襟を乱し風の声
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皇国の空は低い。
このアトルガン皇国近辺は降雨量は少なく、比較的乾いた気候ではあるが、実は重苦しく厚い雲が天空を覆う日は少なくない。
中つ国に比べれば気温は高く、陽射しも強い。昼日中、甲冑の下に着けた汗はじきの触れる背には、粒になった汗が伝う。
そんな不快な天候をものともせず、いっそそこだけ涼風でも吹いているかというような顔で、皇国兵らが人民区の広場で演習に励む姿を城壁の上から眺め、時折叱咤を飛ばすのは、彼らを束ねる将軍ルガジーン、その人である。
アルザビの街と、そこに住まう聖皇を守る禁衛軍右翼を束ねる長だ。
従う兵士の頭数も多ければ、それだけ差配の確かさと多様さを問われる役職であることは、言わずとも知れている。しかも近年、アルザビへの蛮族の侵攻が激しくなるにつれ、貴族出の文官が机上の作戦を練ることよりも、武人としての武芸の腕前や信仰性が求められるようになった。でなければ、政(まつりごと)を統べる貴族ら自身の生活すら危うくなるほど、蛮族の勢いは増していた。
そんな中、聖皇直々の推挙で皇祖ウルタラムが皇国存亡の危機にのみ設置を許した天蛇将の候補に上げられたのが、それまで一中隊の隊長でしかなかった、エルヴァーン族のルガジーンである。
まさに鳴り物入りで禁衛軍の前に姿を現し、まだ任務について数ヶ月でありながら、ひと方ならぬ大役を、まるで数年もその地位にいるかのような威風と存在感でこなしていた。
元々彼はかねてより、皇国兵の部下からも民衆からも人望厚い人物だった。
ルガジーン自身地位を奢らず、民と接することを好む男で、反面、任務に対し、厳しさを発露する場面に出くわせば、どんな古参の兵士たちも逆らえないような気迫があるという。
先の聖皇が没した後、新たに就いた聖皇は歳若く、人前に姿を現すこともない。まだ戴冠式すら公式には行われていなかった。
蛮族の侵攻を受けるたび、日に日に荒廃していく街を眺めるアトルガンの人民は、聖皇の代わりにルガジーンのような目に見える英雄を求めた。
巨大な蛮族に立ち向かう将軍の勇姿は、まさに救世主であり、蛇将の名に相応しいこの国を守護する蛇王の化身であると噂された。
さて、そのルガジーンが天蛇将に就任してほどなく、皇国はこの数世紀、遠く東部戦線に派兵しつづけていた隊を、徐々に撤退させ始めた。
地続きの東の彼方より侵入してくるヤグード族などの獣人や蛮族には、先の聖皇は元より、代々の聖皇が悩まされて来た。
しかし二十年前、外洋を挟んだ向こうのミンダルシア大陸中を巻き込んだ水晶大戦が起こり、アルタナ連合軍が獣人たちを制圧して以来、皇国へ東側から進行してくる獣人たちの勢力も弱まっていったのである。
獣人、蛮族たちとて兵力は無尽蔵ではない。あちらに眼を向ければ、こちらが弱まるということだ。
一方近年、皇都アルザビには西側の蛮族が侵攻してくるようになった。
現聖皇のナシュメラ二世が即位した直後の事だ。
前聖皇が健在の頃は、嫡子であるラズファード太子が世襲すると信じて疑わなかった民衆は、突然振って沸いたように即位したナシュメラ二世の存在に驚かざるを得なかった。しかも、彼女が聖皇になった後、アルザビ人民区に『魔笛』が安置されると、まるで示し合わせたように、それまで属国として西側に控えていたマムージャ蛮国やトロール傭兵団領が一斉に反旗を翻したのである。
皇国兵だけでは街を支えきれないと判断した宰相ラズファード、そして新参の将軍ルガジーンは、防衛する範囲を一気に縮小し、皇都に戦力を集中させる方法を選択した。
つまり、皇国の東側の防衛ラインを、徒歩の日数なら二日分ほど西へ後退させたのだ。
そこには数代前の聖皇が作らせた、自然の断崖と山並みを利用した砦が築かれており、ごく少ない兵力でも防衛が安易になる。
前線で戦い慣れた兵士はアルザビへ帰還させ、皇都の防衛に当たらせる。新たに国境になる砦には、隣国との交渉力に長けた文官を配置する。そうして東の憂いをできる限り無くさねば、西から大量に押し寄せてくる蛮族には対抗できない。
裾野を切って、頂を守る。
宰相ラズファードが提唱した新たな皇国軍の方針は、まさにそんな捨て身ともとれる戦略だった。
そもそも皇国の東部の地は、それぞれが自治政府をもつ属国の集合体だ。
皇国に統一されるまでの経緯にもよるが、軍事に関してもその地の国主に任されていた。
いくら獣人たちの侵攻が弱まったとはいえ、国境付近で小競り合いは絶えず、各国の監視目的も兼ねて、代々の聖皇は東部へ正規の皇国軍を派兵し続けていたのである。
だが東部の国々の存在に、皇国そのものが守られてきたのも、その逆もしかりだ。皇国軍を一斉に退去させるとなれば、東の国々から見捨てるのかと非難されても仕方がない。
長年、東部の前線に配置されてきた部隊は、当たり前ながら撤退の命に難色を示してきた。
砦より東の土地は、長年続く戦禍により街は縮小し、木々ばかりの森が続く一帯だった。それでも命を張って守り続けてきた領主領民と、故郷から遠く離れて前線を支えてきた兵士たちからすれば、かの土地を、兵力不足を理由に諦めろと言われても諦められるはずもない。
ルガジーンは再三撤退の指示を書面に託して、伝令を遣わすのだが、あらゆる理由をつけて、撤退の時期ではない、少し遅らせてほしいと返答が帰ってくる。
東部に派兵された旅団の幾つかの部隊、特に最も機動力を持つ、旅団長直属のレンジャー部隊は、指令からひと月経っても未だ戦線を下げるつもりはないようだった。
「旅団長が申すには、少ないながら村人を避難させ、すべての兵たちが撤退を円滑に行うまで、レンジャー部隊が殿(しんがり)を務めるつもりだと」
隊が戻ってくる代わりに、ガルカ族の伝令が持って来た書面には、今彼が口頭で語った言葉とまったく同じ内容が、几帳面で達筆な文字で綴られている。
羊皮紙の表面は一切毛羽立っておらず、まるで書官が記した公式文章のように乱れがない。
だが、そこに書かれた内容は、幾ら丁寧な文章でも命令違反ともとれる内容だ。
巧みに皮肉が盛り込まれ、『撤退しなければならない原因は、皇国軍の上部におわすお方の差配ミスだ』、と暗にルガジーンや宰相を責めてさえいた。
ルガジーンは書面を見つめたまま眉間を寄せた。
黙りこくった将軍の姿を、伝令とルガジーンの副官ビヤーダが、息を詰めて見守っている。
優しげにも見えるこの将軍は、規範に背く者には驚くほど厳しい姿勢を示すことがあった。下手をすれば、東部に残った旅団長を解任するとでも言い出しかねないと、傍に控える二人は疑っていたのである。現在のルガジーンにはその権限がある。
だが一方で、これまでその旅団がおらねば、ずっと以前に防衛ラインを西下せざるをえなかっただろうほど、彼らは優秀な兵士たちだった。
通常の旅団よりも少人数の部隊であるにも関わらず、必然ゲリラ的になる戦いに、火力瞬発力のあるレンジャーたちは十分に威力を発揮した。長く本国から離れ、前線にいた慣れなのか、数で押す禁衛軍とは根本的に異なる働きをする先鋭部隊なのである。
だからこそ、今、皇都防衛に彼らは必要だった。
妙な緊迫感の漂う城壁の上へ、遥か下で行われている演習の掛け声が、箭眼(せんがん)の間から伝わってくる。
「君。この書簡を書いた旅団長を知っているか?」
ようやく口を開いたルガジーンの穏やかな声に、伝令は大きな体躯をかがめ、立てた片膝に向って頭を垂れ、は、と短く返答した。
「かの御方が旅団長に就任した二年ほど前、私は前線の伝令を勤めていたことがありました。そこで幾度か」
「どのような人物だ」
伝令は顔だけルガジーンの方へと持ち上げると、エルヴァーン族らしく彫りの深い整った将軍の面をじっと見つめたまま口を開いた。
「直属のレンジャー部隊でなくとも、東部に派兵されたものなら一度は旅団長の噂を耳にします。若いながら、口数の少ない、頭のいい御方でございますが――戦場では」
伝令がふと口をつぐみ、間が開く。
ルガジーンが少し顎を引いて伝令の続きを促すと、首の後ろで束ねた黒い長髪がさらりと肩に流れ落ちた。
「羅刹、と」
「『ラセツ』? 東方の伝承にある羅刹天のことか?」
「左様です。ガダラル旅団長は敵兵からだけでなく、旅団の中でも、羅刹と恐れられております」
