美しい色をした内臓を時折覗かせ、次第に数本の指を同時に受け入れられるようになった。
 なるべく優しく奥を探ると、ガダラルの様子も変わる。
 緊張しきっていた眉間は和らぎ、強く引き結ばれた唇は、薄く開いて隙間が出来た。速く、苦しそうだった呼吸は不規則になり、吐息に混じる声が掠れる。
 聞いたこともないような高域の声だ。
 緩く閉じた目元に魅入る。
 長い睫毛の影が暖炉の灯りを受けて、白い頬で揺れる。
 鬼神の名を持つあの将軍が、これほど繊細で魅惑的な表情をすることを、誰が想像しただろうか。
「もう、いい。入れろ」
 長椅子の足を片手で握り、絨毯の上で仰向けていたガダラルが、あがる呼吸の合間に呟いた。
 求めに従って足首をつかんで広げ、狭間へ押し当ててみたものの、先端さえ入る気配がない。快感を得る行為どころか、これではガダラルを殺してしまうような気さえした。
「ガダラル。無理な気がする」
「大丈夫だ。早くしろ」
 薬を足し、滑りを借りて一気に腰を進めると、思いのほか柔軟になっていた場所は、半ば程までルガジーンを飲み込んでいた。
 ようやく思いを果たせたことに感激し、その締めつけと内部の熱さに男の本能が歓喜するのも束の間、見上げたガダラルの顔は強張り、一瞬で噴き出した脂汗に濡れていた。
 息をしていない。
 痛みを堪えて息を止め、唇を震わせ、無意識にルガジーンの胸を押し返しそうになる片手が、弱々しくそこにすがりついた。
 なまめかしく、薄く開いた唇が溜息のように、静かに、浅く息を吐き出す。
「ちくしょ……どれだけ、でかいんだ。化け物め」
「悪い」
「まだ、動くな。痛い」
 頷いて応え、汗に濡れる額の髪を整えてやる。
 宥めるように震える太腿をそっと撫でる。
 しばらくすると、ガダラルは添えた手でルガジーンの腰を動くよう促した。
 ごく浅く、次第に動きを大きくしても、ガダラルが眉をしかめなくなるまで、少しずつ。いつしか最も太い根元まで埋まり、ルガジーンの下腹部がガダラルの薄い尻に突き当たった。
「全て、入った」
 ずっと瞑ったままだったガダラルの目が、細く開いた。
 湿った睫毛の間から見上げてくる、潤んだ青に吸い寄せられるように、堪えていたものが溢れ出す。
 顔を近寄せ、目を覗き込みながら、浅い呼吸をする唇に噛みついた。
 奥へ逃げようとする舌を掘り返し、柔らかな口腔を味わう。 
 そして唇と同じように、大きく開かせた足の間に、広がり、隙間なくルガジーンを銜える口を、熱く、ぴったりと包まれる内臓を、もっと貧欲に味わいたかった。
 根元まで繋がった場所を、尻ごと強く押し上げた。
 青い瞳は見開かれ、唇が喘ぎ、遅れて鋭い悲鳴があがった。
「すまん」
 片手は腿に、もう片方は尻を掴んで押し広げ、半ばまで抜き出しては貫く動作を繰り返す。腰を引く度に、つき随ってくる内臓を引きずり出してしまいそうな気がした。
 だがガダラルの表情を盗み見て、痛みはないと判断する。
「待、て。そんなに」
 切れ切れのガダラルの言葉を無視して、動き続けた。
 彼の体内にあるという事実だけで、ルガジーンは限界まで張り詰め、もう後は解放を待つのみである。
 放置してしまっていたガダラルの前も、いつの間にか力を取り戻しかけていた。前後する動きに合わせて、強く握った手の中で扱くと、吐息のような喘ぎが切羽詰った様子に変わった。
 薄く開いた唇から、聞き取り難い、意味を成さない言葉が吐き出される。胸に添えられていた手が留めるように強く押し、いつしかそれがルガジーンの厚い肩を強く掴んでいた。
「いい、のか」
 ルガジーンも抑えようもなく乱れる呼吸の合間に、問いかける。一瞬、薄目を開けてルガジーンを見たガダラルは、問いには答えず、もう一度瞼を閉じた。
「畜生」
 目尻にたまった涙が、ひと筋こめかみへと流れる。
 例え生理的なものでも、初めてみる彼の涙に、ルガジーンは心臓を直接掴まれ、揺さぶられたような衝撃を受けた。
 不覚にもそのまま逃れられず達したルガジーンの手へ、ガダラルもまた全身を痙攣させ、掠れた小さな悲鳴と共に、暖かな生命の種を解き放った。
 余韻に震え、呼吸に大きく上下する背を、汗の粒が伝う感触だけが際立つ。
 湿った指先で、額に張り付くガダラルの前髪をかき上げながら、そういえば始終居間の床で済ませてしまったことに、ルガジーンは今更気付いた。


 汗に濡れた身体を湯に浸した布で拭い、繋がった場所が傷ついていないかも確認して、部屋着を着せる間も、ガダラルは殆ど気を失っているような状態だった。
 だが寝台へ運ぶため抱き上げようとすると、突然眼を明瞭に開けて、断固として拒まれた。
「ガダラル。どこか痛いのか」
 ルガジーンは己のガダラルを呼びかける声に、これまでとは異なる感情が含まれていることに気付いていた。
 男女の関係でもままあることだ。例え同性同士だろうと、身体を繋げると絆のようなものすら生まれるのだろうか。
「眠い」
「眠るなら寝台の方がいいと思うが」
 ルガジーンの提案を無視して、眼を閉じそうになるガダラルを運ぶことは諦め、寝室から枕と上掛けだけを持ってきた。
 甲斐甲斐しく枕を当て、毛布をかけてやると、ガダラルは半分眠りかかったような顔になっていた。
「貴様は……?」
「私は、まだ興奮して眠れそうにもない」
「子供か、貴様は」
 嘲笑う、皮肉な口調で告げながら、ガダラルは眠る意思を示すように、頭から毛布を被った。
 暖炉の前、長椅子の上に戻り、ふくらんだ毛布を視界の端に収め、読みかけだった本を広げる。
 子供でも読めるようにと描かれた絵と文字を眺めながら、ルガジーンは脳裏に浮かんでは消える、先程のガダラルの姿に惑い、本の内容にまったく集中できなかった。
 奇しくも、この絵本は人間の王子に恋をしたキキルンの悲しい物語だった。
「まったく……恋とは、ままならぬ」
 微かに漏れた独り言に苦笑しながら、ページを捲る。
「貴様、それだけ正気なら、オレと寝るのはこれで最後にした方がいい」
 ルガジーンは飛び上がって驚いた。
 どうやらガダラルは眠っていなかったらしい。しかも、先程までの甘さすら含んだ空気を、一瞬で凍り付かせるような冷たい一言だった。
 毛布の山は動かず、ガダラルの表情はルガジーンからは見えなかった。
「……最後、とは?」
「天蛇将が他の蛇将と関係しているなどと知れれば、世間も、陛下も許しはしない。貴様の部下たちも、見る目が変わるぞ」
 確かに、一般的に同性愛が認められているという事実はない。
 皇都の人々が広く信仰しているワラーラ哲学では、それを罪とは定めていないが、罪悪だとする宗教も世界には少なくなかった。
「知られぬように、すればいい」
「いつか、どこからか漏れる。貴様と切れたくなったら、オレ自身が暴露するかもしれん」
 くぐもった声が毛布の中から響き、ルガジーンは本を閉じた。
「言いたくなったら、言えばいい。私は構わない」
「馬鹿か。いっとくが、オレは最初から異端だからな。東部でオレと寝た男も女も、バレたところで大した影響はない。だが貴様は違う」
 今や、ガダラルは完全に目の覚めた口調になっていた。
「それでも構わないと言ってる。今、私自身に嘘をつくより、自分の感情に素直になりたいのだ」
 静かに答えたルガジーンに反して、ガダラルは被っていた毛布を跳ね除け、怒りを浮かべた眼差しを向けていた。
「オレには、恋も愛も、性欲とどう違うのか、さっぱり分からん」
「違う」
「分からぬ」
「では私が、いつか君に証明してみせる」
 何も確証のない未来を断定しながら、ルガジーンは笑みさえ浮かべた。