「ほう」
「その魔力のほども強力ですが、なんといいますか……非常に苛烈な御方で」
「苛烈、か」
伝令は声なく頷き、視線を僅かに石畳に落とした。
「ならば余計にアルザビに戻ってもらいたいものだ。兵力だけでなく、今はその旅団長のように兵へ活気を与え、鼓舞できる軍人が、今のアルザビの守備には必要なのだ」
命令違反とひとくくりに処分することは簡単だが、東部戦線を支えた彼らの気持ちを無下にしたくないのは、皇国兵すべての総意でもある。
指令書を送る際、ルガジーンはその旨を手紙に託したが、こちらの苦慮は伝わらなかったのだろう。
「しかし閣下、本日もしかり、東部に派兵された部隊は続々戻って参っております。山に阻まれ、ヤグードたちの侵入はそう簡単ではないとはいえ、事実レンジャー部隊の殿がなければ、旅団の多くが安全に兵を退く事はできないでしょう」
ルガジーンは無言の頷きで伝令兵の言葉を肯定する。
「確かに最初は、単なる情から東部の土地を捨てきれないのかと疑った。だが恐らく彼らは、殿の重要性も十分に理解しているのだろう。過酷な東部の前線をあれほど支えた旅団だからな。その旅団長の性分もいざしらず、だ」
「ええ。東部の兵士にとって、撤退は不満のある決定でしょうが、一方でガダラル旅団長は感情だけで命令に背くような御方ではございません。……そう、思います。言葉が過ぎたらお許しを」
「あいわかった。明日にはまた戻ってもらうことになるかもしれん。今日はゆっくり休んでくれ」
伝令は巨体を縮め、深く一礼してから下がって行った。
皇宮の方へと小さくなっていく伝令の後姿を見送りながら、ルガジーンは手にした書面を丸め、書筒に戻した。
ルガジーンが書筒を握りしめたまま考え事をしている間、副官のビヤーダはずっと上官の顔を見つめていた。
書筒の蓋を閉め、上官が上げた顔は薄く笑っていたので、ビヤーダは長い睫をぱちりと瞬かせ、彼の指示と反応を待った。
「ビヤーダ」
「は」
「援軍を。最後に東部に残ったガダラル隊を迎えに」
ビヤーダは目を見開き、次の瞬間姿勢を正し、頷いた。
「私の隊から人を出す。騎兵のみ百二十、装備は中。だが何があっても、次に蛮族軍が攻め入ってくる前に、アルザビに戻らねばならん。予測ではいつ頃になる?」
「次に進撃してくる可能性が高いマムージャ軍は、おおよそ十五日後だと予測されておりましたが……御前自ら出兵なさるのですか?」
驚きを隠せない部下へ頷いたルガジーンの眼は、既に遠い東の果てを見つめているようだった。
「無論。東部の旅団には、それだけの敬意を払うべきだった。でなければ、かの御仁と兵士らはきっと納得しまい。行って、帰って十日ほどか。なんとかマムージャ勢の侵攻前に間に合うだろう」
そう願いたいものです、とビヤーダが賛同し、ルガジーンは続けて指示を口にした。
「君はニ十日分の兵糧と薬品、騎鳥の手配を。私は宰相殿から出兵許可を得てくる」
「承知いたしました」
走り去って行くビヤーダの華奢な後ろ姿から、ルガジーンは東の空へと視線を転じた。
垂れ込める雲がゆっくりと南へ流れて行く。
昼間の陽を弾く雲の下で、彼らはどんな戦いを行っているのか、思いを馳せていた。
宰相ラズファードは椅子にゆったりと腰掛けて、ルガジーンの手渡した書簡に眼を走らせ、途中からその顔を皮肉な笑みに歪めている。
宰相の執務室の両袖机は、几帳面にそろえた書類の山が幾つも連なり、処理の途中だろう書類の上には、書きかけで放置され、乾いたペン軸が転がっている。
今でこそ前線からは退いて宰相の地位にいるが、元々このラズファードは各地の戦地に自ら赴いていく武人だった。戦場で生死の境を彷徨う大けがをして以来、皇都へ戻り、こうして内政に精を出している。
ナシュメラ二世が即位して以来、このラズファードが実権を握り、聖皇は単なる傀儡だと言う口さがない者もいるが、いつの時代でも宰相とはそういうものかもしれない。少なくともルガジーンは、誰よりも聖皇を重んじているのがこの宰相だと思っていた。
ルガジーンより若干若い彼は、老獪とも思える笑みを浮かべたまま顔を上げ、暫くルガジーンの表情を眺めてから口を開いた。
「それで、貴公はどう思う。この旅団長を」
書簡の上部を摘みルガジーンに示すが、言葉を選んでいる内にラズファードは机の端に肘をついて、再び書面に見入り、今度は堪えきれないように声に出して笑う。
この宰相が声を立てて笑うなど、ルガジーンには初めての体験だった。
「書簡の文面はいかにも皮肉ですが、その内容は事実であるし、彼の言い分はもっともだと考えます」
「そうだな。しかし、出ないものは逆さに振っても出ない。そう再三言っているはずなんだが、さすがあの男の口には勝てん」
そう言うと、もう一度笑い声を上げた。
「宰相殿はガダラル旅団長をご存じで」
「ああ。とはいっても、まだ奴は旅団長でも将軍でもなかったし、私が宰相になるずっと以前のことだ。あれが駐屯していた戦地に、私の属する部隊が赴いた時にな。前線で戦闘中に、あの男は私の背中を蹴りつけた」
「蹴りつけた?」
「『貴様が突出するとレンジャーは矢を撃てない。邪魔をするならオレの魔法を喰らわせるぞ』とな」
ラズファードの口まねた言葉遣いは、人民区でうろつく無頼のものだ。
ルガジーンはなんとか笑いを堪えたが、口元が歪むのは止められなかった。
宰相は当時皇太子の身分である。何かの事情があってか、聖皇を継ぎはしなかったが、次期聖皇と言われており、幾ら前線でも特別に扱われていたはずである。
その彼を『蹴る』など、下手をしたら不敬罪で首をはねられてもおかしくない。
「若かった私は呆然、近くにいた側近たちは大層な剣幕で奴へ食ってかかって……当のガダラルはといえば平然と魔法を詠唱していた」
当時のことを思い出しつつ語り始めた宰相は、ごく真面目な表情に戻っていた。
ルガジーンも笑いを治め、彼の話聞き入った。
「彼の詠唱が終わるころになると、周囲のレンジャーと魔道士たちが一斉に後退して、次の瞬間目の前は火の海になった。全く大した連携だった。避け損ねた私と、わめいていた側近たちの前髪が焦げ、彼らは口を開けたまま黙った。奴は地面に座り込んだ私を立たせて、土を払って、こう言った。
『皇太子がいつまでも地面に座り込んでいるな。働け』……まったく、忘れられんよ」
ガダラルという男が、常軌を異していることは間違いないが、それを語るラズファードの口調は決して怒っている訳ではなく、むしろ当時を、戦友を懐かしんでいるように思えた。
「私の部隊がその前線を離れるまで、奴は態度を全く変えなかった。聞けば私とそう歳も変わらないというのに、まったく子供扱いで──それでも戦闘中は常に近くを離れず、奴に背中を守られていたおかげで、私はろくなかすり傷も受けなかった。あれは、そういう男だ」
そしてもう一度小さく笑い声を立てて話を締めくくる。
「宰相殿はその魔道士がお好きでいらっしゃる」
ルガジーンがそう答えると、ラズファードは驚いたように一瞬眼を見開いた。
「お好き、と来たか。嫌いではないが、奴の上官になれば非常にやりにくいだろうな。……貴公に御せるか?」
最初に書簡を読んでいた時と同じ、皮肉な笑顔でラズファードは問う。
「御する以前に、まずはこちらに呼び寄せることが肝要かと」
「そうだな。十日で帰還出来ねば、皇都の守りが薄くなる。例えガダラルが首を縦の振らずとも、貴公には戻ってもらわねばならん」
「十日のうちに、行って、彼を説得して迅速に戻って参ります。彼の人となりをこの目で確かめ、叶うなら、五蛇将の一端をと考えております」
ルガジーンは身体を屈め、上目遣いに宰相を見上げて同じように笑って見せた。
これは暗黙の内の賭けだ。
宰相はルガジーンにはガダラルを御せないと思っているようで、ルガジーンは何としても彼の旅団を連れ戻す気でいる。
「では出兵を許可しよう。必要なものは惜しまず持っていけ。もっとも、物品で動く男ではあるまいが」
宰相の判断へ感謝の意を表すため、握った手を胸に当て、敬礼で答えたルガジーンは、外套を翻して足早に執務室を辞した。
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ルガジーン隊がアルザビを出撃したのは、翌日午前のことだった。
本来ならば、先に使者を送るべきだろうが、マムージャ蛮国軍の進撃が思いの外早まりそうだという予測が立ち、出立を急がざるを得なかったのである。
ガルカ族の伝令は中装備の皇国兵士たちと軍用チョコボの轡を並べ、その勇姿を眺めながら進んでいた。
ルガジーン隊の統率は素晴らしい。
東部戦線に遠征している兵は遠隔を主とする狩人や魔道士が多いが、一方こちらのルガジーン隊は白兵を中心とし、それも普段であれば重装備のナイト、戦士、暗黒騎士などが多い。彼らの命を預かる白魔道士、赤魔道士などを含めて構成された小隊が、幾つも寄り集まったものだ。
その進軍の中、ルガジーン将軍は休憩のたび手元の絵を眺めていた。
伝令は最初、家族の肖像画か何かと思ったが、どうやら最近アルザビで話題になっている『写真』らしい。写真とは、中つ国の技術を取り入れた錬金術師とオートマトン技師たちが作り上げた『虚像の器』という機器で、風景や人物を見えるまま紙の上へ写し取ったものだ。
「羅刹というから、どのような恐ろしい形相をしているのかと思えば」
一晩目の野営地で、ルガジーンは胴巻きから抜き出したその写真を伝令へ渡して来た。
どうやら進軍中、彼が写真に興味を示していたことをお見通しだったらしい。伝令は頭髪を掻きながら苦笑し、渡されたそれを受け取った。写真は宰相から借り受けたものだという。
小さな紙に写し取られた姿は、確かに東部戦線にいるガダラル旅団長だった。
地味な色合いのイギトターバンから、明るい茶の、まっすぐな髪が頬を隠すように下りている。面差しと顎は細く、鼻筋もすっきりとして、若々しい顔立ちだ。
彼と一緒に映っているのは恐らくレンジャー部隊の兵士らだろう。歳の頃は皆そう変わらないのに、明らかにガダラルだけが浮き立っていた。
「随分と見目良い姿をしているものだな」
ルガジーンは横から写真を覗き込んで低く笑い声を漏らしている。
「左様でございますな。羅刹天はその正体は鬼神だといいますが、男神は醜い姿を、女神は美しい姿をしているそうでございます」
「ではかの御仁には、女神が憑いているのかな」
「確かに」
伝令も声を立てて笑った。
ガルカやエルヴァーンから見れば、ヒューム族のガダラルは決して外見が強そうには見えない。しかも彼は黒魔道士だ。鎧の下の身体が、剣ひとつでその身をたてる戦士たちと同じように鍛えられているわけがない。
だが、彼はひとたび戦場に立てば、魔法だけでなくその背にある鎌も操る。
かつて前線で伝令を務めた際、驚きを隠せず見たのはその勇姿だった。
身の丈近くもある両手鎌を左右上下に振り回す様子は、とても黒魔道士には見えなかった。
しかも、ただ闇雲に振り回しているだけでなく、確実に魔法の詠唱よりも近い間合いに入って来た敵兵を、なぎ倒していたのである。
返り血をものともせず、詠唱の合間に鎌の血糊を払い、前方に差し出した指の先で、古代魔法が炸裂して敵兵の中隊長が一瞬にして消し炭になった。
「ルガジーン閣下のおっしゃるように、それが女神だったとしても」
思わず口からこぼれ落ちた言葉の続きを、ルガジーンは興味深く待っており、伝令は途中で言葉を切ることが出来なくなった。
「間違いなく、鬼神でございましょう」
相手によっては、上位の兵士への悪口とも受け取れかねない言葉を小声で続け、苦笑した。
「閣下も、かの御方のお側に寄る時は、ご注意なさいませ」
「気をつけるとしよう」
ルガジーンは目を細め、口を開けて笑った。
これだけ、よい風評とは云えない感想を述べているというのに、ルガジーンは心なしか楽しそうに見える。きっと彼は、新しい戦友を見つけたようで嬉しいのだと、その時初めて伝令は気づいた。
翌日も進軍を続けたルガジーン隊は、日が沈んでから東の砦に到着し、そこで前線から撤退してきた部隊に遭遇した。
彼らの話によれば、前々日の夜間に敵兵の大規模な襲撃を受け、その戦闘で最後尾に残ったガダラル将軍の部隊と別れ、一昼夜歩き続けてこの砦まで退いたという。敵の数は多く、奇襲を掛けられたこともあって、旅団を分断してでも逃げざるを得なかったのだろう。
撤退してきた部隊の誰もが、ガダラル旅団長と彼の部隊の武勇を讃え、すぐにも援護に向かってくれと口にした。これから東へ向かうルガジーン隊への参加を志願する者も出てくる始末だ。
彼らを宥め、明日早朝にも出立することを告げると、ルガジーンは伝令を呼び寄せ、先行してガダラル隊と合流できないかと相談を持ちかけた。
数は少ないとはいえ、今や砦より東の地は、敵兵がまかり通る場所になっていると言っていい。
皇国軍が一斉に退いたのを察知してか、背後の敵軍は想像していたよりも食い下がって来ているようだ。
ここまで共に進んで来たガルカ族の伝令は、単なる使いであり、影から影へ飛ぶ隠密とは違う。その彼が、殿というより、敵地に孤立してしまっているに等しいガダラル隊と合流するのは至難の業だ。
だが伝令は暫く思案した後、頷いて了承した。
「私はガダラル旅団長へ閣下が援軍に来たこと、とにかく東の砦まで退くことをお伝えすればいいんですね」
隠密行動には慣れていなくても、東国へ抜ける街道沿いには、いくつかの小さな関所門や砦が築かれている。そういった場所には、旅団の者と連絡を取れるリンクシェルを所持する者もいるはずで、完全に遭遇できなくとも、意志を伝えることは出来るという読みだ。
ルガジーンに力強く頷き返したガルカの伝令は、準備が整い次第すぐに出立するこを告げて立ち去った。
二人のやりとりを近くで控えて聞いていたビヤーダは、伝令兵を見送ったまま動かない上官を見やった。この大将は時折こうして、時を止めた岩のように動かず、思案にふけることがある。
「閣下。質問をお許しください」
「うむ?」
「ガダラル将軍の部隊はなぜそこまでして、かの地に残るのでしょう」
「そうだな」
ルガジーンの金色の目で見下ろされ、ビヤーダは思わず背筋の伸ばした。
「彼ら旅団の兵士の多くは、東の国の出身だ。村や街が滅び、帰る地を亡くしても、彼らの守りたいものは皇国そのものよりも、その地であるからだろうな」
「それでは完全な私情ではありませんか」
「ビヤーダ、人の心に垣根は立てられぬよ」
部下の言い過ぎをたしなめる言葉であったが、ルガジーンの顔は苦笑していた。
「皇国と聖皇様をお守りしたいという私の心ですら、単なる私情だ。それが君の皇国への信念と合っても、私情が二つ集まったにすぎぬ。その集まりが大きくなり、大儀となったところで、なぜ、己の故郷の地を守りたいと考える一兵士の心を責められようか」
「……おっしゃるとおりです」
ビヤーダは頬を染めて恥じ入り、ルガジーンへ向かって頭を下げた。
ルガジーンよりもいくつか若いビヤーダは、皇国兵の装備に身を包んでいるとかなり大人びてみえる。それでもそうして頬を赤くする姿は、間違いなく嫁入り前の娘だった。
「君が恥じることはない。それでも我らは皇国軍の一端である以上、皇国と聖皇様をお守りすることこそが存在する意義だ。だが、彼らの心を知ろうとせねば、彼らを説得することも出来ないと、私は思う。それに、恐らくガダラル将軍本人は、東の地への執着がそれほど強いとは私には思えぬのだ」
先ほどの言葉とは矛盾するルガジーンの言葉に、ビヤーダは首を傾げた。
「確かに隊に東国の出身者は多く、ガダラル将軍もまた極東の属国出身だ。だが彼は自分自身の情よりも、部下たちの心を汲んで行動しているように思えてならない。彼らの意思を尊重せねば、皇国軍への求心力さえ失うのであれば、私とてガダラル将軍と同じ道を選んだかもしれぬ」
「しかし、閣下はガダラル将軍とお会いしたことは」
「ない。だが、そんな気がする」
きっぱりと言い切って、まるで子供のように笑う上官を見て、ビヤーダもまた笑顔を浮かべた。
皇都を出立する以前から、ガダラル隊を退かせるのは無理ではないかという風評が、皇国兵の間でも持ち上がっていた。ビヤーダの同僚たちには、ルガジーン閣下をお止めするようにと意見もされた。
だがビヤーダはルガジーンが必ず目的を果たしてガダラル隊を連れ帰るだろうと本気で信じており、彼らの意見を取り合わなかった。
これほど高い地位にあり、多くの兵を随えながら、彼ほど末端の兵士の心までくみ取ろうとする者はいない。高潔でまっすぐなルガジーンと接して、東の地を支え続けた鬼神とて、その凍った心を溶かすであろうと信じる事が出来た。