 じっと剣呑な表情でそれを見上げていたガダラルは、もう一度背を向け、毛布を被った。
「暢気な男だ」
「それは悪かった」
「オレが貴様の身体に飽きる前に、なんとかしろよ」
 つれない口調で吐き捨て、それきり、ガダラルは今度こそ本当に眠りについたようだった。
 ルガジーンは苦笑を漏らしつつ、椅子から立って部屋の灯りを小さくする。
 暖炉の灯りだけでは、本を読む光量には到底足りない。
 ルガジーンは椅子に身体を伸べ、肘掛けに置いた手に頭を預け、微かに音を立てて燃える炎をじっと見つめていた。
 時折、薪の爆ぜる音に被る静かな寝息が、ルガジーンを眠りではない、安息へと導いて行った。




 謹慎三日目。
 宰相の予告通りであれば、本日中にも聖皇から直々に、天蛇将の謹慎処分をとりやめる通達があるはずだった。
 自室で何かをしようにも、仕事ばかりで趣味もないルガジーンには、まさにこの暇な時間こそが苦痛だった。そもそも反省するつもりもなかったが、無理にでも反省させるのが謹慎処分ということだろうか。
「オレだったら謹慎など本を読む時間を与えられたと思うがな」
 そう笑っていうガダラルは、言わずと知れた書痴だ。
「オレだったら、こっそり酒でも飲んでるわな」
 だが一人で飲む酒が嫌いなザザーグでは、それでは留まらないに違いない。謹慎中の身で飲酒など、除籍ものの厳罰を受けるだろう。
 結局三日目の早朝、突然猛打するノックでルガジーンを叩き起こしたガダラルは、その目の前に見慣れたものを差し出した。
「これを貸してやろう」
 ガダラルの指先に摘まれた黒い毛玉は、空中に浮いた手足で、嬉しそうにルガジーンの胸を蹴った。
 一緒に差し出されたのは、猫用のトイレ箱と袋に入った餌箱などだ。
「お前の部屋は物が少なくて、こいつにとっては遊具が物足りんだろうが、お前の暇つぶしには最適だぞ」
 昨日中は怪我の治療にと、任務についていなかったガダラルも、今日は見張りに立つらしい。さっさと背を向けて、人民区へと歩いて行った。
 天蛇将であるルガジーンが謹慎しているだけで、その仕事は他の将軍や副官が請け負うことになる。正直、皆暇ではないのだ。
 主から預かった子猫を室内へ下ろしてやると、さっそく部屋の隅から隅まで、探索を始めた。
 広さと間取りこそ、ガダラルの部屋と変わらないが、家具も違えば匂いも違うのだろう。
 ガダラルの部屋でも猫用トイレが置かれている浴室へ促してやると、砂を入れた箱の匂いを嗅ぎに来たスルトは、すぐにそこへ小用を足した。頭のいい猫だ。
 水を入れた容器も設置してから部屋へ戻ると、以前よりひと回り身体が大きくなり、少し落ち着きの出てきた彼は、今度は暖炉の前でくつろぎ始めた。
「そういえば君は、女の子かな? 男の子かな?」
 身体を撫でながらひっくり返すと、股間は滑らかな毛皮に覆われ、生殖器の出っ張りがない。
「女の子か。それでスルトとは、勇ましい名だな」
 スルトとは、このアトルガン皇国の地域にも古くから根付く神話に登場する、炎の国の王の名だ。黒い身体の巨人で、神々の最終戦争(ラグナロク)が行われた後、スルトの炎が世界を焼き尽くしたと伝えられている。
 先日は、彼女の主にこそ相応しい名だと思ったが、全身が黒いことから名付けたのだろうか。
 大人しく腹を撫でさせているスルトの、微笑ましい姿に笑いながら観察を続けると、腹の側にうっすらと、渦を巻いた縞模様が浮き出ているのをみつけた。完全なる黒猫ではないらしい。
 ガダラルから渡された袋の中を探り、動物の毛で出来た玩具を見つけた。ルガジーンも絨毯の上で彼女と同じように寝そべり、玩具を使ってじゃらす。
 獲物を追う本能には逆らえないのか、それまで正しく借りてきた猫のように慎ましくしていたスルトは、居間の中を縦横無尽に激しく暴れ出した。