「明朝日の出と共に発つ。我が隊の準備は今晩の内にすませ、十分身体を休めておくようにと」
「御意」
「これから数日は屋根のある場所どころか、地に身体を横たえることも叶わぬかもしれん。一刻も早く、ガダラル隊と合流し、砦まで退くことを最優先とする」
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陽が昇ると同時にルガジーン隊は東の砦を発った。
砦から東へ向かう道のりは、緩やかながら傾斜している。
これ以降は皇国の直轄地ではなく、東部の属国スリュムの領地となる。
スリュムをはじめ、極東の小国の多くが、獣人たちの領地との国境のある山の裾に広がる高原地帯の中に存在した。
東へとまっすぐ伸びる街道にチョコボを走らせながら振り返ると、巨大な石造りの東砦を見上げることができる。
切り立った沢のふちに堅牢な岩の土台を築き、その上に更に石造りの城壁と郭(くるわ)を建ててある。河を渡ることも困難な上に、橋を制圧するには砦からの攻撃に耐えねば叶わず、難攻不落の砦と名高い。東側から見ると、確かにその堅牢な様子だけでも攻める気力が失せる。
さすがの獣人たちも、かつてこの砦を越えて、西へ侵入してきたことはなかった。
背後にそびえていた砦が見えなくなるころ、すっかり陽は高くなり、街道がやや狭くなる。街道の両脇には深い森があり、もしも獣人たちの伏兵があると奇襲をかけられる可能性もあった。
通常の進軍であれば、先行する警戒兵を立ててじりじりと進むのだが、今ルガジーン隊は全速力でチョコボを走らせていた。
国境までは徒歩なら二日程度、チョコボの足でなら一昼夜ほどで着く。
問題は、ガダラル隊の残りがどこにいるか把握しきれていないということだ。
街道沿いの関所や砦に皇国軍は詰めており、急襲を報せるのろし台を備えてはいるが、そこは基本的に敵軍の攻撃に耐えられるような性質のものではない。獣人蛮族が攻めて来たとなれば、そこを放棄して退くことになる。
途中いくつかあった関所に詰める兵士に問うと、昨夜のうちに伝令が通り過ぎていったという報告だけがなされ、ガダラル隊から連絡を受けた兵士には出会わなかった。
そのまま街道を進むうちに、森林が次第に開け、膝下の丈の草原地帯に出る。見通しのよい高原独特の起伏のある土地には、所々壁が築かれた跡があり、数十年前の戦で放置された村の残骸もあった。
遺跡のような村の跡を抜けると、明らかに新しい石垣が多くなり、さらに丘を越えて見下ろした場所には新しい街が広がっていた。
スリュムの中央にほど近い、街道沿いのクメルデンという街だ。
街の中央を貫く目抜き通りは、丁寧に石畳で舗装され、そこに沿って、碁盤目状に民家や商店が軒を連ねている。つい最近までそこで生活が営まれていた痕跡を色濃く残しているものの、人影は全く見あたらない。
防衛ラインを下げるという皇国の通達により、街ごと安全な西の地へ避難した結果だ。
「惜しいな」
ルガジーンが思わず漏らした呟きを拾ったビヤーダが、無言で小さく頷いた。
それを口にしてはならない立場ながら、ルガジーンは呟かざるをえなかった。
東属国は大きな首都を持つものから、小さな部族や街規模のものまで様々だ。ここは小国の端をしめる小さな街だが、それでも多くの民が日常を営んでいた場所である。
「伝令が通った痕跡がないか探せ」
目抜き通りに騎鳥したまま踏み込み、ゴーストタウンと化した街の路地を注意深く監視しながら進む。
扉は施錠され、あるものは板が打ち付けられて簡単には入り込めないようになっている民家や商店の扉を横目に、街の中心にある円形の広場に辿り着いた。
かなりの広さがある広場には、中央に樹木の形を模した石の水飲み場とベンチが出来ている。野良猫が数匹水飲み場にたまった水を飲んでいたが、ルガジーン隊のチョコボの足音に驚いて、奥の路地へ逃げていった。
三列縦隊で進軍していたルガジーン隊は、その広場へ集結するように続々と入り込んだ。
「閣下、ここに」
ビヤーダが指し示した水飲み場の一部に、伝令が残していったオレンジ色の布地が巻き付けられていた。
これはあのガルカの伝令が通っていった場所に残す目印だった。
「通過したか」
このクメルデンを通り過ぎると、次にある街道沿いの街はスリュムの首都である。
東部の部隊の多くが駐留していた街ではあるが、その街から退いたという報告は随分前に受けていた。
「ここを拠点に分散して探すか」
ルガジーンが鳥首を返し、部下たちを振り返って整列を促そうとした時だった。
広場に面した向かいの民家の屋根あたりに、何か光るものを見つけた。
長年戦場にいたものの経験と反射運度で、とっさに抜いたアルゴルの平を避け、威嚇の矢は地面に突き立った。
「なにやつ!」
叫んだのはビヤーダだ。
ルガジーン隊の兵士は騎上で一斉に抜刀し、ある者は矢をつがえた。
「部隊名と所属を名乗れ!」
屋根の上で立ち上がった人影は逆光の位置で姿を捉えにくい。陽を背にしたシルエットには細くしなやかな尻尾があり、ミスラ族であることだけが窺えた。
「我らは東部を預かるガダラル隊だ」
ミスラの影に沿うように弓を引いた者と、魔道士らしき二人の人影が立ち上がった。
反射する鏃の先は、今度は紛れもなくまっすぐルガジーンを狙っている。
ルガジーンを守るように前へ出た部下らと共に、ビヤーダが進み出て叫んだ。
「我らは皇国禁衛軍ルガジーン隊に属する者。ここを我らが使わした伝令が通ったはずだ! ガダラル旅団長はいずこに!」
「ルガジーン隊……! まさか本当に来たのか」
ミスラの狩人は叫ぶように応え、屋根の上からひらりと広場の石畳に飛び降りた。
狩人のアーティファクト装備に小柄な身を包み、銀髪をヘアバンドで留めている。皇国軍兵士に支給される大弓を手に提げ、抜いた矢を矢筒へ戻して地面に片膝をついた。
「失礼した。深夜に訪れた伝令の身柄は私たちがお預かりしている」
「なんと! 彼を捕らえていたのか」
非難の混じる声でルガジーン隊が口々に言う間にも、屋根の上にいたもう二人の兵士も広場に姿を現していた。
「それが我らの務めゆえ」
そう言って同じように膝を折ったのはエルヴァーンの狩人、それにヒュームの女魔道士だ。
ルガジーンはチョコボの背から飛び降り、進み出た。
「前線での務め大儀だ。私は禁衛軍に属する天蛇将ルガジーン、君らとガダラル旅団長を迎えに来た。膝をつく必要はない、立ってくれ」
「閣下がわざわざここまでお運びになるという伝令の言葉は、我らにはにわかに信じられず。彼を拘束したご無礼、お許しあれ」
ミスラの狩人は言葉こそ恐れもへりくだりもない口調だったが、深く頭を垂れてから立ち上がる。
「ガダラル旅団長は?」
「実はここにはおりません」
ルガジーン隊はどよめいた。
「どういうことだ」
「二日前の夜、我らはこの数キロ先の野営地にて、獣人どもの襲撃を受けました」
その襲撃とは、ルガジーンが東砦で遭遇した部隊が逃がれた時のものだ。
「そこで君たちがくい止めたという話は、砦で聞き及んでいる」
「左様でございますか。では先行の部隊は無事、砦まで到達したのですね」
ミスラの狩人は初めて笑顔を浮かべ、その顔を再び厳しいものに変えた。
「我らも退くのに手間取りまして、最後に残った小隊にガダラル様も残っておいででした」
一同は一層ざわめき、口々に囁き合っている。
ルガジーンは部下たちを挙げた手で制して尋ねた。
「その小隊から連絡は?」
「リンクシェルは持っているのですが、ガダラル様とは連絡がとれません。このクメルデンで待機し、今日の夕刻までに合流すると、別れる折りにお約束しました」
「今日の刻限を過ぎたらどうせよと」
「全力で、東砦まで退けと」
ミスラの狩人は言い終わった途端、唇を噛み、俯いた。
なんの説明もなくとも、その場で彼女がどれだけ苦慮したか、身を切るような決断の中、旅団長らと別れたのかが伝わるようだった。
俯く彼女の背後には、どこからか現れた兵士たちが、一様に暗い表情で控えていた。
総勢二十名にも満たない。半分ほどが狩人や戦士、残りが魔道士たちで構成されている。誰もが疲れた顔を隠せず、無傷な者は一人もおらず、ただ戦意を損なっていないことが、今すぐにでも戦いに臨めるようにと手入れされた、数少ない武器が物語っている。
「ビヤーダ」
「は」
ルガジーンの背後で騎鳥から降りたビヤーダが応じる。
「ガダラル隊へ兵糧を分けろ。一刻も早く体力を戻して、彼らにこちらの一小隊をつけて砦まで退去させろ」
「御意」
「ガダラル殿らは盗聴を恐れてリンクシェルでの通信は切っているのだろう。誰か、パールをひとつ預かって、話し掛け続けろ」
ルガジーン隊の使番の一人が進み出て、さっそくガダラル隊からパールを借り受けた。
「クメルデンの街の名前は出すな。ただ返答があるまで呼びかけろ。それと……君の名前は?」
ルガジーンは自分より遥かに小さなミスラの狩人を再び見やった。
胸に手を当てる敬礼の後、明瞭な声で応える。
「ガダラル部隊所属、第二小隊長ジェミ・キロリオー。このクメルデンには第三小隊も共におります」
二つの小隊ともなれば、普通は三十名は超える人数になる。だがガダラル隊の兵士はいかにも数が足りない。
「第三小隊の隊長はいずれに」
「先の戦闘で……戦死致しました」
「そうか」
囁き合っていたルガジーン隊も黙り込んだ。
皇国から遠征はあっても、野戦経験の少ない兵士がルガジーン隊には多い。交流の全くない東部の部隊とはいえ、同じ皇国軍である以上、その過酷な事態を目の前に彼らも深刻にならざるをえなかった。
「ではジェミ小隊長、君は我らと共に行動をしてくれ。ガダラル殿の居場所や現状を予測するのに、どうしても君の経験が必要になる。君の部下たちは、我らの第五小隊と共に東砦へ退いてもらう」
「承知致しました」
一斉に不安そうな顔になったガダラル隊を見渡し、ルガジーンは続けた。
「不満は承知しているが、遠路皇都から君たちの援護に来た我らにも、出番を残してもらいたい。何もせずに皇都へ戻っては、人民たちに後ろ指を差されてしまう」
ルガジーン隊の一同からは苦笑が漏れた。
ここでもし、ガダラル隊の生き残りは戦力外だなどと言おうものなら、彼らは反発して、ルガジーンの指示を拒否することもあるだろう。
「ガダラル殿と部隊の兵士たちは、我らルガジーン隊が必ず連れて帰る。君たちは我らに追いつかれぬよう、東砦まで急ぎ退いてくれ」
いつしか、ジェミ小隊長の背後に整列していた兵士たちが、ルガジーンを期待の眼差しで見上げていた。
「ルガジーン閣下へ敬礼!」
ルガジーンは統率のとれたガダラル隊の敬礼に返礼し、騎鳥の上に戻った。
「東西の街道に見張りを立て、我が隊も兵糧を使え。休息の後、各小隊長は私の元に。手分けしてガダラル隊の捜索に当たる」
おう、とルガジーン隊の一同が手や武器を挙げて応じ、各小隊ごとに街の広場や路地裏へ騎鳥を移動させて昼餉をとる準備を始めた。
ルガジーンやビヤーダも広場の一番端に騎鳥を繋ぎ、民家の塀を椅子がわりに腰を下ろしたところで、ようやく捕らわれの身だったガルカの伝令が恥ずかしそうに目抜き通りから姿を現した。
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休憩の後、すぐに捜索を開始したルガジーン隊は、八つある部隊の一隊をクメルデンにいたガダラル隊の護衛につけて東砦へと退去させ、一隊はクメルデンに待機させ、残る六隊を二手に分けて山野へ踏み込んだ。
街道から左右へ散っていったルガジーン隊はすべての小隊長にリンクパールを持たせている。無論敵兵に盗聴される危険もあるが、すでに分断されてから丸二日を経過しているガダラル隊の発見が、これ以上遅れる方がリスクが大きい。
山野の中では、陽が沈むと捜索は不可能に近い。しかもこの界隈を侵略している獣人は、夜目のきかないヤグード族が多いこともあり、ガダラル隊が深夜に大きく移動しようとしていると考えられる。
「陽のあるうちに彼らを捜し出さねば」
ルガジーンはジェミ小隊長と第一、二、三小隊と共にクメルデンから南東へ進んだ。
クメルデンまでは敵兵に遭遇することもなかったが、街道から一歩林へ踏み込むと、彼らがこの界隈に潜伏している痕跡が多く残っていた。
足跡や戦闘の跡、ガダラル隊の残した目印がないか注意深く眼をこらしながら、二時間ほど捜索を続けたころのことだ。
「三時方向より敵兵! 数二十強!」
突然本隊の左右に配置した警戒兵が叫び、南側からヤグード族の歩兵一団が向かってくるのが見えた。
「皆、隊列を崩すな」
走り戻って来た警戒兵も列に吹い込まれ、騎鳥したまま素早く隊列を整える。
一丸となったルガジーン隊は、野戦に慣れていないとはいえ決して弱くない。ある者は自分と仲間へ防御魔法を掛け、ある者は剣へ炎をまとわせ、分厚い盾を構え、瞬く間に戦闘準備が整う。
「彼奴らに皇都の兵は軟弱と言われては癪だろう。存分に、我らの強さを思い知らせてやれ」
ルガジーンの鼓舞に思わず笑みを浮かべた皇国兵たちは、高く掲げられた勇者バルラーンの霊剣アルゴルに雄叫びを挙げた。
乱戦となるまでもなくヤグードの一団はまたたくまに制圧された。恐らく彼らにとっても、突然のルガジーン隊の登場は予想外の戦力であり、そして彼ら自身は敵地内深くへ遠征してきた兵士で、疲れや戦力の衰えは免れない。
ルガジーン隊は仲間の被害報告を終え、負傷者の治癒や手当を手早くすませた。
「閣下」
ルガジーンの横にビヤーダと共に控えていたジェミが、ふと声を上げる。
「このすぐ東の窪地が、ガダラル旅団長と別れた辺りです」
「そうか。彼らが動いていない可能性もあるか?」
ジェミは少し悩んだ後、首を横に振った。
「移動していると思われます。ですが、今この場所で敵軍の一団に出会ったことを考えると、かなり広範囲に敵兵が分散していると」
ルガジーンは騎鳥したまま地面を見つめ、顎に手を当ててしばらく思案していた。
少数の隊に別れたガダラル隊を追撃すべく、敵もまた隊を分けたに違いない。
つまり分散した敵兵に見つからぬように大きな移動を阻まれている可能性もある。もしくは移動する内に、合流場所だったクメルデンから遠く離れてしまっているかもしれない。
戦闘が目的ではないのだが、この場合は、
「敵のいる方へ進めば、出会うかな。」
まずはジェミがガダラル旅団長と別れたという場所へ向かうことになった。
まばらな樹木の林を進み、ヤグードの足跡が多く残る土の上でチョコボを駆る。乱戦の跡が幾ばくか残る中、ガダラル隊の痕跡を探していると、突然皇国兵と思われるひとつの遺体を見つけた。
「おお、サジタリア」
ジェミが抑えきれなかった声を上げ、突然チョコボから飛び降りた。
「仲間か」
仰向けに倒れたエルヴァーンの男兵士は、既に死後一日以上は経過した様子で、胸と肩に大きく受けた傷は黒く乾いていた。腰に鞘はあるが、剣は見あたらない。
駆け寄って、傍らにしゃがみこんだジェミが、固く強ばった兵士の手を取り、ワラーラの祈りの言葉を呟いた。
「ガダラル様の御側に遣える者です」
「弔ってやるか」
「……いえ。ですが彼の遺品を持ち帰ることをお許しいただけますか」
「もちろんだとも」
ルガジーンだけでなく、彼の部隊の者も誰一人、異論を唱える者はいなかった。
ジェミは手早く彼の服を探り、私物を幾つか鞄に入れ、腰に差していた短剣で遺髪を一房取る。手当につかうガーゼで遺髪を包み、それも丁寧に仕舞った。
誰からともなく黙祷し、ジェミが騎鳥の上に戻ったところで目を開ける。
「窪地まで急ごう。手がかりの一つでもつかめるだろう」
ジェミと頷き合い、手綱を操り、チョコボを走らせる。
樹木のない場所を選んで林を抜けると、足下には明らかな戦の痕跡があった。折れた矢、踏み荒らされた下草に魔法による焦げや、千切れた枝葉。血痕らしき黒ずんだ跡も土の上に残っている。
走り出して五分ほどの場所で、ジェミが手綱を緩めた。
背の低い樹木が密集した茂みが続き、そこを抜けたところに小さな水たまりのような池と少し拓けた窪地が見渡せた。
旅団が野営していた跡だろう、兵士が使っていたと思われる雑貨が散乱し、火をおこした場所の近くには、また兵士の躯が数体転がっていたが敵兵に焼かれたのか、すっかり炭化していた。
倒れ臥す兵士を越えた辺りは、下草が真っ黒に焦げた地面が広がっていた。
「あれは、ガダラル様が焼いた痕です」
「なんと」
近寄って、騎鳥から見下ろしたルガジーンは驚きを隠せず、思わず開き掛けた唇をそのままに、焼き尽くされた草地の惨状を見つめていた。
所々、焼け残った草が人のような形に見える。恐らく倒れ伏したヤグード族の跡だ。ヤグードの姿こそないが、仲間が遺体を引きずったのだろう跡もある。