 「猫と昼寝とは、いい身分だな」
 頭の上で声がしたような気がして、ルガジーンは眼を薄く開けた。
 胸の辺りに、露台のある窓から夕陽が差し込んでいる。
 腕と胴の隙間、脇のあたりに柔らかな感触があり、スルトが丸くなって眠っていた。
 朝早くから、昼餉もとらずに夢中になって子猫と遊んでいたルガジーンは、いつの間にか居間の絨毯の上で、仰向けになって眠っていたらしい。
 薄目のまま視線を巡らせると、近くの絨毯の上に座り込んだ、アミール装備のガダラルが覗き込んでいた。
 長めの横の髪が頬に流れ落ちて、鋭利な顔つきがほんの少し優しく見える。気のせいか、その口元が微笑んでいるようにさえ思えた。
 珍しく細い顎が露わだ。そういえばターバンを着けていない。
 先の戦闘で彼のターバンを預かったまま、ルガジーンが持っていることを思い出した。
「ガダラル」
「陛下がお呼びだ。謹慎が解けるぞ。さっさと支度しろ」
「ターバンを」
「……ターバン? なんだ寝呆けてんのか?」
「君のナシラターバンを返していなかった」
 ガダラルは絶句したように口を閉じ、しばらくして眠ったままのスルトを抱き上げた。
 寝起きでぐんにゃりした彼女は、胸へ抱き直したガダラルに安堵したのか、すぐにもう一度眼を閉じる。
「やる」
 ルガジーンはようやく完全に覚醒して、上半身を起こした。
「君に貰う物は嬉しいが、何故?」
 ガダラルは眠る子猫を撫でながら、返答を考えているようだった。
「早く支度せんか。陛下をお待たせする気か」
 頷いて飛び起き、部屋の隅にいつでも出陣できるように置いている装備をマネキンから外して、着け始めた。
 返答を誤魔化されてしまったようだが、不思議と装備をつけると、頭が任務へと切り替わった。
 ものの五分程度で、すっかり『天蛇将』の格好になったルガジーンを見上げて、ガダラルはいつもの皮肉げな笑いを浮かべた。
「怠惰に猫と昼寝していた男には見えんな」
「ターバン、貰っておく。ありがとう」
「もう新しいものが支給されるよう、書類を出してある。二つはいらない」
「一人寝の夜は抱いて寝る」
 見下ろす男の視線を真顔で受け、その一瞬後、夕陽のせいではなく、ガダラルの頬が微かに赤らんだのを、ルガジーンは見逃さなかった。
 ガダラルは慌てて顔を背け、はやく行けと冷たく言い放った。
 手にしていた兜を被り、外套の裾を払う。
「行って来る」
「ああ」
 スルトを抱いたまま一緒に部屋を出てきたガダラルは、彼自身の部屋の前で足を止め、まるで出陣するルガジーンを見送るように立っていた。
「謹慎が解けたら」
 振り返った先の彼の姿は、猫さえ抱いていなければ完全に武人のものだ。勇ましさこそあれ、昨夜ルガジーンへ見せた儚さなど欠片もない。
「君の部屋へ入れてくれ」
 中央に浮いた魔法陣が、不埒な男を二度と通しはしないだろうと、一時覚悟していた扉へ眼を向ける。
「祝杯を挙げてやるさ」
 小さく肩を竦めて答えるガダラルへ心から笑い掛け、大きく頷いてから正面へ顔を戻した。
 通路を進むルガジーンの背に視線を感じる。
 しばらくすると、ガダラルの部屋の扉が開き、彼が自室へと入っていく音がした。


2008.01.20(了) 2010.04.06(更新)
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【FFXI TOP】
※ここでご紹介するものはゲーム本編とは全く関係のない、個人の趣味と空想に基づくストーリーです。スクエアエニックス社の権利を侵害する目的のものではありません。
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