その数も数えきれないが、焼かれた範囲が半端でない。百名規模の兵士が野営できる広さの窪地の、ほぼ半分の面積が焼き尽くされているのである。
呆然と見下ろしていたのはルガジーンの部下も同様だった。
だが、ふと最初にビヤーダが顔を上げ、同じものに気付いたジェミも、三角形の耳をぴくりと動かした。
「閣下、奥から声が」
焼けた草地の向こう、窪地の終わるあたりに、下草の茂った場所がある。一見ただの背の高い雑草地のようだが、向こう側へ抜けられるらしく、そこから微かに人の気配がする。
「敵兵では」
ビヤーダの声にルガジーン隊は一瞬で緊張し、無意識に隊列を整えたが、近づいてくる息づかいのような音は、獣人ではなく人のものらしい。
「ゆくぞ」
ルガジーンが率先して焼けた草地へチョコボを進めた。
それと同時に、長い雑草をかき分けて飛び出てきたのは、タルタル族の兵士だった。
「仲間か?」
「そうです!」
兵装の魔道士は突然目の前に現れた兵の一団に驚いた顔をしたものの、すぐにジェミの姿を見つけて、その顔を綻ばせた。
「ジェミ小隊長ーぉ!」
魔道士は必死にその場で飛び上がり、血に濡れた手を振って見せた。ローブのフードが外れて、きっちりと結った金髪の後ろ髪が跳ねている。
「パル・バルゴ! ガダラル様はご無事か!」
「この先に! ですが敵兵が!」
言いかけたところでジェミが騎鳥を止めて伸ばした手に飛びつき、パル・バルゴと呼ばれた魔道士はジェミの鞍の後ろに収まった。
「こちらの兵力と敵の規模は!?」
問いかけたルガジーンを、ジェミの後ろから大きな目で見上げたパル・バルゴは、頬に流れてくる血を拭いながら答える。背後にいたルガジーン隊の魔道士がすぐに小さな身体にへ回復魔法を飛ばした。
「えっと、どちらさんだか知らないけどありがとうございます! 味方は二小隊、敵は四小隊ほどです!」
再びチョコボを進め、長い雑草の茂みをかき分けて抜ける。
パル・バルゴと同じように後退してきたらしいガダラル隊の兵士らが、複数のチョコボの足音に驚き、直後に援軍の登場に歓喜の声を上げた。
「援軍だ! 皇国兵だぞ!」
味方の増援を知らせる声は、同時に敵兵の動揺も誘うことができる。
地面を踏み鳴らし、突撃する仲間へ道を開けるガダラル隊に見送られ、ルガジーン隊は目の前のヤグードたちに剣を振り下ろした。
ある者は騎鳥を降り、盾となってガダラル隊の唱える詠唱を援護した。
ある者はチョコボの強靱な足で敵兵を蹴りのけ、負傷した仲間を庇いながら手にした斧や鎌で再び起きあがる獣人らをなぎ払う。
敵のヤグードたちもまた、先ほど遭遇した小隊とは気合いが違った。前へ突進してくる戦士や侍の剣の腕はよく訓練されており、後衛との連携もよく、疲れ切ったガダラル隊を全力で殲滅にかかる意気込みが伝わった。
だが今ルガジーン隊が参戦したことで、数でもこちらが有利、しかも殆ど無傷な騎鳥隊が援軍にかけつけたとあっては、さすがの敵も及び腰になり、じりじりと後退を始めた。
ルガジーンは騎鳥の背を降り、その重量級の両手剣で大将格と見て首を狙ってくる敵を始末しながら、乱戦の中、ガダラル旅団長の姿を探していた。
ルガジーンの背を守るように矢をつがえるジェミもまた、上官の姿を探して顔を巡らせるが、一向に見つからない。
「パル・バルゴ! ガダラル様はどこなんだ?」
「だから、さっきまで……ここに!」
水平に開いたパル・バルゴの小さな手から光弾が飛び、正面から突撃してきたヤグードの一団を貫いた。
「て……どこよ!」
「君らはどちらの方向から退いてきたのだ」
ルガジーンが直接タルタルの魔道士へ問うと、彼は一瞬迷った後、丈の長い草地の続く更に奥を指さした。
早くも逃げだそうというヤグードたちが背を向けて、そちらへ走り去る姿が見える。
「参る」
ルガジーンは目の前の敵兵を打ち倒し、その身体をまたいで走り出した。
「閣下! お待ちください、お一人では危険です!」
一体の敵兵と切り結びながら叫ぶ、ビヤーダの制止を背に走り出したルガジーンは、戦の最中の昂揚とは異なるものを、アルゴルの柄を握る掌に感じていた。
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丈の長い雑草は背の高いルガジーンの胸あたりまである。さきほどのタルタルの魔道士ではまったく視界が利かないような状態だろう。
敵味方の兵士に踏みつけられ、僅かながら隙間が出来ているものの、足を取られてなかなか前に進みにくい。
逃げていく敵兵をあるいは倒し、向かってくる気配のない者は見逃し、ルガジーンは尋常でない速度で、その草地を走り抜けた。
突然、草がまばらになって、先ほどと同じような窪地に出る。
逃げていく敵兵の中で、まだ戦意を失わずにいるヤグードの一団が、その窪地の中央でただ一人の皇国兵へと対峙していた。
イギト胴着に包まれた肩と、低く構えた両手鎌が荒い呼吸に上下していた。
周囲には真っ黒に炭化したヤグードが幾体も転がり、目に見える熱気が未だ周囲を覆っているのが分かった。極限まで体力を削られ、今にも倒れそうなその男の身体からは、ルガジーンですら恐れを成すほどの闘気と殺気が流れ出ている。
「ガダラル殿か! 援護に来た!」
足を止めて叫んだ声に、男はまったく反応せず、背を向けたままだった。
大鎌を提げ、もう一方の手が水平に上がり、その掌に再び巨大な炎の固まりが形成される。
「燃えろ」
彼の周囲を取り囲んでいたヤグードたちは、投げつけられた炎にひるみ、身体を覆った直後にさらに勢いを増す火炎の魔法に悲鳴を上げた。
そのまま倒れ伏した者もいれば、慌てて背を向けて逃げ出す者もいたが、更に挙げた男の左手から追撃した火炎の固まりに追いつかれ、こちらへ向けた背が燃え上がった。
「深追いするな!」
叫んで止めていた足を踏み出したルガジーンに、男は初めて顔をこちらへ向けた。
それは確かに写真で見たガダラル旅団長だった。滑らかな頬が煤に汚れ、闘気を衰えさせない青い眼がルガジーンを睨み付けている。
威嚇、それとも怒りか。彼の部下たちがルガジーン隊へ向けた視線とは明らかに異なる感情が、その強い光に宿っていた。
「貴様。何モンだ」
最初の一言で、宰相の漏らした口まねを思い出した。
「西の皇都より助けに来た。味方だ」
「ふっ」
熱気と真っ黒な煙の漂う中で、ガダラル旅団長は口元をほころばせ、突然大きな笑い声を弾けさせた。
「なんだ?」
「敵はなぁ……」
こちらを向いた顔が一度俯き加減に隠れ、身体が跳躍する直前のように低く構えられた。
「みんなそう言うんだよっ!」
躊躇なく振りかぶった両手鎌は、確実にルガジーンの額を狙っていた。
咄嗟に抜いたアルゴルの根元で己の頭部を庇うと、とても魔道士とは思えない力で刃が押し込まれた。
真剣に対峙しなければ殺されると、肌をびりびりと焼くような、その剥き出しな殺気が伝えてくる。ルガジーンは奥歯を食いしばり、渾身の力で両手鎌の刃を押し返した。
背後へよろめくかと思われたガダラルは、身軽さを示すように小さく飛び退き、同時に横なぎに更に鎌を繰り出してくる。
利き手で逆手に持ち替えたアルゴルで受け流し、横へと足を運びながら、なんとか鎌を収めさせる手はないかと必死に考えた。
こんな猛攻撃の合間に強力な魔法を浴びせられては、一気に体力を削られる。魔力の程は、先ほど焼き尽くされた窪地を見れば一目瞭然だ。
だが、本気で彼を打ち倒すわけにもいかない。
「貴様、何を手加減している!」
ルガジーンから全く殺気を感じ取れないことに気付いたらしく、ガダラルは半分ターバンに隠れた眉とまなじりを吊り上げ、気炎を吐いた。
この男は火だ。
近寄る者を焦がし、敵味方問わず灰にする炎だ。だがルガジーンは、己の身を滅ぼすと分かっていても、そこに近寄ってしまう哀れな生物のひとつに過ぎないと知った。
自然と力の篭る手、目と腹の奥で滾る熱い気力は、強い者を前に挑まざるを得ない戦士の証である。
「なめるなぁ!」
下方から振り上げられた鎌の刃が、ルガジーンの兜の狭い鍔を跳ね上げ、勢いで留め具を壊して数メートル離れた場所までふき飛ばした。
ルガジーンは衝撃に耐え、近寄ったガダラルの肩へ片手を伸ばす。
イギト装備は布地こそ厚いが、鎧甲冑などとは違う魔道士専用の装備だ。大きな手で鷲掴んだ肩は予想外に細く、どこからこれほどの力が出るのか、疑問に思うほどだった。
揺さぶるように強く肩を掴み、もう一方の手にあったアルゴルを放して、空いた手で鎌を掴む手首を取った。
まさかガダラルも、相手が武器を放棄してまで掴みかかるとは思っていなかったのだろう。驚愕の声を上げながら、ルガジーンの力に耐え切れず、後ろへ倒れ込んだ。
鎌がその手から外れ、地面に押し倒された頭からターバンが落ちる。焼け焦げた土の地面に明るい茶の髪が広がる様子は、まるで血が染み込んで行くような、恐ろしげで、同時に幻想的な光景だった。
「きさまぁ、離せ! 離しやがれっ」
右肩と左手を押さえつけられても、まるで手負いの獣のように暴れる男を、ルガジーンはまさに猛獣を捕獲するといった具合で捕らえていた。
「君は、私の言葉が理解できないのか。皇国より来た援軍だと、どうして信用しない」
同時にはたと気付いて周囲を見渡すが、幸い敗走していく背中以外敵兵の姿はなかった。
「この状況で貴様が味方と信じられるアホウがいるか!」
まさに自由になるのは口だけとばかりに、大変な剣幕でまくしたてる男に、ルガジーンは何故か笑いが溢れそうになった。
これだけ苦労して探し出した男に、まさかいきなり斬りかかられるとは。
宰相が聞いたら、さぞ腹を抱えて笑うことだろう。
「か、閣下! 何をしていらっしゃるんです! おやめください!」
突然背後から上がった叫びは、騎鳥と共に駆けつけたビヤーダだった。
顔を巡らせると隣にはジェミとパル・バルゴもいる。三人とも顔面蒼白で、こちらへ走り寄って来た。
彼らにしても、まさか双隊の将がもみ合って、しかもルガジーンがガダラル旅団長を押し倒しているとは露とも思っていなかったであろう。
「ガダラル様ぁ! その御方は皇都より入らした天蛇将様です!」
パル・バルゴは恐らくジェミから聞いたのだろう事実を叫びながら、小さな全身を使って驚きまでも表現している。
「天蛇将、だと」
ガラダルは抵抗の力を僅かに弱め、近くで立ち止まったジェミとパル・バルゴへ交互に視線で問い、ついでに初対面のビヤーダを仰向けのまま見上げた。
「ええ! 我らの援護に来てくださったのです! 天蛇将ルガジーン様の部隊です」
ジェミがガダラルとの再会に涙さえ浮かべて叫ぶと、ガダラルは組み伏せるルガジーンの顔を静かな表情で見上げ、感情も押さえた声で言った。
「では、貴様が天蛇将ルガジーンか。本当に」
「ああ。御初にお目にかかる」
まっすぐに見下ろした顔は黒く汚れてはいたが、写真で見た以上に若々しく整っており、同時に奇妙なほど匂い立つ何かを感じた。物理的な匂いとは違う。
この、脳髄深く届く強烈なこれは、生き物の気配だった。
体力と魔力を削られ、瀕死とも言っていい状態でありながら、他を圧倒する生命力だ。
ルガジーンはその未知の感覚に戸惑いながら、ブラックオパールのような灰みを帯びた青い瞳に魅入った。
ガダラルの視線から、一瞬だけ漂った安堵の気配は、敵兵に包囲された中で張り詰めたものが、援軍の登場で切れた瞬間だったのだろうか。
だが、みるみるうちに、そこに険悪で凶暴な、憎しみとも思える感情が湧きあがる過程を、ルガジーンは目にしていた。
突然ルガジーンの左肩、鎧の下が燃え上がるような熱さに見舞われ、飛び上がりそうになるのをなんとか武人の意地で押さえ込む。視線を動かすと、右肩を組み敷かれながら持ち上がった彼の右手先がルガジーンの肩あたりに向けられていた。
掌からは火炎特有のオレンジの光が放たれ、鎧の下からは何かがこげるような匂いが鼻をついた。
「閣下!」
「おやめください、ガダラル様!」
「隊長っ! 何してるんですかぁ!」
状況に必死の声を上げる三人の部下たちを振り返ることなく、ルガジーンはガダラルの身体を突き飛ばし、再び数歩の距離を置いて対峙した。
「何をする。ガダラル将軍」
鎧こそ変化はないものの、ルガジーンの赤い下衣は細かい灰のようになって地面に散った。再び部下たちは驚きと動揺の悲鳴を上げたが、二人の間にある緊迫した空気に、動くことすら出来なくなっていた。
「何を、だと? 歓迎の印だ。貴様が来るのを、こちとら首を長くして待ってたんだからなぁ」
「こちらは、必死で君達の部隊を探した」
二人とも既に武器は手にない。素手では黒魔法をあやつるガダラルの方が有利だが、ルガジーンとて多少の神聖魔法は使うことができる。
しかしガダラルは、それ以上魔法を詠唱しようとはしなかった。
代わりに、それまでと変化のない口調でありながら、決しておろそかに出来ないような、明瞭な叫びがルガジーンを硬直させた。
「では見たか、貴様の目で。ここで何が行われて、どんな顔の兵士が朽ちて行ったのか、貴様の、その目で見たか!?」
その魔力を秘めた両眼で射すくめられたルガジーンは、緊張していた両腕を脇へ下ろし、鬼神の断罪の声を聞いていた。
「ここじゃ貴様より若い兵が次々倒れていきやがる。天蛇将だかなんだか知らないが、分かったような面で、遠い皇都の奥でふんぞり返ってる奴へ、ここで何が起こっているかも知らせねぇ内に、オレがここから退く訳にはいかねぇんだよっ!」
敵兵が敗走し、戦いが終わった戦場には今、静寂があった。
味方の兵が続々と集まってくる中、満身創痍のガダラルとルガジーンだけが、向かい合ったまま、武器も持たずに立ち尽くしていた。
いつ終わるともしれなかった双隊の長の睨み合いを、期せずして途切れさせたのは、ガダラルの方だった。
薄い唇が短い悪態を呟いたと思った途端、突然前のめりに倒れ込んだのである。
驚いて弾かれたように駆け寄ったルガジーンが彼を起こすと、その額と頭皮は冷たい汗でびっしょりと濡れ、顔面は死人のように真っ白だった。
すぐに白魔道士が呼ばれ、回復治療を施すと目を開いたが、ルガジーンの支える腕を跳ね除けたその力は頼りないほど弱かった。
おりしも、ルガジーン隊のリンクシェルからは、他のガダラル隊の小隊が、すべてクメルデンへ集合したと報告が入り、ガダラル隊は負傷した身を抱き合い、生きる希望を分かち合った。
「君に言い分もあろうが、今はとりあえずクメルデンまで退く。いいな、ガダラル殿」
一連の報告とルガジーンの指示を、表情ひとつ動かさず淡々と聞いていたガダラルは、ふらつく身体でジェミの鞍の後ろへ自力で這い上がったものの、ルガジーンへは返答ひとつ漏らさなかった。
余りに無碍な態度に、ルガジーン隊の一部からは批難の視線が集まり、ビヤーダも周囲に聞こえない小声で呟いた。
「閣下、あれではあまりに」
「よいのだ」
負傷者を優先的に鞍へ上げ、ゆっくりとクメルデンへ引き返すルガジーン隊とガダラル隊の正面には今暮れ行く夕陽があった。
横目で見やったガダラルはジェミの鞍の後ろで、脱力したように部下の背に身体をもたれさせ、彼女からこれまでの経緯や戦況報告を受けながら、肩越しの西日をまっすぐに見つめていた。赤く染まった顔は、さきほどの顔色の悪さを感じさせはしなかったが、写真よりは幾分やつれて見えた。
穏やかにも見える今の表情と、あのガルカの伝令が言っていた通り、容易く触れることも出来ない鬼神の形相の落差が、ルガジーンにはまだ受け入れきれていない。
こっそりガダラルの様子を眺めていたルガジーンは、ふと、彼の顔が強張ったことに気付いた。
ジェミの肩越しに、すこし前方の地面を食い入るように見つめている。
あらゆる感情を内包した目が、動揺し、震えるのが分かった。
「あれは」
ガダラルの声に気付いたジェミが、はっと身体を揺らし、応えあぐねた挙句、口を開いた。
「……サジタリアです、ガダラル様」
ガダラルは突然力を得たようにチョコボから飛び降り、前をゆっくり進む歩兵と騎鳥の間を抜けて、林の脇に横たわる皇国兵の遺体に歩み寄った。
昼間の往路で、ジェミが遺品を取っていたガダラルの側近だったという男の躯だ。
ジェミが隊列の端に寄って騎鳥を降り、ルガジーンは手を挙げて進軍を止めさせた。
ガダラルは土の地面に膝をつき、側近だったというエルヴァーンの男を見下ろしているものの、その躯に手を伸ばすのを躊躇するように、酷くうろたえた様子に見えた。
この地域は標高が高いこともあり、今の季節でもかなり気温は低い。皇都アルザビよりは遥かに寒く、遺体の腐敗は目に見えるほど進んではいなかった。
それでも、彼が命を落として日が経っていることは、ガダラルにも一目瞭然のはずだ。
「サジタリア」
一度、呼びかける声は進軍の止まった林によく響いていた。
恐らくガダラル隊では名を馳せた男だったのであろう。東部では羅刹と神格化されたガダラルの側近の一人であれば尚のことである。彼を知るらしいガダラル隊の中から、嗚咽を堪える声がかすかに上がる。
ルガジーンはその躯を運ぶのを手伝おうと、騎鳥を降り、ガダラルに近づいた。
鎧の小鎧が鳴る音にガダラルが振り返る。
ルガジーンはその見上げてくる顔の、まるで歳相応な表情に、心臓を捕まれるほど驚いた。
「貴様!」
口調こそ変わらず、だが胸倉に掴みかかってくる彼の目だけが、見たこともないほど必死な色を帯びていた。
「天蛇将、貴様、ナイトだろう! レイズ、ケアル、なんでもいい。早くこいつを起こせ」
激しく胸元を掴まれ、揺さぶられても、その手を外させることは躊躇われた。
彼がこうしてしがみつくのは、まるで、逃げ出したくなるような過酷な現実へ、彼を唯一繋ぎとめる場所のような気がしたからだ。
「もう……無理だ。彼は数日前の戦いで命を落としている」
「うるせぇ! 無理でもなんでも起こせっつってんだ、ヘボ騎士が! 畜生……白魔道士はいないのか!」
「ガダラル様!」
ジェミが上官を諌めるように叫んだ。萎れた耳と尻尾は完全に地を向いて、その目には涙が浮かんでいる。
「高位の白魔道士でも、もう無理なんです」
言外に、あなたにはもうとっくにお分かりだろう、と。
ガダラルはルガジーンの胸の辺りを見つめたまま、掴んだ両手をゆっくりと離し、身体のわきにだらりと下ろした。
「ビヤーダ」
「は」
ルガジーンは騎鳥から降りてきた部下を見下ろして、ごく小さな声で指示した。
「君と私たちだけを置いて、隊を先に進ませるように先頭の小隊へ伝えろ。クメルデンで先に休息を取っていてくれ、と。私たちは後から追いかける」
「御意」
ビヤーダが進軍の先頭へ走っていくのを見送り、今度はすぐ近くに立つミスラへ呼びかけた。
「ジェミ、君の騎鳥をガダラル殿に貸して、先に皆と進んでくれないか」
「はい」
ジェミは近くの木にチョコボを軽くつなぎ、自分は歩兵と共に進軍の列に戻る。
何事もなかったように静かに進み出した隊列の脇で、ガダラルは再び側近だった男に向き直り、その躯の横に腰を下ろしていた。
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西の斜面に面した場所は比較的日没が遅い。とはいえ、林の中では影が多く、視界が悪くなって、あたりには夜の気配が漂い始めた。
進軍を再開したルガジーン隊とガラダル隊の最後尾が見えなくなり、もう十分ほど時間が経過しているが、ガダラルは動かなかった。
「なぜ、貴様が残ったんだ」
躯の前に座り込むガダラルが突然ぽつりと呟いた。
その十歩ほど後ろに、ルガジーンもまた腰を下ろしている。ビヤーダは随分離れた場所を音もなく動き回り、周囲に敵兵が現れないか警戒しているようだった。
「君を必ず無事に連れ戻すと、君の部隊と約束をしたから」
ガダラルはふんと鼻で笑うような音を立て、ずっと部下の亡骸に据えていた視線を肩越しにルガジーンへと振った。
「貴様は、本当に天蛇将か? 将軍らしくないな」
「そうかな」
実際のところ、無論彼の部下との約束もあるが、彼を捨て置けなかったのはルガジーンの単なる私情だった。まるで子供のように、近しい部下の死に動揺しながら、彼は涙のひと雫も零さなかった。
それが決して情が薄いと思っている訳ではない。むしろ過酷な前線に長くいて、多くの戦死者との別れを誰よりも経験しているはずの彼が、たった一人の部下の死に、これほど感情的になるとは思っていなかったのだ。
「こいつは皇都に帰りたがってた」
ルガジーンは顔を上げ、ガダラルの横顔を覗き込んだ。自分に対して語りかける彼が少し意外に思えたのだ。
いや、どちらかというと、独り言のようなものなのだろうか。
部下の躯を見つめつづける顔は、先ほどのような激しい感情は窺わせない静かなものだった。
「多くの奴らが東部からの撤退に反対してる中で、こいつは皇都に戻って、猫でも飼って、のんびり怠惰に暮らしたいってのが口癖だった。都へ帰りたい奴を、優先的に先に撤退する部隊に編成していったが、こいつはそれでもオレの直属から外れようはしなかった」
「なぜ?」
さてな、と肩をすくめたガダラルは立ち上がって尻についた土を払うと、顔を巡らせて近くに落ちていた膝丈ほどの小枝を拾い上げた。
「奴が何を思っていたのかはしらねぇよ。……けどな」
ガダラルは一度言葉と途切れさせ、部下の遺体の腕を掴み、少し木々がまばらになった中央にその身体を引きずって移動させている。
慌てて立ち上がって手を貸したルガジーンをガダラルは拒絶せず、無言で拓けた場所まで移動させてやると、小さく頷いてそれでいいと呟いた。
ガダラルは拾った小枝を使って、遺体を中心とする地面に、おもむろに図と文字を描き始めた。
それが何かの魔法陣だと気付き、邪魔にならないように少し下がってその挙動を見守る。時折、ルガジーンには聞き取れない古代語のようなものを呟きながら、彼は黙々と図を完成させていった。
「自分をオレの部隊から外したら、命令違反をするとぬかしやがった」
語尾は吐き出すようにかすれ、魔法陣を描き終えた枝をばきりと音を立てて片手で折る。
恐らくは───。
姿勢を正して、両手の掌を胸の前で向かい合わせ、長い魔法を詠唱し始めたガダラルの横に並んで、ルガジーンは魔法陣の中央に横たわる自分と同じ種族の男を見下ろした。
恐らくこの兵士は、彼の上官が好きだったのだ。
鉄砲玉のような魔道士と共に戦うことに、誇りを感じていたのだ。
死した兵士の短く刈り上げた金色の髪は、土と埃と血液に汚れて乱れていたが、その顔はどこか安堵したようにも、戦士としての最期を、共に戦ってきたガダラルに見送られることを喜んでいるように思えた。
長い長い詠唱が終わり、両手を水平に広げたガダラルの面を、眼前に燃え上がった青い炎が染める。これは普通の火炎の魔法とは異なるようだ。
「弔いの魔法陣だ。躯を送るまで、火は消えない」
普通にものが燃えるのとは違い、熱さを殆ど感じない、煙も上げない炎は遺体を包み、静かに巨大な青い火柱を魔法陣の中央に立ち上らせている。
「五分ほどで、荼毘になる。貴様は先に部下と進め。だいぶ遅れた」
まっすぐに上げた青く染まる顔を見つめたまま、ルガジーンは頭を振った。
「子供じゃねえんだ。オレもすぐに追う」
「だめだ」
「なんだと」
横目で睨まれたが、ルガジーンは静かにその視線を受け止めた。
「私は、この兵士の人となりは知らぬが、今ここで君一人を置いて先に行ったら、彼に怒られそうな気がしてならない」
生きている姿を見たこともないのに、『なぜこの人を置いていく』となじる姿が目に浮かぶようだった。
ガダラルは一瞬言葉に詰まったように黙り込み、こちらへ向けていた視線を正面の青い炎へ戻した。
「馬鹿め」
変わらず口さがない彼の調子に慣れてくると、微妙な感情の揺れ動きが見えてくるような気がした。思わずルガジーンの口元には静かな笑みが浮かんだ。
いつしかすっかり日が落ち、夜の闇に満たされつつある山野を、優しい青い光が照らし出している。
頬に光を受けたガダラルのどこかひたむきな横顔を、弔いの光が消えるまでルガジーンはずっと見つめ続けていた。
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それから四日後、よく晴れた皇都アルザビに、ルガジーン隊とガダラル旅団帰還の報せがもたらされた。
鬼神の名を都にまで広めつつあった旅団長の姿を見ようと、人民区の城壁には兵士や人民が大量に詰め掛けていたが、誰もがその凛々しく、姿勢よく騎鳥に跨る様は、天蛇将に推挙される炎蛇将の位に相応しいと噂した。
人民を始め、皇都にある皇国兵の末端までが、彼の本当の姿を見知り、炎蛇将に任命されるのはもう少し後の話となる。
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襟を乱し風の声1
2007.11.18 (了)
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